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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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中村彝の病床近くにいた楠目成照。

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二瓶等アトリエ跡.JPG
 1918年(大正7)に東京美術学校の西洋画科へ入学した画学生に、福岡県小倉出身の楠目成照(くすめしげてる)がいる。同年入学の同級生には、佐伯祐三Click!山田新一Click!二瓶等Click!などがいた。だが、おそらく楠目は東京美術学校を卒業する以前に、画学生のままフランスへ留学している。なぜなら、美校に卒業制作が残されていないからだ。
 楠目成照は、画家として仕事をしていた期間が短かったせいか、現在ではほとんど知られていない。美校在籍中にパリへ留学し、そのまま同地から帰国することができず満26歳(数え27歳)の若さで病死しているからだ。パリではピエール・ボナールに師事し、病床を見舞ったボナールから作品を2点譲られている。そのうちの1点が北九州市立美術館に収蔵されている、1920年(大正9)ごろに制作されたボナール『パリの朝』だ。
 楠目成照が、下落合464番地に住んでいた中村彝Click!のアトリエに出入りしていたのは、こちらにコメントをお寄せいただいたご遺族筋の方からご教示いただいたテーマだ。パリでの死因となったのは、中村彝を看病するうちに感染した結核だったらしい。さっそく、中村彝の書簡が収められた『芸術の無限感』をはじめ、鈴木良三Click!曾宮一念Click!などの周辺資料をひと通り調べてみたが、「楠目」の名前は見つけることができなかった。(見落としがあるかもしれないが) 自身のアトリエに出入りし、いろいろ世話を焼いてくれる人物については、書簡などへ書きとめることが多い中村彝だが、楠目とは同級生だった二瓶等(二瓶徳松)は登場するものの、楠目成照の名前は見つからない。
 ご遺族筋の伝承によれば、楠目成照は中村彝を最後まで看病したと伝えられているが、彝の死去は1924年(大正13)12月24日のことだ。その葬儀を済ませてからフランスへ留学したのでは、おそらく年齢的に計算が合わない。楠目は26歳でパリに没するわけだから、ボナールに師事して絵画を学んでいる時間的な余裕がないのだ。
 楠目の同級生だった友人たち、たとえば佐伯祐三は1898年(明治31)生まれ、山田新一と二瓶等は1899年(明治32)生まれだ。仮に楠目が1898年(明治31)生まれだとしたら、1924年(大正13)には26歳でパリで病死していることになり、同年の暮れに中村彝の臨終に立ち会うのは不可能だ。また、1899年(明治32)生まれだとしても、彝の死の翌年には死去することになるので、これもかなり無理がありそうだ。つまり、中村彝を最後まで看病したというのは誤伝で、東京美術学校へ通うかたわら彝を看病していたが、その途中で渡仏してボナールに師事したのではないだろうか。
楠目成照「フエアリーテールス」1920.jpg
中村彝アトリエ(雪).jpg
 東京美術学校へ在学中にもかかわらず、フランスへ留学するきっかけとなったのは、1919年(大正8)開催の帝展第1回展で『Pさんの庭で』が、翌1920年(大正9)の帝展第2回展では『フエアリーテールス』と題された作品が、連続入選したからではないかと想像している。2点とも帝展絵はがきになっているが、『フエアリーテールス』の画面を見ると、まるで大久保作次郎Click!の作品を見ているような錯覚に陥るほど、当時の帝展主流の表現を踏襲していたことがわかる。だが、この作風から渡仏後、どうして表現のまったく異なるボナールへ師事するようになったのかは、日記も記録もないのでいっさいが不明のままだ。
 楠目は作品が帝展に2年連続で入選したあと、それほど間をおかずにフランスへ渡っているのではないだろうか。小倉の実家は裕福だったので、渡仏資金にはほとんど困らなかっただろう。彼が美校の3年生を終えたばかりのころ……だったのではないかと想像するのだ。美校には、数年間の休学届を提出していたのかもしれない。
 楠目成照について、その面影を綴ったものに、妹の華道家だった楠目ちづの文章がある。楠目ちづ自身も、若いころから結核に苦しめられた人生を歩んでいる。彼女は1913年(大正2)生まれなので、次兄の楠目成照とは14~15歳も年が離れていた。2012年(平成24)にいきいき株式会社出版局から刊行された、楠目ちづ『花のように生きれば、人も美しい』から引用してみよう。
  
 上から2番目の、年の離れた兄は画学生でした。20代半ばで、肺病で亡くなってしまったのですが、音楽的な才能ももち合わせており、私は多くの教養を与えてもらい、とりわけピアノを専門的に習った時期もありました。兄は「女の子は音楽と美術をやっていれば大丈夫」と言うことがありました。私は兄のことを尊敬していましたから、子どもながらに、兄の言っていることはほんとうだと信じていました。兄の教えを受け、音楽に夢中になっていた私が、こうして花をお教えしているとは本人もまさか思わないでしょうね。どうして私はお花をお教えしているのでしょう? それは働かなければならず、生きる道として選んだから。でもきっと、この世に生きている魂があるとしたら、兄はとても喜んでくれていると思います。
  
 楠目成照が音楽好きであったとすれば、美校の同級生たちが参加していた池袋シンフォニーClick!にも顔をのぞかせていそうだが、こちらにも楠目の記録はない。
ボナール「パリの朝」1920頃.jpg
ボナール「ル・カネの風景」1924頃.jpg
 さて、楠目成照が中村彝の看病をしていたとすれば、周囲にいた友人の画家や画学生たちがそうであったように、彝アトリエのすぐ近くに住んでいた可能性が非常に高い。だが、中村彝とその周辺にいた人々に記録がない以上、どこに住んでいたのかはまったく不明だ。ただし、下落合には美校の同級生のつながりがある。特に、中村彝のもとへ頻繁に出入りしていたと思われる二瓶等Click!は、北海道の実家が裕福だったせいか下落合584番地に、画学生とは思えない新築の家とアトリエを建ててひとりで住んでいた。彝アトリエから、西へ150mほど歩いたところだ。
 楠目成照は、ひょっとすると同級生だった二瓶等の大きめな家に同居して、ふたりで中村彝アトリエへ毎日通い、床に伏せがちだった彝の面倒をみていたのかもしれない。でも、もうひとつの課題がある。中村彝は、周囲にいる画家や画学生の近況を、よく友人や知人への手紙に書いて送っている。ときに、彼らが取り組んでいる作品のテーマまで触れて知らせている。二瓶等のアトリエ建設も、彝の書簡の中に書かれていた出来事だ。したがって、アトリエへ頻繁に顔を見せる画学生の絵が帝展へ連続入選したら、それについて誰かにあてた手紙で触れてもよさそうなエピソードなのに、彝の書簡のどこにも見当たらない。
 この課題は、楠目成照の帝展入選が1919年(大正8)の第1回展と、1920年(大正9)の第2回展であることにカギがあるのではないだろうか。1919年(大正8)の夏から秋、中村彝は体調が思わしくなく平磯海岸へ転地療養Click!している。つまり、下落合には不在であり、この年の秋には症状がより悪化したのか、『芸術の無限感』には書簡がほとんど収録されていない。9月12日に平磯町から中村春二Click!あてに発信された手紙から、12月14日の洲崎義郎Click!あての手紙へいきなり飛んでいるのだ。楠目の入選については、誰かへあてた手紙で触れる機会を逸したとしても不思議ではない。
 また、1920年(大正9)の第2回展では、中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!が評判になったことで、この課題が解消できるだろうか。つまりこの年の秋、同画の制作で性も根も尽き果て、ほとんど毎日病臥して暮らしていた彝にとっては、アトリエへちょくちょく顔を見せる画学生の入選について、特に知人・友人への手紙の中で触れる余裕がなかった……ということになるだろうか。
 確かに、『芸術の無限感』に収められた書簡を見ると、『エロシェンコ氏の像』を制作する直前の夏、彝は友人の近況や知人の消息について手紙へこまめに書いているが、制作後の手紙にはパトロンや支援者への用件のみを書いたものが多い。いや、楠目成照について書いた手紙があったのかもしれないが、たまたま『芸術の無限感』へ収録されなかったという可能性もあろだろう。
ピエール・ボナール.jpg 楠目ちづ「花のように生きれば、人も美しい」2012.jpg
 楠目成照がパリへ着いたとき、ボナールはパリ近郊のヴェルノンに住んでいた。楠目はどこかでボナールの作品を目にし、彼のアトリエを訪ねたものだろう。それから頻繁に、ヴェルノンのアトリエへ通っては新たな表現法を追究したのかもしれない。だが、志なかばで結核に倒れ、病床に就くことになった。おそらく、ボナールが自作2点を手にして弟子を見舞ったのは、1925年(大正14)のことではないだろうか。ボナールは同年、南フランスのル・カネへ転居しており、そのことを楠目に告げるため作品2点を土産に、はるばる東洋からやってきた弟子を見舞ったのではないかと想定できるのだ。

◆写真上:楠目成照が同居したかもしれない、下落合584番地の二瓶等Click!アトリエ跡。
◆写真中上は、1920年(大正9)の帝展第2回展へ入選し絵はがきにもなった楠目成照『フエアリーテールス』。は、大雪の中村彝アトリエ。
◆写真中下は、ボナールが死の床の楠目成照を見舞った際にプレゼントした『パリの朝』(1920年ごろ)。は、ボナール『ル・カネの風景』(1924年ごろ)。
◆写真下は、ヴェルノンのピエール・ボナール。は、2012年(平成24)に出版された楠目ちづ『花のように生きれば、人も美しい』(いきいき株式会社出版局)。


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