Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

エスカルゴは夜明けの海を何度見たか。

$
0
0

さくらヶ丘パルテノン跡.JPG
 長崎のアトリエ村Click!のひとつ、さくらヶ丘パルテノンClick!で暮らした画家に桐野江節雄(さだお)がいる。桐野江は大阪市の木野町出身で、佐伯祐三Click!と同じく赤松麟作Click!の画塾へ通って絵の勉強をしていた。佐伯とは27歳の年の差があり、東京美術学校へは一浪して1943年(昭和18)に入学している。佐伯たちとは、ちょうど3世代ほどあとの時代の画家だ。美術学校へ入学はしたものの、そろそろ戦況は「転進」や「玉砕」が目立ちはじめたころであり、桐野江も1945年(昭和20)1月に学徒出陣で陸軍の輜重兵学校へ配属され、同年8月15日の敗戦を迎えている。
 桐野江節雄は、1983年(昭和58)5月に豊島区教育委員会のインタビューをうけ、1987年(昭和62)に刊行された『長崎アトリエ村史料』に、戦時中のさくらヶ丘パルテノンの様子を伝える、貴重な証言を残している。当時の様子を、同史料から引用してみよう。
  
 空襲警報が出ると、(耳の聴こえない隣人夫婦に)B二九の時は両手を広げて見せ、戦闘機の時は両手をパタパタ動かして教えた。最初の頃の家賃は一五円であった。家からの仕送りは五〇円だった。アトリエは約一五畳と決まっていたが、部屋や押し入れの大きさなどは様ざまであった。/美術学校は予科一年、本科四年の五年間であった。桐野江さんが入居当時、長崎アトリエ村に美術学校生としては、四年生の石井精三さん、三年生の八幡健二、野田健郎、宮沢義郎、草野叡三、赤松克己、松下恵治さんたち、二年生の中村健一郎さん、予科生の桐野江、桜山春樹さんたちがいた。所帯を持っていたのは、菅沼五郎、峰孝、榑松正利、鈴木新夫さんたちと丸木位里・俊夫妻ぐらいであった。/差配の小林さんは大工で何処かで家を建てては、その余りの材料を持ってきて、次つぎと、アトリエを建てていった。初見さんに依頼されてそうしていたのだが、「こんないいかげんな家を建てて……」などと思っていたのに、まさかそのアトリエ村の差配をやらされるとは思いもよらないことだといっていた。(カッコ内引用者註)
  
 さくらヶ丘パルテノンのアトリエ住宅が、家を建設して余った材料で建てられていたのが面白い。戦前は新たな建材はもちろん、解体した家屋の部材や調度もたいせつに使われていた時代であり、素材さえよければめったに廃棄されることはなかった。ただし、あり合わせの建材にはちがいはないので、かなり無理な普請もあったのだろう。アトリエの規格は決まっていたものの、その他の部屋は、そのときに入手できた建材によってバラバラな設計だったようだ。それでも、さまざまな画家たちが長崎へ参集してきた。
 戦中戦後を通じて、もっとも苦労をしたのはやはり食べ物だったらしい。アルバイトをやめ作品の制作に集中すると、おカネが尽きて水だけですごす日々もあったようだ。
  ▼
 アトリエ村の連中はとにかく汚い格好をしていた。学徒動員の時世だったので、物のない時は交替で体に日の丸の旗を巻いて、帽子をかぶり飲ませる店に行った。当時は配給で物のない時期で、金を払っても、普通ではなかなか飲み食いができなかったが、そうすると無理して酒などを飲ませてくれた。(中略) アトリエ村には絵描き・学生たちが兵隊に取られて出ていった後に、焼け出された一般人が入っていて、ほとんどふさがっていた。しかし出入りがあって、おいおい絵描きが集まってきた。/同級生で、戦後アトリエ村に入居した小山宇司さんと二、三年ペンキ屋をした。主に煙突に字を書くことが作業であった。煙突一本で二人が一か月食えた。しかし仕事を捜すのが一苦労であった。また一年の内半年ぐらい北海道に絵を行って描いて炭坑で買ってもらったりした。当時炭坑は景気が非常に良かった。/質屋には一二年間通い詰めだった。アトリエ村近くにあった「かもした」に行った。そこは現在駐車場になっている。しまいには品物を持っていかないで金を借りた。また質草を友人に借りたりもした。稼いでは品物を取り戻し、困っては品物を入れることを一二年繰り返した。しかし決して品物を流さなかった。
  
目白美術館「桐野江節雄展」案内状.jpg 桐野江節雄「自画像」1951.jpg
 桐野江節雄は、敗戦から10数年がすぎたころ、さくらヶ丘パルテノンのアトリエ付き住宅をそのまま購入し、以降、終の棲家となる江古田駅近くの練馬区小竹町にアトリエを構えて転居するまで、長崎アトリエ村に住みつづけている。
 今月、目白美術館Click!で開催された「桐野江節雄展」へ出かけてきた。花の静物画や肖像画、風景画とある中で、やはり子どものころから馴染みのあるせいか、海の夜明けを描いたシリーズ画に強く惹かれた。いずれも戦後に各地の海岸を描いた作品で、水平線に朝日が昇ってくるほんの1時間ほどが、制作の勝負を決める一瞬の間合いだ。
 のちにアトリエで筆を加えるにせよ、空と水と、昇る赤い太陽とその光の刹那を、すばやく瞬間的にとらえた画面は素直に美しい。この刹那の美は、晩年の菅野圭介Click!が筆や刷毛を横に走らせて手早く描いた、空と海、水平線と海岸線とにみるシンプルな、それでいて観賞者に光の複雑な「まぶしさ」や鮮やかな照映を感じさせる画面と、どこかで通底しているような感触をおぼえる。菅野圭介がそうだったように、桐野江節雄もまた海と光を“あびるほど”眺めつづけた時期があったのだろう。
 桐野江節雄は、日本初のキャンピングカーを製造し、オートキャンプを実践した人物としても有名だ。1,500ccの2トン積みオート三輪を改造し、荷台に2人分が寝泊まりできる「家」を造りつけ、1958年(昭和33)11月にクルマごと横浜港を出港している。エスカルゴ号と名づけられた車体の横には、日本語と英語、フランス語、ドイツ語の4か国語で「かたつむり絵筆をかついで旅に出る」と書かれていた。以降、1963年(昭和38)3月に帰国するまで、桐野江と助手の神保五生を乗せたエスカルゴ号は米国をはじめ、メキシコ、ヨーロッパ各国を放浪しつづけ、走行距離は約10万kmにもおよんだ。
 帰国後の1965年(昭和40)、そのオートキャンプによる旅の様子や経験をまとめた、『世界は俺の庭だ』が大門出版から刊行されている。ちょうど同じころ、河出書房新社から出版された小田実『何でも見てやろう』(1961年)とともに、当時の若者たちが胸をふくらませた、海外旅行のバイブル的な存在になった。
桐野江節雄「九十九里浜の朝」.jpg
桐野江節雄「入り江の日の入り」.jpg
 このあと、桐野江節雄は日本初のキャンピングクラブを設立し、理事長(のち会長へ変更)に就任している。2009年(平成21)9月15日に(社)日本オートキャンプ協会から発行された「オートキャンプ」の記事、「JAC40周年を支えた人々」から引用してみよう。
  
 海外旅行から3年後の1967年、桐野江氏は欧米でのキャンプ体験から日本にも今後自動車を利用したオートキャンプ旅行の普及を予測。放置しておいてはキャンプ場とマナー不足から混乱は必至と考えね快適なキャンプ場整備の促進と正しいキャンプマナーの普及・ルールの確立に取り組むことを決意した。/このため海外でのキャンプ体験やキャンプのノウハウを持つ長谷川純三・岡本昌光・萩原一郎・山崎英一の各氏らに呼びかけてキャンパー同士の親睦・交流・情報交換とオートキャンプの正しいマナー・ルールの確立等を目指し67年4月29日、日本オートキャンピングクラブ(NACC)を設立し、理事長(後に会長に変更)に就任した。わが国初のキャンピングクラブの誕生である。
  
 桐野江には、「見て描き屋の桐野江」というショルダーが画家の間にはあったようだ。それは、いろいろなところへ出かけ、未知の旅をつづけながら絵を描くという憧憬に似た制作姿勢が、油彩画家をめざした当初からあったからだという。精力的に各地を移動しながら描くというスタイルは、晩年まで変わらなかった。
 桐野江節雄は、画家にしてはめずらしく激しいスポーツが好きだった。東京美術学校へ入学したあとは、好んでラグビーの試合に参加している。よく教授たちから咎められなかったと思うのだが、戦争の末期でもあり、学内の状況もかなり混乱していたせいだろうか? 美術家も音楽家、工芸家も、指先が“いのち”であり“すべて”なので激しいスポーツはご法度だ。少しでも指先を自由に動かせなくなれば、それを境に創作・演奏生命を断たれる場合も少なくない。東京藝大の体育で行われる、身体を柔らかく動かすだけの「ブラブラ体操」が象徴的なように、手足に負荷をかけず危険をともなわない運動が主体だ。しかし、桐野江の動きまわりたい衝動は、それでは満足できなかったのだろう。
オランダのエスカルゴ号.jpg 桐野江節雄「世界は俺の庭だ」1965.jpg
桐野江節雄「川奈の朝」.jpg 桐野江節雄1986.jpg
 戦後のエスカルゴ号による地球的な規模の冒険も、おそらく彼のあちこち動きまわりたい衝動に起因しているように思われる。エスカルゴ号がアメリカ大陸の、あるいはヨーロッパの海岸線を走っているとき、桐野江節雄はいくたび水平線に昇る朝日を見たのだろうか。彼の日の出を描いた画面は、その場限りの、1時間ほどの刹那的な夜明けではなく、世界各地で見た暁(あかつき)が重なり合った、過去の眼差しを含んだ重層的な夜明けなのかもしれない。

◆写真上:椎名町駅の北側、長崎2丁目界隈に残るさくらヶ丘パルテノンの面影。
◆写真中上は、目白美術館の「桐野江節雄展」案内状で、同館収蔵の東京湾を描いた桐野江節雄『港の朝』。は、1951年(昭和26)制作の桐野江節雄『自画像』。
◆写真中下は、夜明けシリーズの典型作で桐野江節雄『九十九里浜の朝』。は、めずらしく夕暮れを描いた『入り江の日の入り』。(いずれも同館収蔵)
◆写真下上左は、2009年9月15日発行の「オートキャンプ」に掲載されたオランダのエスカルゴ号。上右は、1965年(昭和40)に出版された桐野江節雄・神保五生共著『世界は俺の庭だ』(大門出版)。下左は、桐野江節雄『川奈の朝』(同館収蔵)。下右は、1986年(昭和61)12月1日発行の「美の散策」掲載された小竹町アトリエの桐野江節雄。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles