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小説に初めて「携帯電話」が登場したのは、おそらく1930年(昭和5)4月に書かれた片岡鉄兵の作品『通信工手』が嚆矢だろう。それ以前の作品で、わたしは「携帯電話」という用語を見かけたことがない。片岡の『通信工手』は、未来小説でもSF小説でもなく、同年の『戦旗』5月号に掲載されたプロレタリア文学だ。また、片岡鉄兵は落合地域をあちこち転居した、地元では馴染み深い作家でもある。
この作品が、わたしの今日的な視点から興味深いのは、「空中に、地下に、また海底に、地球の上をクモの巣のように張っている針金のことを考えて見よう。/電信だ。電話だ」ではじまる、「プロレタリアート」を支配する道具として通信環境をとらえた片岡鉄兵の階級観ないしは社会観ではない。今日の通信環境は、むしろ政治革命や社会変革を推進し拡大する“道具”として世界各地で作用しており、むしろ抑圧的な国家はその管理や統制に四苦八苦しているようにさえ見てとれる。
わたしが“面白く”感じるのは、当時のアナログ通信ケーブルと電信柱(電信電話ケーブルの支柱)は、どのように保守メンテナンスが行われていたのかが、本作品を通じてリアルにうかがい知ることができるからだ。下落合に建てられた電柱について、また佐伯祐三Click!が連作『下落合風景』Click!の画面に描いた電柱類について、変圧器が載る電力線柱とそこから分岐した電燈線柱のちがいや、電信電話ケーブル専用で白木のままが多かった電信柱について、かなり以前に記事Click!を書いていた。だから、それらの電柱・電線を管理していた作業員=工手の、具体的な仕事の中身を知りたかったのだ。佐伯祐三の画面には描かれていないが、当時、下落合のあちこちでは工具を手に電柱へ取りつく作業員の姿が目撃されていただろう。
今日のデジタル通信ケーブルは、シャーシやボックスなどタイプの別なくネットワークスイッチやルータ、VoIPサーバ、デジタルPBXなどを経由しているため、万が一どこかで障害が起きても高度な運用管理システムによる自動検証で、障害箇所の切り分け・特定が短時間で可能になっている。つまり、どこかの通信ケーブルで異常が発生すれば、「ここだよ! ××がおかしいよ!」とシステム側が自動的にアラートで、しかも障害理由まで想定して教えてくれるので、それが部品やケーブルの破損による物理的な障害であれば、メンテナンス要員は即座にピンポイントで障害箇所へ駆けつけることができる。
だが、片岡鉄兵が『通信工手』を書いた昭和初期は、まったく事情がちがっていた。通信ケーブル=電信電話線が不通になると、どこが故障しているのかがまったく不明なので、電信柱を順番に1本1本たどりながら、歩いて調査・検証しなければならない。しかも、通信線が不通になるのは、たいがい台風のような嵐や、豪雪、集中豪雨、強風、雷などの悪天候の日であって、おだやかな日に事故が起きることはきわめて少ない。すなわち、「通信工手」たちは低賃金で常に過酷な作業を強いられるのであり、片岡がこのテーマを取り上げたのもそこに着目したからだろう。道路や宅地造成の工事人夫などは、悪天候なら仕事にならず“休業”となってしまうが、「通信工手」は悪天候になると常に命がけの出動準備を強いられることになる。
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では、片岡鉄兵の『通信工手』から「携帯電話」も含めて引用してみよう。種本は、1984年(昭和59)に新日本出版社から刊行された『日本プロレタリア文学集・第15巻/「戦旗」「ナップ」の作家集2』に所収のものだ。
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夕暮れ、大都会の郊外だ。電柱は黒々と立っていた。針金が、風にうなっていた。/郵便局の近くに、大きな、特殊な電柱が立っていた。試験柱という奴だ。柱の上の、腕木に近い所に、小さな足場が拵えてある。この足場をプラットフォームと云うのだ。電話線の故障個所をしらべるために、通信工夫の時本が、試験柱をのぼり、足場まで辿りついた。/足場に乗ると、彼は携帯電話器(ママ)を腕木の電線にむすび付けた。受話器を、耳にあてた。/故障個所を調べるのだ。故障個所は、この電柱からカミの方か、シモの方か?/彼は先ず、上部(カミの方)に向って試験して見るのだ。「モシ、モシ」と呼んでみた。
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ここで登場する「携帯電話」は、通信ケーブルに音声信号(電流)が流れているか、あるいは不通かを確認するための「テスター」のような役割りを果たす、工手たちが持ち歩いた小型電話機だったことがわかる。この「携帯電話」なら、わたしが子どものころにもよく見かけており、電柱に登ったまま受話器を耳にあて、どこかへ電話をかけている作業員の姿は別にめずらしくなかった。つまり、電信電話ケーブルが敷設されると同時に、この種の「携帯電話」は登場していたことになる。
街中には、「試験柱」と呼ばれるプラットフォームを備えた電信柱が用意されており、そこに登って障害箇所が「試験柱」の上手か下手かをいちいち調べて歩くことになる。電信柱から見て、東京の市街地に近い方角を「カミ」、遠い方角を「シモ」と表現している。また、各地域には24時間365日、ミッションクリティカルで営業をつづける通信工手たちの拠点があり、それを「本居」と呼んでいた。
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試験柱から東京の方へ近い線を上部と云い、それと反対の方向にのびる電線を下部というのだ。で、東京××線の故障個所は、試験柱係りの報告によって、下部にあることが分ったのだ。(中略) 十里さきに、隣りの本居がある。隣りの本居でも、非常招集をやっているのに違いないのだ。隣りの本居の試験柱で、もし故障個所が上部と云うのなら、其所から此方の本居の方角を指して、工夫が繰り出されて居るだろう。もしそうだったら、二つの巡回隊は、途中の何所かの地点でバッタリ出会うはずだ。
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つまり、電話線づたいに点検しながら歩きつづけ、隣りの拠点から出動してきた通信工手たちとバッタリ出会うところが、なんらかの障害箇所である可能性が高いということになる。出会ったときは、どちらかのチームがすでに復旧作業に取りかかっていることもあっただろう。この小説では、大雪で風が強い吹雪の中の作業であり、断線の怖れがある電線に付着した重たい雪を、先にカギ型の金具を備えた長い竹ざおを使って削り落としながら歩いていく。
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竹竿、携帯電話機、スリープ・バインド(電柱の腕木にある瀬戸物のガイ子に、線を結びつけるために用いる銅線のこと)、梯子、それらが、一行の携帯品だった。(中略) こんな日には、あらゆる、故障が起るのだ。混線、地気、断線――風で線と線とが、コンガラかると、混線が起きる。電柱が倒れると、混線ばかりでなく、線がちぎれる事もある。断線だ、(ママ)凧の糸が引っかかったり、針金の上にひどく雪がつもったりすると、電流が土地の上に流れて行って、通話が出来なくなる。これが地気なのだ。
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通信線のシールドが強固でなかった当時、少し強風が吹いて電線がこんがらがり接触すると、ある線の信号(電流)が別の線へと流れこみ、混線を起こすことがめずらしくなかっただろう。電話をかけた相手が、通話の途中で入れかわっていたなどという笑い話があった時代だ。通信工手たちは、電線の雪を落としながら、線が絡まらずにまっすぐ伸びているかまで点検しながら、障害箇所の特定に10km以上を歩きつづける。防寒具や外套を着ていると、電信柱に登るのに不自由なので、たいがいはハッピ姿か、セーターを着た上にハッピをはおっただけの軽装だった。
片岡鉄兵の小説は、その多くがフワフワと綿菓子のような「新感覚派」的な作品も多いのだが、事実にもとづいて描くルポルタージュ風の作品になると、俄然、輝きを増してくるようだ。片岡は、1944年(昭和19)に50歳で急死するのだが、戦後も仕事をしていたとすれば、報告書を読むような硬質の吉村昭とも、ユーモラスだが生真面目な杉浦明平ともまたちがった、少しラフだが押しつけがましくなく、説得力を減らすほど妙に深刻ぶらない、類例のない記録文学者になっていたかもしれない。それを想うと、少なからず残念な気がする。
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片岡鉄兵は、大正末か昭和の最初期のころ第二文化村Click!のすぐ北側にあたる落合町葛ヶ谷15番地、つづいて第二文化村内の宮本恒平アトリエClick!の並びである下落合4丁目1712番地、さらに再び旧・葛ヶ谷の西落合1丁目115番地に住んでいる。落合地域を転々としているのだが、第二文化村ではおそらく姻戚と思われる日毛印南工場長だった片岡元彌邸に寄宿しているのではないかと思われる。「プロレタリア文学」といっても、彼の作品は思想性を押しつけるような表現や臭みは少なく、当時の人々の姿や記録を淡々と読むような自然さが備わっているので、また機会があればぜひ取り上げてみたい。
◆写真上:下落合の権兵衛坂(大倉坂)にある、近衛線Click!七曲支線の電柱(右端)とデジタル通信回線(光ファイバー)を配線する新しい支柱(中央)。
◆写真中上:左は、近衛篤麿邸が建設された旧・下落合の東部に多い近衛線の電柱。右は、1929年(昭和4)に撮影された片岡鉄兵。
◆写真中下:上は、下落合の近衛線と氷川線が交叉する七曲坂に見られる近衛線七曲支線(左)と氷川線七曲支線(右)。下左は、佐伯祐三の『下落合風景』に描かれた近衛線電柱。下右は、落合第四小学校の南側を通る1941年(昭和16)撮影の氷川線電柱。
◆写真下:左は、1929年(昭和4)出版の『新進傑作小説全集・第5巻/片岡鉄兵集』(平凡社)。右は、1984年(昭和59)刊行の『日本プロレタリア文学集・第15巻/「戦旗」「ナップ」の作家集2』(新日本出版社)。