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大重さんから電話をいただいたのは、何年前のことだったろうか。電話に出ると、「あっ、〇〇くん?(わたしの名前) ど~も、おーしげです。しばらく……」と、きのう別れたようなしゃべり方で、いきなり映画の話をしはじめたのを憶えている。電話の向こうでは、相変わらず若いころから蓄膿症に悩まされていた(本人談)という息づかいも荒く、生涯のテーマだった沖縄の映画について話しはじめるのだった。たいがい、映画の話を20~30分ぐらいして、「今度、東京でも上映するから、ぜひ観にきてよ」で電話が切れた。
記録映画の大重潤一郎監督が、映画畑の人間でもないわたしにときどき電話をくれていたのは、若いころ同じ職場で仕事をしていたからだ。大学を出て間もないころ、勤めていた会社の映像部に、まるで井上陽水のようなヘアとサングラス、真っ黒に日焼けした顔で、大重監督は座っていた。当時から、ときどき沖縄へ出かけてはロケだかロケハンをしていたようで、わたしはたまたま読んでいた島尾敏雄の資料(おそらく「ヤポネシア考」関連の書籍だったろうか)を、コピーしてとどけたのがきっかけだったと思う。
その後も、当時の雑誌に連載されていた鶴見良行の文章(たぶん『マングローブの沼地で』だったと思う)を、定期的にコピーしてはお渡ししていた。いまほど、Sundaland(スンダランド)学説が注目されていなかったころのことだ。そのせいか、義理がたい大重監督はなにか作品ができ上がると、ときどきわたしに電話をくれていたようなのだ。だが、せっかく電話をいただいても、仕事が多忙をきわめていた時期だったりすると、とても映画館へいく余裕などなかった。また、上映日が平日の夜だったりすれば、まずPCの前やデスクを離れるのは絶望的だった。記録映画の上映会はたいがい短期間で、ひとたび見逃すと、なかなか再上映のチャンスはめぐってこない。
あれは、大重監督が鎌倉の材木座から神戸へと転居して、しばらくたってからのことだから、ずいぶん昔のことになる。一度、沈んだ声で電話をかけてきたことがあった。「あっ、〇〇くん? ど~も、おーしげです……」は、いつもと変わらない出だしだったのだが、声のトーンが常ならず低い。お話をうかがうと、このところ奥様の具合がよくないのだという。阪神・淡路大震災で住居だったマンションが罹災し、それが原因で倒れられたとうかがった。
大重監督は、わたしの義父Click!がクモ膜下出血で倒れ、意識不明で病院の医者からも見放されていたとき、連れ合いが「自然療法」を試みて医師が唖然とするほどに、後遺症ゼロで治した経験があるのを知っていた。義父はその後、20年も長生きし85歳で天寿をまっとうした。だから、医師の治療と併せ、同時に奥様へ自然療法も試みたいのだという。さっそく、連れ合いに電話を代わったのだが、ふたりで1時間近くも話していただろうか。
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大重潤一郎監督は、山本薩夫Click!の助監督をへて岩波映画製作所に入り、そこで映画監督の黒木和雄Click!らと知り合ったらしい。独立後は、次々と記録映画や産業映画を制作していくことになるのだが、わたしの印象に残っているのは大島渚と小川紳介Click!とが登場する、『小川プロ訪問記』(1981年)だろうか。こちらでも、何度か記事の中でご紹介している小川紳介監督の、『ニッポン国・古屋敷村』Click!(1982年)が発表される前年のことだ。阪神・淡路大震災のあとは、梅原猛の監修で制作された『縄文』(2000年)や『魂の原卿ニライカナイへ』(2001年)など、いわゆる「古層三部作」と呼ばれる作品を次々と発表していく。
わたしが、大重監督と最後に電話で話したのは、おそらく「古層三部作」の直後、2002年ごろに沖縄へ移住されているから、その直前あたり……ということになる。つまり、10年以上もご無沙汰がつづいてしまったわけだ。だから、監督が2004年10月に脳出血で倒れて以来、右半身が不自由になったのも知らなかった。ときおり、『久高オデッセイ』のウワサを耳にして、沖縄で元気に制作されているとばかり思っていた。そして、うかつにも昨年(2015年)7月22日に肝臓がんで亡くなったのも、だいぶたってから知ったしだいだ。まだまだ、仕事ができるはずの69歳だった。
いま、渋谷の「アップリンク」Click!では、大重監督の遺作となった『久高オデッセイ/第3部 風章』を上映中だ。さっそく、同作を観に渋谷へと出かけた。
わたしは子どものころ、海からわずか100m前後の住宅Click!で育っているせいか、海の匂いのするモノが大好きだ。しかし、映像に切りとられた久高島の海は、同じ太平洋といっても、わたしの原体験として染みついている海辺の情景や感覚とは異なり、まったく馴染みのない異質な空間だった。沖までサンゴ礁がつづく浅瀬でできた久高の渚は、わたしの知る太平洋の潮の音でも波の音でもない。浜辺の植生も、木々を揺らす風の音も、海や空の色も光も、鳥たちの鳴き声も、そして獲れる魚たちの姿も、すべてがちがう。同じ太平洋でも、まるで別世界のような空間であり、わたしとは関わりのない「異国」のように感じたのだが、その中でどこか深いところで繋がりをおぼえたのは、意外にも神人(カミンチュ)たち、つまり祭祀をつかさどり神に祈る巫女たち女性の姿だった。
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ここの記事で、江戸東京地方(関東地方もだが)は、いまだ「原日本」の風俗や民俗、文化、慣習などを少なからず残している地域であることを、わたしは多彩な角度から繰り返し書いてきている。戦前まで、街中には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女が、江戸期からの町内にひとりやふたりは存続していた土地がらだ。彼女たちの系譜は戦後、巫女とは名のりづらい時代のせいか、「占い師」に姿を変えて相変わらず“活躍”していることも書いた。
今回は、現代の川田順造Click!ほど新しくはなく、少し古くさい書籍で恐縮だが、民俗学者・中山太郎の文章を思い出したので引用してみよう。1930年(昭和5)に出版された、中山太郎『日本巫女史』(最新再版:国書刊行会)からだ。
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[前略]山ノ神の研究が目的ではなく、ただ山ノ神が女性であるということだけが判然とすればよろしいのであるから、他は省略する。これから見るも、木花開耶姫命[コノハナサクヤヒメノミコト]が富士の山神であるという伝説の古いことが知られるのである。しかしこれらの民間信仰を基調として、さらに前掲の「伊豆国風土記」の逸文を読み直して見ると、八枚の神坐を構えて祭儀に従ったのは巫女であって、しかもこの巫女が、古くは狩猟[漁撈・農作]の良否を占問いする役目を有していたのではないかと考えられる。琉球にはウンジャミ祭と称して、各地にノロ(巫女)を中心とした狩猟[漁撈・農作]の神事が行われているが、その中でやや原始的なもので、しかも極めて簡単なものを一つだけ抽出して、古くは我が内地にも、かかる神事が挙げられたのではないかと信ずべき傍証とする。([ ]内引用者註)
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中国や朝鮮半島の儒教思想をはじめ、学問や文化にことさら忠実な明治政府は、神事を男のみで行う「国家神道」(戦後用語)を推進し、女性たちを締めだす目的のため、1873年(明治6)に「巫女禁断法令」を発令する。だが、薩長政府にそっぽを向いている江戸東京市民Click!がすんなり従うはずもなく、社(やしろ)などから無理やり追いだされた巫女たちは、市民たちの「コンサルテーター」あるいは「スーパーバイザー」的な存在として、各町内へ溶けこみ大切にされることになった。
ちなみに、ここでいう巫女Click!とは明治以降、神主の“助手”であり正月になるとアルバイトとして募集する「巫女もどき」のことではない。彼女たちは多彩な社(やしろ)の神主そのものあり、沖縄でいえば神人(カミンチュ)に連なるもののことだ。
江戸東京においてさえ、古代の卑弥呼(日巫女)から、いや、縄文に由来するかもしれない「日本」の基層をめぐる、多種多様な抵抗Click!が繰り広げられたClick!のだから、ましてや沖縄の人々はこの「巫女禁断法令」へ真っ向から対峙したのだろう。そのあたりの「日本」の宗教観、あるいは文化的な匂いといったものに違和感なく共感、ないしは色濃い共通性を、映像の中に改めて見いだしたせいなのかもしれない。
この土地出身の人間として、心の奥底の肌合いにどこかしっくりくるのが、久高島の自然でも環境でも人々の生活でもなく、巫女たちがつかさどる神事の情景だったというのは、さて、生来のわたしにインプットされている、なにが感応したものだろうか。女神の“お札”が天から降ると、仕事や職場を放棄して感応しながら「ええじゃないか」を踊狂する江戸期の人々と、秋葉原の舞台上の女子アイドルに合わせシンパサイズしながら踊る人々と、薩長政府が異質な「日本」以外の思想をやっきになって植えつけようとしたにもかかわらず、「日本」の基層部はたいして変わっていないのではないかと思うのだ。
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鹿児島出身の大重監督は、子どものころ沖縄から働きにきている人々が祭日にか、あるいはなんらかの祝いごとがあった日に、近くの公園で音楽に合わせて楽しそうに踊っている光景に何度か出くわしたという。それが、のちに沖縄(琉球弧)へと惹かれていく端緒となり、映像で記録・表現するモチーフを見いだす原体験だったと述懐している。生涯をかけて取り組むことのできるテーマとは、案外、子どものころの何気ない光景や経験にひそんでいるのかもしれない。大重潤一郎監督のご冥福をお祈りしたい。
◇渋谷「アップリンク」
『久高オデッセイ/第3部 風章』
4月29日(金)まで 午前10時30分~
(ネットから座席予約が可能)
http://www.uplink.co.jp/movie/2016/43248
◆写真上:沖縄の海に立つ大重潤一郎監督で、2013年(平成25)制作の四宮鉄男・構成/編集『友よ』(映像Sプロジェクト)から。以下、大重監督と作品写真は同作より。
◆写真中上:上は、1995年(平成7)に制作された大重潤一郎・監督『光りの島』の1シーン。下は、2000年(平成12)に制作された同『縄文』の1シーン。
◆写真中下:上は、描かれた巫女たちで1856年(安政3)制作の国貞『かぐらみこ』(左)と、おそらく明治期に描かれた尾形月耕『巫女』(右)。下左は、江戸期に制作された肉筆浮世絵で作者不詳の『神楽巫女』。下右は、1930年(昭和5)に出版され2012年(平成24)に国書刊行会から再版された中山太郎『日本巫女史』。
◆写真下:上左は、2013年(平成25)制作の四宮鉄男・構成/編集『友よ』(映像Sプロジェクト)。上右は、沖縄は「風がご馳走」と語る大重監督。下は、2006年(平成18)に制作された大重潤一郎・監督『久高オデッセイ/第1部 結章』の1シーンより。