きょうの記事は、今年の「夏休みの宿題」なのだけれど、実際の夏休みがまったく取れなかったので記事にするのが遅れてしまった。実は、もうひとつ「夏休みの自由研究」があるのだが、こちらは原稿化さえできていないので、アップにはもう少しかかりそうだ。
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第六天(大六天)には、スリリングな秘密がいっぱいだ。本来は、縄文時代からつづくポリネシア系の古モンゴロイド由来と思われる、日本における天地創造の「七天神」神話なのだが、古代日本に伝承されてきた地主神のヤマト朝廷による政治的な利用と、朝鮮半島からの思想(仏教思想など)を普及するための便宜上の道具化(天魔など恐怖神への転化)、そして明治政府による徹底した仏教の排斥と、古来からつづく“日本の神殺し”Click!政策により、現代では第六天の存在は限りなく希薄になっている。
西日本(特に近畿地方)では、徹底した日本神話の“神殺し”で第六天神は、ほとんど全滅に近いありさまなのだが、中部地方の東部から、関東地方、東北地方にはいまだ健在な社(やしろ)が多い。江戸東京にも社は多いが、下落合には諏訪谷(もともと出雲神タケミナカタの高田諏訪社領だと思われるが江戸期には薬王院持)の大六天と、六天坂Click!の第六天の2社、隣りの長崎地域を含めると椎名町の第六天Click!の3社が確認できる。また、上落合の月見岡八幡社境内にも江戸中期まで、末社として第六天の記述があるが、同社がもともと独立して上落合のどこかに奉られていたものか、あるいはは下落合の第六天を再勧請したものかは不明だ。だが、本来の創造神である女神カシコネ(惶根/<阿夜>訶志古泥)と男神オモダル(面足/淤母陀琉)が、2柱そろっていない社も多い。
ときに明治以降、どちらか片方の神が外され、あたりさわりのないサルタヒコやタカミムスビ、オオクニヌシなどが代わりに奉られていたりする。また、カシコネとオモダルは健在だが、社名が変更されているところもある。これは、明治政府や天皇家に都合のいい「皇祖神」、あるいは8世紀に成立した新しい伊勢神道=「国家神道」(戦後用語)以外の、古来から伝わる日本神を抹殺する政治的な圧力や、信条弾圧をかわすために奉られた便宜的な“仮神”、ないしは表面上の“建前神”のケースも多い。
明治政府による“神”の押しつけや抹殺に対し、どのような抵抗が行なわれたのか具体的に見ていこう。中部以東は、各地において明治政府に対する抵抗や拒否だらけなので、ここは「都」に近いナラや京の北側=丹波のケーススタディを引いてみたい。2007年(平成19)に小学館から出版された、小松崎文夫『沈黙する神』から引用してみよう。
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もう一つ、丹波の伊都伎神社(略)は、管見するに、維新時にあえて第六天二神に祭神を替えているのである。この新政府の宗教政策に逆らった祭神変更は注目される。/まさに、鬼の棲む里、大江山の丹波ならではの所業といえなくもない。/細見末雄著『丹波史を探る』(神戸新聞総合出版センター)の冒頭「大和政権への対抗と服属」にも、「おそろしい丹波」として、“鬼退治”に潜むその歴史的位置が記されているが、但馬・丹波・丹後の三丹地方は畿内に隣接した地でありながら、上代から大和朝廷に対抗した独自王国といわれる地である。古鏡・前期古墳文化、さらに『但馬国司文書』なるものにも記される「元伊勢神社」など、古来、反体制の風が吹いている。その風と、この伊都伎神社の第六天への祭神変更の記録は無関係とはいえまい。
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ナラや京の“膝元”にして、「鬼」や「土蜘蛛」などと規定されてしまった既存の「日本人」たち、すなわち古代日本のクニグニの人々をして、明治期においてさえこの徹底した抵抗ぶりなのだから、先住「日本人」が多く住み出雲と同様の、多彩なクニグニを形成していた原日本の一大勢力拠点である、東日本においてをや……なのだ。ちなみに、但馬・丹波・丹後の3地域は東側の女王ヌナカワのクニ、あるいは西側の出雲との連携下にあり、ヤマトに鋭く対抗していたと想定できる。
記紀で描かれた天孫神話の世界を、そのままおさらい的になぞるならば、九州に“上陸”して瀬戸内海を海路東へ侵入し、浪速(ナミハヤ)で「日本」のクニグニに迎撃され大敗を喫して兄の「五瀬」を喪い、やむをえず迂回して女王ナグサトベが治める紀国を侵略、熊野からナラの地へと侵入した「神武」(千子二運あるいはもっと?遡上させた北九州「生まれ」とされる「応神」とのダブルイメージ説が有名だが)に象徴される外来のヤマト朝廷(とその前身)。その彼らから、「坂東夷」だの「蝦夷」などと一貫して蔑みのレッテルを貼られ、また、「日本」側からの本格的な反撃の第1フェーズである「武蔵国造の乱」Click!(関西史的な呼称)をはじめ、より強烈な事蹟である第2フェーズの「平将門」Click!を、出雲神オオクニヌシとともに奉った神田明神Click!から当の主柱を外し、およびでない“神”に入れ替えるという、江戸東京の「虎の尾」Click!を踏んでしまった明治政府に対して、もはや聞く耳を持たないClick!のは当然だろう。
ちょっと余談だけれど、関東とその周辺では出雲神とされる諏訪社のタケミナカタ(建御名方)だが、紀国の女王ナグサトベ指揮のもとで「神武」を迎撃したとみられるミナカタ(南方)氏と、タケミナカタ(猛南方)との関連がとても気になる。また、ヤマト以前からの出雲国(根国)と紀国とのつながりも非常に興味を惹かれるテーマだ。
関東史の視座からいえば、反撃の第3フェーズ以降、鎌倉幕府(南関東=旧・南武蔵勢力の末裔たち)・足利幕府(北関東=旧・上毛野勢力の末裔たち)・世良田=徳川幕府(北関東=同)と、日本列島に展開したクニグニの末裔たち=蔑称「坂東夷」が、一貫して侵入勢力から政治的ヘゲモニー奪還の胎動を繰り返す、まったく異なる日本史の様相が見えてくる。そして、そこには無理やり「国譲り」をさせられ、タケミナカタに象徴されるような、古代に多くの亡命者を生じたと思われる出雲の影Click!や軌跡が、いまだ関東各地には色濃く残っている。
さて、このカシコネとオモダルとはなんなのだろうか? 日本神話は、国産み神であるイザナギとイザナミから紹介される場合が多いが、これも明治政府によるおもに義務教育課程上での選別、あるいは昭和期においては「日本史」の歪曲(関西史化)にともなう、日本神話の恣意的な操作にほかならない。イザナギとイザナミは第七天神であり、日本神話では天神の最後に位置する夫婦神だ。
それ以前には、絶対的な第一天神であり両性具有と思われるクニノトコタチ(宇宙におけるビッグバンあるいはすべてのものが産まれる卵のような存在)、同じく第二天神のクニノサツチと第三天神のトヨクムヌ(ともに混沌とした複雑な物質世界を形成する神)、第四天神の女神スヒヂニとウヒヂニ(大地の素である砂と泥の創造神)、第五天神の女神オホトマペとオオトノヂ(海陸を形成する創造神)、そして第六天神の女神カシコネとオモダル(海陸に生き物や自然を形成する重要な自然神)へとつづく。
このあとに、ようやく第七天神の女神イザナミとイザナギが登場して、日本列島を形成することになるのだが、第六天神以前の神々を明治政府は日本人の信条記憶から、意図的に消し去り忘れさせようと試みている。第七天神だけ残したのは、列島生成の国産み神であるのと、アマテラスやスサノオに親神がいないと、新たな国教的神話の形成あるいは皇国史観Click!上は不都合だ……と考えたからだろう。
もうひとつ、古来の日本神話には天神が7柱ある点にも深く留意したい。これは、縄文時代の日本から連綿とつづく星辰信仰Click!=北斗七星・北極星信仰の名残りだと思われ、のちに妙見神信仰Click!へと直結する流れであるとみられるからだ。また、後世に子ノ神(北の神)として奉られることになった、江戸東京の総鎮守である神田明神社Click!のオオクニヌシ(出雲神)との北斗習合も、非常に興味深い歴史的事象だ。
さて、下落合に残る第六天社を見ていこう。六天坂の第六天は、主柱の記録がなく不明なのだが、カシコネあるいはオモダルの双方、あるいはどちらかが奉られていると思われる。諏訪谷の大六天は、オモダルとサルタヒコが奉られている。もちろん、サルタヒコは明治政府が1870年(明治3)に発布した大宣教令=神仏分離・廃仏毀釈、さらに1906(明治39)の神社合祀令の信条弾圧が加えられた際のいずれかに、大六天の社自体を破却されずに後世へ残すために便宜上の妥協策として、女神カシコネを外し“建て前神”のサルタヒコを勧請したものだろう。椎名町の第六天も、現代の奉神は不明ながらカシコネまたはオモダルの、どちらか1柱が残っている可能性が高い。
第六天信仰は、朝鮮半島からの仏教思想を浸透させる政策が本格化してくると、日本における天地創造のきわめて重要な自然神にもかかわらず、天災や病魔をもたらす「第六天魔王」に貶(おとし)められ、ひたすら「祟りのある怖い神」とされてしまう。日本古来の自然神カシコネやオモダルには非常に迷惑な話だが、とある外来宗教を「未開の地」へ拡げ浸透させるには、いつの時代も既存の信仰や地主神に対しては徹底して容赦がない。
その蔑視思想は、「東夷」である「倭人」の女王フィミカ(ヒミコ)に「卑弥呼」などと、ことさら卑賤な文字をあてはめる視座と同質のものだ。「蛮族」である日本の神々や信仰心は、中華思想から、朝鮮の仏教思想から、さらにナラの朝廷からにしろ忌避するか早々に滅ぼしてリセット、あるいは「魔」へと転化すべき対象としてしか映らない。
<つづく>
◆写真上:諏訪谷の湧水源に面した、曾宮一念アトリエClick!跡前の大六天社。
◆写真中上:左は、坂名の由来となった六天坂の第六天社。右は、諏訪谷の大六天社。
◆写真中下:左は、諏訪谷から大六天社のある谷戸の突き当りを見る。右は、諏訪谷の宅地化にともない大正末から昭和初期に整備された大谷石による大六天社の擁壁。
◆写真下:上・下は、鳥居の貫にクサビがある鹿島鳥居を採用した諏訪谷の大六天社。