久しぶりに、都内にある某大学のキャンパスへ出かける機会ができ、キャンパスじゅうを歩いて学生たちと話をしてきた。学食でランチを食べたり、史的資料がぎっしり詰まった研究室で休息したりと、なんだか学生時代にもどったような懐かしい1日だった。学食のメニューは信じられないほど充実しており、400円も出すとボリュームたっぷりの豪華なメニューが食べられる。有名な洋食屋と大学との協同運営で、ステーキランチ650円にはビックリした。わたしが出た1970年代後半から80年代にかけての大学とは、“食糧事情”が雲泥の差なのだ。わたしの時代には、学生会館にあったほとんど具の入っていない、学食の100円カレー(のち150円に)が人気だった。
ところで、いまの大学キャンパスを歩いてみて、いちばん印象深く感じたことは、女子学生の数がやたら多いということだ。わたしがうかがったのは各学部が揃っている総合大学のはずなのだが、キャンパスはまるで女子大学へ出かけたようだった。この現象は、別にこの大学に限らず、わたしの母校にも常々感じていることだ。男子学生の数が相対的に減ってしまったものか、キャンパスを往来するのは女子学生ばかりが目につく。(もっとも、そもそも講義へ出てこない男子学生は、割り引いて考えなければならないだろう) 今回は、学生たちへの取材で出かけたのだが、教授たちが紹介してくださった学生10人のうち、なんと9人までが女子学生だった。女子の割合がなんと90%。おかげで、話をするのがちょっとタイヘンだったけれど。w
わたしは知らない世代に属するのだが、1970年代末からスタートした共通1次試験とか、つづく大学入試センター試験の影響で、着実かつ地道にステップ・バイ・ステップで学習を積み重ねている、まじめで勉強をサボらない子たちが有利になり、わたしのようにいつもは遊んでいるのに、大学入試ではなんとか一発花火を打ち上げて、あわよくば合格ラインにひっかかってやろう……などという、ふとどき千万な生徒が激減したものだろうか。必然的に、ふだんから授業をちゃんと聴いてノートを几帳面にとっている生徒が多い、女子が有利になるのかもしれない。おそらく、いまわたしが受験をしたら、「もうちょっとマジメに高校で勉強して、成績がマシだったらよかったのにねえ」……と、内申書レベルですぐにハネられるような気がする。
驚くことは、まだある。教授と学生との距離が、わたしたちの時代に比べてかなり近接しているのだ。わたしの時代も、3・4年生になると専門別のゼミでは少人数のため、教授とはかなり親しく接することができたけれど、いまは入学したばかりの1年生(100人単位の大教室時代)から、気に入った講義の教授へ気軽に話しかけて勉強や進路のこと、あるいはさまざまな学内の相談事などを持ちこめるシステムのようだ。教授のほうも面倒がらず、ひとつひとつの相談にのってあげている様子には感心してしまった。わたしの時代なら、「自分で考えてなんとかしろ」と突き放していわれてしまいそうなことにも、きちんと対応しアドバイスしてあげているらしい。少子化のせいで、大学の評判や学生の質をたいせつに考えてのことなのだろうが、とてもうらやましく感じた点だ。
履修科目の選択や進路の相談では、大学に専門の相談窓口があるのもうらやましい。また、どの科目を履修すればどのような資格が取得できるのかも、すべて目的別やコース別で細かく相談にのってもらえる。わたしの学生時代は、ぜんぶ自己管理の自己責任でカリキュラムを組み立てて、必要な単位を履修しなければならず、細かなことまで相談できる専門窓口などほとんど存在しなかった。学部ごとに学生課はあったが、おもな業務は必要な書類などをやり取りするカウンター窓口であり、なにか気軽に相談を持ちこめるような部局ではなかった。
大学の評価や実績に直結するからだろう、就職のサポートもたいへん親切で手厚い。わたしの大学にも就職課は存在したが、利用したことがないので詳細はわからない。でも、傍らで友だちが利用しているのを眺めていると、まるでハローワークか不動産屋のような雰囲気だったのを憶えている。就職課の掲示板に張り出されている、各社の求人・募集の貼り紙をメモして相談カードに書きこみ、「ここの入社試験を受けてみたいんですけどぉ」とカードをカウンターに提出すると、係員が学生の学部や学科を見て「うーーん、キミは資格とかちゃんと取ってるの? なにか履歴書の資格欄に書きこめるものがないと、ここの1次書類審査は狭くてキビシーんだよ~ん」とか、「この会社は地方とか海外勤務が多いから、覚悟して入社しないと転職したOBが多いよ~ん」とか、そんなレベルの応談だった。ところが、今日の大学では就きたい仕事や方向性が漠然とでも見えていれば、1年生から相談にのってくれるそうだ。つまり、いまだ曖昧な将来の“夢”や仕事のイメージレベルから、履修しておいた方がいい科目のアドバイスにさえのってくれる。
こうまでいたれりつくせりだと、学生の自主性や主体性が育たないじゃないかなどという懸念Click!がアタマをもたげてくるのだけれど、どうやらそんな心配は杞憂のようだ。もちろん、個々の学生の性格にもよるのだろうが、少なくともわたしが取材した学生たちは、自分でしっかり自律して目的意識をもった学生生活を送らないと、面白くて充実した勉強が思うように進まないし、まずは自身が積極的に動きまわり視野を広げて多角的に学問をとらえ、興味のある研究テーマを早く見つけて主体的に取り組んでいくことがとても重要で大切だと思う……と、わたしの学生時代では信じられないような、強い問題意識や主体性をもった答えが返ってきた。別に、近くに担当教授や大学関係者がいて、彼らの言葉に聞き耳を立てているわけではなく、ラフな雰囲気で雑談風に訊ねたことに対する彼らの回答だ。わたしのように、とりあえずはこの大学に入って、それからなにかを探してみようか……などという、いきあたりばったりな姿勢ではないのだ。
ことさら、教授たちに紹介いただいた優等生に取材をした……という側面は否定できないけれど、学食やラウンジで他の学生の話に耳を傾けても、おしなべて彼女たち(彼ら)は真摯でマジメな雰囲気であり、くわえタバコで競馬新聞を拡げながら長椅子に寝っ転がっている(爆!)、大学のラウンジだか競馬場だかわからないような風情は、もはやどこにも存在していない。あるいは、キャンパスはきわめて清潔で美しく、もちろん立て看やところ狭しと貼られたサークルのポスター、風に吹かれてキャンパスに舞う夜目にも白いビラなど絶無だ。サークルのポスターや告知ビラなどは、ちゃんと「学生自由掲示板」に行儀よく貼られていた。
この大学環境を、「きちんと勉強しやすい、理想的な学府の姿だ」ととらえるか、「問題意識のレベルが現象面を脱しておらず、管理され飼いならされた羊ちゃんのようだ」ととらえるかは、各時代の世相を背景に大学生活を送った世代によって、おそらく千差万別だろう。少なくとも、勉強や研究というテーマのみに絞れば、わたしには非常にいい環境のように映るのだけれど、それでは得られない多彩な人間関係や、4年間しか許されない知的経験とそれ以外のさまざまな体験を味わうには、どこか高校生活の延長線上のような気がして、ちょっと物足りなく感じるのも確かなのだ。
まかりまちがっても、「我々は~理工学部のスト突入を最後とし~圧っ倒的な力を結集して~諸君とともに~全学バリストを克ちとり~今回の~学費値上げ阻止斗争を契機として~わが学園の自治破壊をもくろむ~大学当局の~分断マヌーバを粉砕し~歴史的な転回点をうつために~最後まで~徹底した要求貫徹と~来たるべき総長団交の~圧っ倒的な勝利をめざして~全学的に~断固起ち上がることを~改めてここに~宣言する!」というようなw、尻あがりの聞きづらい学生アジ演説Click!など、もはや風の音ばかりで、どこからも聞こえてきはしない。静寂なキャンパスの高層化した学舎の窓をたたくのは、遠くで救急車のサイレンが混じる、風の音だけだ。
◆写真:わたしが訪問した大学と、掲載している大学の写真とは関係がありません。