海外のオークションサイトを見ていたら、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!と思われる作品を見つけた。サイズがそれほど大きくない画像なので、細かなマチエールやタッチなどは仔細に観察できないのだが、色づかいといいデッサンの特徴といい、モチーフの選び方や表現法といい、おそらく佐伯作品にまちがいないだろう。佐伯はアトリエ周辺を頻繁に散策して、下落合を仔細に観察し街並みや地形を知悉して描いているので、実際に現場へ立つことなく適当に似せて描いた贋作の風景画は、その不自然さから案外ピンとくるものがあってすぐにわかる。
もともと、東京美術倶楽部の鑑定を受けたあと海外へ流出しているようで、15号サイズのキャンバス裏面には、制作年月日である1926年(大正15)9月20日という書きこみがあったか、あるいは「散歩道」という走り書きでもあったものか、1990年3月に同倶楽部で鑑定され「散歩道」というサブタイトルの規定がなされているようだ。確かに、佐伯の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月20日に、『下落合風景』シリーズの「曾宮さんの前」(20号)と「散歩道」(15号)の2テーマを制作している。ただし、これは2作を描いたということではなく、現在わかっているだけで「曾宮さんの前」Click!と思われる諏訪谷Click!を描いた画面が、画角をやや変えて2種類確認できており、制作メモのタイトルはあくまでモチーフやテーマの“くくりタイトル”として記載された可能性が高い。佐伯は、同一の風景を1日でキャンバスに4~5枚描くこともめずらしくなかったので、1タイトル1作品とはまったく限らないのだ。
この作品が現在、なぜ海外の市場に存在するのかは不明だが、少なくとも1990年以降に流出したとすれば、投機対象として絵画を収集していた個人の所有者が、バブル崩壊と同時にあっさり手放したものだろうか。あるいは、戦後すぐのころから国外にあり、どこかの国の所有者が東京美術倶楽部に鑑定してもらうため、一度日本へ里帰りしている作品ということだろうか。2001年には、米国の大手オークション「クリスティーズ」にかけられているが、現在はヨーロッパ(イタリア?)の市場にあるようだ。いずれにせよ、朝日新聞社の『佐伯祐三全画集』(1979年)にも、また過去の佐伯展とその図録にも出品・掲載されたことのない、めずらしい画面だ。
さて、画面を詳しく観察してみよう。手前から奥へと向かう二間道路を描く、佐伯らしいパースのきいた画面には、原っぱないしは宅地造成を終えた敷地の向こうに、垣根をめぐらした生垣のある日本家屋が3棟並んでいる。道路は、突きあたりでT字路になっているか、あるいは左右どちらかへ屈曲しており、遠景には比較的広い敷地に建っていると思われる家々が描かれている。道路の右手も、宅地として整備されているのだろう、垣根や縁石のようなものが見えるので、住宅が建っていると想定できる。「散歩道」は、「曾宮さんの前」と同日に描かれているので、素直に考えればこの風景は曾宮一念アトリエClick!からほど近い情景ではないか?……と仮定することができる。
また、「散歩道」というタイトルからは、佐伯がいつも歩き馴れている道筋であり、その道の周辺には他の『下落合風景』に関わる描画ポイントが存在している……と仮定しても、あながち的外れではないだろう。佐伯がよく歩きまわっている道筋は、自身のアトリエにほど近い西側の「八島さんの前通り」Click!や、目白文化村Click!の東西南北に通う二間道路や三間道路のコース、目白崖線から丘下へと通う坂道のいくつかと、丘下を横断する鎌倉街道=中ノ道Click!(雑司ヶ谷道Click!)、そして佐伯アトリエの東側に位置する「曾宮さんの前」=諏訪谷から、薬王院墓地Click!方面へと抜ける久七坂筋Click!とその周辺域いうことになる。この中で、「散歩道」に見あう描画ポイントは発見できるだろうか?
射光は手前、すなわち佐伯の背後あるいはほぼ真上から当たっているように見え、家々の庭が母家の手前にあることを考慮すれば、佐伯の背後は南側、すなわち佐伯は北側に向かってイーゼルを立てているように見える。木々の緑はいまだ色濃く繁っており、9月下旬の情景としては矛盾していない。地面はほぼ平坦であり、遠景に丘や崖を想起させるような隆起が見られないので、下落合の丘上の風景と想定してもいいだろうか。
実は、この画面には大きな特徴がみられるのだ。下落合に建てられた住宅の多くは、華族やおカネ持ちの大屋敷、目白文化村や近衛町Click!、アビラ村Click!などの邸宅群を除けば、たいがい100坪前後のお宅が多い。東京府住宅協会の住宅資金積立て制度を利用して建てられた、一戸建ての府営住宅Click!も80~100坪ほどの敷地で、今日に比べれば建物と建物との間がそれほど窮屈にならないほどの間隔で建設されている。ところが、画面左手に建ち並んだ同一規格と思われる住宅群は、軒と軒とが接するほどきわめて近接して横並びに、すなわち東西方向と思われる向きで建てられている。このような住宅は、旧・下落合(中落合・中井含む)広しといえども、ほとんど存在していない。
すなわち、以下のような条件をクリアする場所が、佐伯の描画ポイントだ。
①同一規格の住宅が3軒(以上)連続して、横方向(おそらく東西)に並んでいる。
②その家と家との軒先が、下落合では稀有なほど非常に近接している。
③家々の手前は宅地造成地か原っぱ、あるいは畑の名残りがある空き地状態。
④道路の先が左右どちらかへクランクしているるか、またはT字路の形状。
⑤佐伯がよく歩く、つまりほかにも近くに描画ポイントのあると思われる道筋。
⑥1926年(大正15)に建っている住宅で、「下落合事情明細図」にも記載がある。
実は画面を見たとたん、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」と1936年(昭和11)の空中写真をいつも見比べているわたしには、どこを描いたのかがピンときた。空中写真を細かに観察していて、実は不思議に感じていたエリアがあったのだ。先述のように、下落合に建つ住宅群は敷地が比較的広いせいか、一般住宅でも家々の間には、現代の住宅街のように軒が接するようなことはなく、少なからず“すき間”が開いている。でも、空中写真を観察していて、まるで現代の新築一戸建ての販売現地のような場所を見つけて、「大正期なのにめずらしいな」……と感じていた一画があったのだ。
おそらく、地主が建設した統一規格の借家群ではないかと思われるのだが、興味深いポイントとしてわたしの印象に強く残っていた。このような街角は、ほぼ10年後の1936年(昭和11)現在の空中写真でさえ、落合地域すべてを仔細に観察しても、ほんの数ヶ所しか発見できない。ましてや、1926年(大正15)現在ともなると、周辺の風情も含めて1ヶ所に絞りこむことが容易だった。本作は佐伯アトリエの南東側、青柳ヶ原Click!を越えた久七坂筋の路上から、北の諏訪谷のある方角を向いて描いた作品だと思われる。すなわち、画面左手の住宅の地番が下落合739番地になる敷地一帯だ。
現在の街並みでいうなら、F.L.ライトの弟子である遠藤新Click!が設計した小林邸Click!(1934年築)の真ん前から、北へ向けて左(西側)へとクランクする道を描いている。しかも、現在でさえ東京電燈(現・東京電力)の電柱Click!が、当時とほとんど変わらない位置に建っている。ちなみに、このあたり一帯はかろうじて空襲をまぬがれており、戦後まで古い家々がそのまま残っていたエリアで、わたしも1970年代に往年の街並みを観察している。現在でも、先の小林邸をはじめ、その昔、聖母坂のマンションに住んでいたころ毎日眺めていた、青い屋根のそびえる大きな西洋館、黒瓦に外壁がこげ茶に塗られた昔ながらのしぶい和館、佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に描かれた高嶺邸Click!……と、狭いエリアのあちこちで近代建築を鑑賞することができる楽しい街角でもある。
近くには、「セメントの坪(ヘイ)」=曾宮一念アトリエ前Click!(1926年10月23日)をはじめ「曾宮さんの前」=諏訪谷(9月20日)、「浅川ヘイ」Click!=浅川秀次邸(10月23日)、「墓のある風景」Click!=薬王院旧墓地(9月22日)、「見下シ(?)」Click!=久七坂池田邸(10月1日)……などの風景が密集する、佐伯が早い時期に描いた『下落合風景』の描画ポイントだらけの場所なのだ。新たに発見した「散歩道」(9月20日)=下落合739番地は、これら描画ポイントのほぼ中央に位置する作品ということになる。
さらに面白いのは、佐伯祐三アトリエから東へ向かって歩いた場合の、佐伯の“いつもの散歩道”をおよそ想定できる点だ。佐伯は、青柳ヶ原(現・聖母病院)を越えて東京美術学校の恩師である森田亀之助Click!(のち隣家が里見勝蔵邸Click!)や二科仲間の曾宮一念邸、その南に拡がる諏訪谷Click!などを通りすぎると、浅川邸の塀沿いに子育地蔵のある下落合を斜めに横切る通りへとは抜けず、手前で薬王院のほうへ右折(南下)している。そして薬王院の森(現・新墓地)から旧墓地をセメントの塀沿いに歩き、目白崖線の淵へと出て新宿方面を眺めたのだろう。すぐ下(南斜面)にある池田邸の、鯱の載った大きな赤い屋根を左手(南)に見つつ広い空き地を西へ歩き久七坂の途中に出ると、今度は同道筋を北へとたどり、再び曾宮アトリエ前の諏訪谷へもどってくるという散歩コースだ。佐伯はこのコース上に展開する風景を、「森たさんのトナリ」Click!や「雪景色」も含めると、判明しているだけで10点以上も制作していることになる。(実数はもっと多いだろう)
では、描かれている家々を特定してみよう。まず、1926年(大正15)現在で3棟つながった家の右側は竹山邸で、真ん中が清水邸だ。左端に3分の1ほど見えている家は、同年の「下落合事情明細図」が記録した時点では空き家となっている。また、道路をはさんだ右手は大きな山崎邸の生垣だ。のち、1934年(昭和9)に遠藤新設計の小林邸が竣工することになる、下落合805番地の敷地だ。また、山崎邸の敷地の先が途切れているように見えるのは、薬王院の森Click!(現・新墓地)へと向かう東西の道路があるからだ。
久七坂筋の道路はこの先、やや左(西側)に向けて屈曲している。正面奥に見えている、グレーの屋根で比較的大きな2階家は、以前こちらでもご紹介した高橋五山Click!の父親である大正期の高橋五三郎邸だ。その右手にちらりと上部が見えている屋根は、リニューアル前の船越邸ではないかと思われる。また、船越邸の手前に見えている、傾斜角の急な屋根をもつ平屋らしい住宅は、西側に広めの庭を設定した大正期の小室邸だろう。
画面左側の宅地には、なにやら白っぽい描きこみが見えている。わたしは、空が反射している水たまりだと想定したのだが、案のじょう、この絵が描かれた9月20日(火)は晴れているものの、9月18日(日)・19日(月)は2日連続して小雨が降っていた。(それでも佐伯はスケッチしに外出してるが) 佐伯は、ようやく太陽が顔を出した日に喜んで散歩に出かけ、前日までの雨でぬかるんだ道を歩きにくそうに靴を泥だらけにしながら、久七坂筋のほぼ中ほどにイーゼルを据えて本作を描いている。
◆写真上:1926年9月20日制作の、海外にある佐伯祐三『下落合風景(散歩道)』。
◆写真中上:上・中は、空襲をまぬがれたエリアなので現在でもあちこちに大正末から昭和初期の近代建築を見ることができる。下左は、庭木として流行したらしい画面のサワラ?(スギ科)の樹も巨大化して残る。下右は、道を歩く人物の拡大。ジャケット姿で帽子をかぶり、スケッチブックのようなものを手にしているので画家を連想させる。下落合をスケッチして歩く笠原吉太郎Click!、あるいは佐伯の仕事をのぞきにきた曾宮一念Click!だろうか。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」(左)と、1938年(昭和13)の「火保図」(右)にみる描画ポイント。中は、1936年(昭和11)の空中写真(左)と、1947年(昭和22)の米軍写真(右)にみる描画ポイントの家々。下は、画面にみる家々の規定。
◆写真下:上は、描画ポイントからほぼ同じ画角で眺めた現状で、画面に描かれた3本の電柱はいまもほぼ同じ位置に建っている。中左は、道路の屈曲部分で右折すると薬王院の森(現・新墓地)へと抜ける。中右は、卒塔婆がよく見えるように上から撮影した薬王院旧墓地の塀。下は、1936年(昭和11)の写真にみる佐伯祐三の散歩コース。