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井荻の自邸Click!が全焼し、下落合2丁目1146番地の実家Click!へもどった外山卯三郎Click!は、1948年(昭和23)に『前田寛治研究』を執筆し、翌年に建設社から出版している。戦後すぐのため物資が不足していたのだろう、粗末な用紙にソフトカバー仕様の本書は、今日まで古書市場に残っているものは傷みが激しい。そんな中で、比較的傷みの少ない同書を古本屋で見つけたので、さっそく入手した。
外山卯三郎は本書で、下落合の実家を「下落合1146番地」と記しているが、大正末から昭和初期の落合町時代には下落合(2丁目)1147番地、淀橋区の時代には下落合2丁目1138番地、そして新宿区が成立した1947年(昭和22)からは下落合2丁目1146番地となっている。ちなみに、現在は中落合1丁目2番地に相当するのだが、外山邸の敷地北側の大半は、十三間通り(新目白通り)の下になってしまっている。
この本が現在、なぜ復刻されて単行本化されていないのか、あるいはどこか出版社の文庫に入っていないのかが不明だ。前田寛治Click!についてまとめた伝記本、あるいは作品についての評論本としては、たいへんまとまりのある充実した内容となっている。外山は、前田の故郷である鳥取まで出かけ、前田の幼年時代から1930年(昭和5)に死去するまで、その足跡をていねいにたどっている。残された愛子夫人と息子への聞き取り調査や、前田の絵画作品はもちろん、彼の詩作や日記も含めその生涯を全的にとらえた労作だ。おそらく、1930年協会Click!の画家たちの中では、戦後、外山卯三郎がその紹介にもっとも力を入れた画家ではないだろうか。
外山卯三郎の『前田寛治研究』に挿入された序文から、引用してみよう。
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昨年は二十年がかりで資料を集めて書いてゐた「日本洋画史」をまとめるために暮してしまつた。その仕事をしてゐる間にも、前田の芸術が日本洋画史に極めて重要な位置を占めてゐるので、もう一度再認識をしなければならないと考へてゐた。ことにその代表的な作品が、前田未亡人の郷里に保存されてゐるために、殆んど見ることができず、美術文化に寄与する点でも、極めて残念なことである。さうしたことを美術研究所でも話しあつたことであつた。/偶然にも昨秋十一月の初めに、前田君の一人息子の棟一郎君が来訪された。
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この序文によれば同書執筆のきっかけは、前田寛治の遺児である前田棟一郎が1948年(昭和23)11月の初めに、下落合の外山邸を訪問したときからスタートしているようだ。外見が父親にそっくりな前田棟一郎に、外山卯三郎は時間が20年ほど逆もどりしたような不思議な感覚にとらわれたらしい。その訪問の直後、外山はすぐに鳥取へと旅立っている。同書の脱稿は翌1949年(昭和24)1月25日なので、速筆の外山はわずか3ヶ月弱で『前田寛治研究』を執筆したことになる。
もっとも、『日本洋画史』を執筆する準備のため、かなり詳細なノートをつくっていたので、きわめてスピーディに筆が起こせたのかもしれない。すばやい『前田寛治研究』の出版に対して、『日本洋画史』全4巻が日貿出版社から刊行されたのは、30年後の1978~1979年(昭和53~54)にかけてだった。つづけて、鳥取へと向かう第1章「前田寛治の生涯」の冒頭から引用しよう。
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東海道線から山陰線にのりかへると、急に車が悪くなるだけでなく、自然が急激に陰気になつて、物さびしい風景が展開しはじめる。山かげが多くなり、しとしと雨が降つて、窓外に点在してゐる農家も、人影のすくない寒さうな風情が感じられはじめた。私は十数年もまへに、一度この山陰地方にきたことがあつたが、それは夏のことで、山あり水ありするこの地方が、涼しさうで、それほど物さびしくは感じなかつた。それが今度は冬のためか、光線もくらいし、乗客もまばらで、すべてがもの悲しい感じにみたされた。/鳥取県に入ると海岸に砂丘(デューン)が多くなり、泥沢地が多くなつて、風景の性格が変つてくる。
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まるで、記録文学を読むような書き出しとともに、外山卯三郎は敗戦から間もない時期に、前田寛治の生誕からその死までの軌跡をていねいに追いつづけている。
同書には、前田家に保存されていた習作やデッサン類、貴重な写真なども、戦後すぐの拙い印刷ながら掲載されている。その中で、まず目を惹くのは荻窪駅近くの杉並町天沼287番地に建設された前田寛治アトリエ、すなわち前田写実研究所の内部の様子だ。前田寛治と弟子たちがいっしょに撮影された記念写真や、ひとり息子の棟一郎とともに『棟梁の家族』(1928年)のキャンバスが写る、前田アトリエ内の様子がわかる。長崎と下落合を転々とした前田寛治だが、1928年(昭和3)7月に杉並町天沼へ沼沢忠雄の「湯島自由画室」を移築し、初めて自分のアトリエをもつことになった。『棟梁の家族』は、おそらく移築作業にかかわった大工一家の肖像を描いたものだろう。
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また、1930年協会が1928年(昭和3)5月に代々木の山谷小学校で開催した、同協会の第1回美術講演会の記念写真がめずらしい。当時、代々木山谷160番地には、前年の1927年(昭和2)春に開設された1930年協会洋画研究所があり、洋画家の工藤信太郎が常駐していた。講演会の記念写真は、小学校の風情には見えないので代々木山谷160番地にあった、1930年協会洋画研究所の可能性もありそうだ。いっしょに写っている人々の中には、同研究所の研究生も混じっているにちがいない。
カメラにとらえられた人物たちを見ると、中央に小島善太郎Click!が、その右隣りはいつものポーズで腕を組む林武Click!の姿が見え、小島の真うしろには外山卯三郎が顔をのぞかせている。また、小島善太郎の左隣りのモダンな断髪でスマートな女性は、娘を連れて講演会を聞きにきた藤川栄子Click!だろうか。小島のうしろ左手には、里見勝蔵Click!と前田寛治Click!が少し間をあけて立っている。里見勝蔵の前にいる丸顔の帽子をかぶった男は、おそらく木下孝則Click!だろう。また、林武の右並びには野口彌太郎Click!と鈴木亜夫が、また小島善太郎の左並びには清水登之の姿が見える。佐伯祐三Click!と木下義謙Click!は、渡仏中で不在のため姿が見えない。
このメンバーに両者を加えれば、1930年協会のほぼ全員がそろったことになる。また、このメンバーから前田に木下、野口を除き三岸好太郎Click!を加えると、とたんに独立美術協会Click!の記念写真のような風情になる。もうひとつ、わたしがひっかかったのは清水登之の左側に立つ、帽子をかぶりメガネをかけて髭をはやした人物だ。清水の陰になって表情がよく見えないが、背格好から1930年協会に出品していた笠原吉太郎Click!のように思える。
ちなみに、当日の講演会の演題は外山卯三郎「西洋美術史講座」、里見勝蔵「構図の研究」、小島善太郎「巴里画家生活」、前田寛治「写実美について」という内容だった。小島善太郎は、パリでの恋愛やフェニックスClick!を演じたことまで講演したのだろうか。w 話すのが得意でない佐伯祐三がいたら、「あのな~……」といったいなにを講演していたのだろう。
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外山卯三郎の『前田寛治研究』は、なかなか外部からはうかがい知れない、1930年協会や独立美術協会の内情までを伝えていて貴重な情報源だ。歴史に「もしも」は禁句だが、最後に前田の死に関連した外山の「もしも」の一文を引用しておこう。
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もちろん前田が生きてゐたならば、今日の「独立美術協会」と形のちがつた強力な団体ができてゐたことだらう。前田はもちろん帝展をやめる決心をしてゐた。しかし木下兄弟は里見の野心を非常に危険視してゐたから、前田がその調節弁になつてゐた。帝展系の鈴木千久馬、中野和高、伊原宇三郎たちも前田といふ関節で結ばれてゐた。だから前田が生きてゐれば、全日本洋画界の最優秀作家を一団とするすばらしいグループが、はなばなしい大運動を展開したことだらう。しかし前田の急死によつて、この雄大な構想は画餅に帰した。
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どうやら、井荻に仲よく田上義也の設計で自邸を新築した外山卯三郎と里見勝蔵だが、その後、独立美術協会の内紛をめぐり仲たがいをしていたものか。
◆写真上:下落合1147番地(のち下落合2丁目1146番地)に建っていた外山卯三郎邸の敷地西側で、写っているのは赤塚不二夫のフジオプロダクションClick!。
◆写真中上:上は、1949年(昭和24)に出版された外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)の表紙(左)と中扉(右)。下は、杉並町天沼287番地の前田写実研究所の内部。
◆写真中下:外山卯三郎のご子孫である次作様よりお送りいただいた写真類で、上は井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)に建つ外山邸前での家族写真。下左は、同じく井荻の外山邸前の家族写真で外山卯三郎の右側に立つ学生服の男子2人は台湾からの留学生。下右は、独立美術協会時代の記念写真に写る外山卯三郎▲と一二三夫人▲。外山卯三郎の左側が児島善三郎で、右側が川口軌外。
◆写真下:1928年(昭和3)5月に代々木の山谷小学校で開かれた、1930年協会の第1回美術講演会の記念写真。背後の建物は、1930年協会洋画研究所かもしれない。