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少し前、長崎町並木1285番地(現・長崎1丁目)の大塚彌吉邸の離れに住み、戦後は旧・下落合1丁目430番地で暮らしたエリザベス・ヴァイニングとも親しかったとみられる、外務省の寺崎英成一家Click!について記事を書いた。寺崎英成は、このあと長崎町から再び上海へともどり、そこでグエンドレン夫人は女の子を産んでマリ子と名づけられた。やがて、寺崎は米国の日本大使館勤務の一等書記官となり、一家はワシントンに住むことになる。そして、1941年(昭和16)12月8日Click!を迎えることになった。
1942年(昭和17)8月に寺崎一家は抑留者交換船で日本にもどっているのだが、このあと敗戦の年まで転居をする先々において、特高Click!からスパイ容疑で一家は執拗にマークされつづけた。帰国後、とりあえず御茶ノ水の文化アパートに落ちついた寺崎夫妻は、娘のマリ子を四ッ谷駅前(麹町区六番町)の雙葉第一初等学校へ通わせることになる。きょうの物語は、寺崎家が1942年(昭和17)に日本へもどった直後、娘の寺崎マリ子の様子を伝えるエピソードだ。上記の記事をお読みになった方から、雙葉小学校で「まり子さんの隣りの席でした」という女性の手記をお送りいただいた。お送りくださったのは、コミュニティマガジン「牛込柳町界隈」の編集長・伊藤徹子様Click!で、手記を書かれたのは雙葉第一初等学校を卒業された荻島温子様だ。
寺崎マリ子は母親が米国人であり、また父親が米国大使館に勤務し抑留者交換船で帰国しているので、当然、周囲から冷ややかな眼で見られていた。おそらく本人の気づかないところで、特高による学校側への嫌がらせもあっただろう。寺崎マリ子が初めて教室に入ってきたときのことを、荻島様ははっきり記憶している。今年(2014年)6月に出版されたばかりで、学習院生涯学習センターの猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』(蒼空社)に収められた、荻島温子「隣の席のマリコさん」から引用してみよう。
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昭和十七年(一九四二)、私が小学校三年の時、日米交換船で「マリコ」のヒロイン寺崎まり子さんは、外交官のお父様とアメリカ人のお母様と共に日本に帰られた。住まいは水道橋に落ち着かれ、雙葉初等学校に入られた。同じクラスになり、私の隣の席がたまたま空いていたのでその席に座られ、私なりに心配りをした。/帰ってこられて間が無い頃、海軍省にいた私の叔父(母の妹の夫)が、霞が関でお父様とばったりお会いしたとか。二人は府立一中(現・日比谷高校)で一緒で、寺崎さんの弟さんが海軍の軍医でいらしたので、よく存じあげていたらしい。お嬢さんのことを話され、心配されていたと聞く。雙葉と聞いたので、叔父は私のことをお話しすると、とても喜んでくださって、「姪ごさんによろしく」というお言伝てをいただいた。
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周囲の冷ややかな眼や、明らかに嫌がらせとわかる大人の言動、あるいは道を歩いていると子どもたちから石をぶつけられる環境の中で、寺崎マリ子は中央線での電車通学をやめていない。彼女は非常に強い性格だったらしく、どこか意地でも電車通学をつづけ、また街中では胸を張って歩くような精神力をもちあわせていたのかもしれない。父親の寺崎英成も同様で、外務省の中では「親米派」に分類されて白い眼で見られ、仕事をなかば干されるような待遇だった。つづけて、荻島様の手記を引用してみよう。
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初め、明るかったまり子さんが、戦争が激しくなるに従い次第に難しい立場に置かれ、見るもの、聞くもの、不快なことが多くなられたことと思う。学校の往復に他の国民学校の男の子に石を投げられたり、聞きずてならない言葉を言われたり……。/「撃ちてし止まむ」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ!」等々次々に国策標語Click!が出来、そのポスターが町中に貼られる風潮だった。また、町筋には出征兵士を送る歓呼の声がこだまする。/そんな中、まり子さんはご自分の殻の中に閉じ籠らざるを得ない境遇に追いやられたと思う。日本人離れした可愛い女の子に対し、周囲の眼は次第に厳しくなって来たのは否めない。追い打ちをかけるように、四年の時、彼女は跳び箱で手首を骨折、三角巾で吊って電車通学、頑張り屋さんの一面を見せた。/学年が上がり、隣の席ではなかったが、片手の作業が大変そうだったので、手を貸そうとしたら、「いいの、私、やれる」ときっぱり言われ、好意が伝わらない寂しさを私は味わった。/級の中には、ご家族の戦争に対する意見に左右され、四年生でも人それぞれの考えがあった。それだけに、まり子さんに親切にすることがはばかれる時もたまにあった。
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雙葉小学校の前、四ッ谷駅に近い中央線の線路土手斜面が女学生たちの手で開墾され、食糧難からカボチャやサツマイモClick!の苗が植えられはじめたころのことだ。国語の時間に、皇国史観Click!の象徴だった読本の「天孫降臨」に登場する「ニニギノミコト」がうまく発音できず、教師やクラスの生徒たちから笑われたのがよほど悔しかったのだろう、のちにマリ子は柳田邦夫に語っている。また、もともと体育が得意だったマリ子だが、跳び箱や平均台といった日本の器械体操が中心の授業には馴染めなかったらしい。
このあと、空襲が予想される時期になると、東京から寺崎英成の兄が借りていた小田原の邸へ一家で疎開することになるのだが、そこでも寺崎家へ親切にした人々に対する、大磯警察に詰めていた特高の執拗な嫌がらせはつづくことになる。
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さて、寺崎マリ子に石を投げた側である「国民学校の男の子」たちから、軍国主義の洗脳教育が消えていくのは、実はそれほど時間がかからなかったようだ。当時は軍国少年のひとりだった方の手記が、同書に掲載されている。田村直幸「この世から消えた山羊牧場」の、“軍国少年の呪縛”から引用してみよう。
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一九四四年、都立石神井中学校に入学した。生徒は国防色の制服と戦闘帽、それにゲートルを着けた。軍国少年は、軍人に近づけたことが嬉しかった。中学校では「軍事教練」の時間がある。退役軍人が教官だ。「肉を切らせて骨を切る」という教官の訓示を、軍国少年は素直に聞いていた。/その後日本は破局の道を歩く。中学二年になると、上級生は勤労動員で工場で働き、学校は二年生と一年生だけになっていた。しかし、爆弾の穴埋め、焼跡の整理、飛行機工場Click!の残骸の片づけなどに終始駆り出され、それに度重なる空襲などで、学校の授業は壊滅状態だった。それでも軍国少年は、わが神国は最後は必ず勝つと信じこんでいた。(中略) 九月に入って、大勢の米兵がジープを連ねて学校に乗り込んできた。軍事教練で使う銃剣類を接収するためである。校長が米兵にペコペコ頭を下げている情けない姿を見た時、不思議に軍国少年の呪縛が解けて行った。敗戦を自覚したのはこの日だったといってよい。
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この方は、少し前までおそらく「鬼畜米英、一億玉砕!」を訓示していた校長が、敗戦直後に小学校へやってきた米軍に、ペコペコ頭を下げているのを見て洗脳教育から一気に解放されている。おそらく、「こいつら、いったいなんだ? いってることとやってることが正反対じゃねえか!」と思われたのだろう。当時の新聞も手のひらを返したように、「本土決戦!」を声高に叫んでいた紙面が「新しい時代は民主主義」と、まるで戦争遂行を直接扇動していたことが他人事のように語られ、いつの間にか臆面もなく「古い時代」の出来事にされてしまっている。こういう欺瞞に、若い世代はことのほか敏感なのだ。
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雙葉小学校の寺崎マリ子は、世間や社会から迫害を受けていたぶん、陰に日に教師や同級生たちから気配りや親切を受けたようで、戦後しばらくたって行われたクラス会には、わざわざ米国から来日して出席している。彼女の中で、この時代のことがどのようにとらえられ、今日的に総括されているものか、一度お話をうかがってみたいものだ。
◆写真上:帰国後に寺崎一家が落ち着いた御茶ノ水駅近くの、雪が降りしきる聖橋。グエン夫人は、冬をすごした文化アパートの寒さに震えあがったようだ。
◆写真中上:上は、戦災前の雙葉学園。下は、四ッ谷駅から見える雙葉学園の現状。
◆写真中下:上は、1940年(昭和15)に撮影された寺崎マリ子(左)と、1942年(昭和17)に米国の抑留施設で撮影された彼女(右)。下左は、日本橋の昭和通りに作られた麦畑を報じる1944年(昭和19)6月14日の『写真週報』。下右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された雙葉学園と線路土手。学園には、急ごしらえの仮校舎が見えている。
◆写真下:上左は、蒼空社から出版された猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』。上右は、戦後の同窓会における寺崎マリ子(左)と筆者の荻島温子様(右)。下は、1942年(昭和17)に陸軍の御殿場演習場で行われた府立三中(現・両国高校)の軍事教練。左は、廠舎前に三八式歩兵銃や背嚢が置かれており休息中の情景だろう。右は、親父(左)とキャプションによれば親友の中溝陽三(右)。この親友は、戦前から戦後にかけての映画スターである岡譲二(本名:中溝勝三)の甥だと思われる。