1933年(昭和8)に二科の彫刻家・藤川勇造Click!と洋画家・藤川栄子Click!の夫妻は、大正期から住んでいた戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)のアトリエおよび自宅をリニューアルしている。設計を担当したのは、のちに下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!(1934年)や、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の林芙美子邸Click!(1941年)を設計する山口文象だ。
だが、この全面リニューアルで美しい自邸やアトリエが竣工したにもかかわらず、わずか2年後の1935年(昭和10)6月に藤川勇造は急死している。主のいなくなったアトリエを引き継いだのは、妻で洋画家の藤川栄子Click!だった。藤川勇造が死去する4年前、つまり自宅兼アトリエのリニューアルを計画中だったとみられる1931年(昭和6)に、戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』の「人物事業史」編でも藤川勇造は紹介されている。短いので、同書から引用してみよう。
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彫刻家二科審査員 藤川勇造 戸塚八六六
香川県人藤川米透氏の長男にして、明治十六年十月十日を以て生る、同四十年東京美術学校彫刻家を卒業して、同年九月仏国に留学し、在仏七年帰朝後二科会員に推さるゝ彫刻界の一権威である。
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自宅とアトリエをリニューアルする以前、早稲田通り沿いに大正期から住んでいた藤川夫妻の自宅やアトリエには、彫刻家ばかりでなく、近くに住む洋画家たちが大勢通ってきている。下落合に住んでいた1930年協会Click!の画家たち、すなわち佐伯祐三Click!や里見勝蔵Click!、前田寛治Click!、木下孝則Click!、外山卯三郎Click!らも常連だった。ときに、藤川栄子の“追っかけ”だった長谷川利行Click!も、下落合の里見勝蔵たちを訪ねる道すがら、まちがいなく藤川アトリエの周辺をうろついていただろう。ときに藤川夫妻の主催で、画家たちによるハイキングClick!なども催されていた。
佐伯祐三は、頻繁に藤川アトリエを訪れて親しかったらしく、1927年(昭和2)8月の二度めの渡仏時には、東京駅のプラットホームまで藤川夫妻がわざわざ見送りにきている。また、藤川栄子も佐伯アトリエを頻繁に訪れ、佐伯米子Click!とイーゼルを並べている姿を目撃されている。藤川栄子が佐伯の死後に書いた 1928年(昭和3)発行の「アトリエ」10月号から引用してみよう。
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主人は佐伯さんの美術学校の二年の時に面識があつたやうでした。主人の甥の学友であつた関係からデツサンを持つて批評を頼みに来たことがあるそうです。その時甥は佐伯さんを「ズボ」と言ふニツクネームで読んでゐたそうです。/カラーなども付けないし、少しも風采をかまわないたちなので(ずつと最近までもやはりそうでしたが)実際その親称は打つて付けの名前だと思はれました。あのちつともかまわない、風風飄飄とした氏ではありましたが、実に感傷的で、生一本な芸術家的真実に引込まれて、私達は皆佐伯さんと非常に親むでゆきました。里見氏や、前田氏などは兄弟のやうに可愛がつてゐられたやうです。/二度目の渡欧の時には送別会が幾度も催されました。私の家でも夫妻のために楽しい一夜を過したことを思ひ出します。その時、とても無邪気な、子供子供した騒ぎ方をしてゐられたのが、今、目の前に、はつきりと見るやうな気がします。/渡欧の日、東京駅で、今はなき愛児、彌智子嬢や、佐伯氏との最後の握手を一種悲壮な気持で思ひ出さずにゐられません。主人は佐伯氏に「健康だけを注意し給へ」と言つた時、氏はただ黙つてうなずいてゐられたやうでした。
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佐伯が見ることのできなかった、新しい藤川夫妻の自邸およびアトリエだが、竣工した写真を見ると戸山ヶ原Click!の方角、つまり南側に立木や芝庭を配した母家とアトリエともに洋風建築だったことがわかる。敷地の北側に建てられた母家つづきに、おそらく藤川勇造のアトリエは建てられている。庭に面した南側に大きな採光窓が設けられ、屋根に穿たれた天窓には日光を遮るロール幕が設置されている。彫刻家は、別に北向きの採光窓でなくても仕事に不都合を感じなかったのだろう。
敷地の東側、タネトリClick!=映画撮影所跡の空き地があった方角には、独立した建物が配置されているが、これが藤川栄子のアトリエだと思われる。当時の町工場などの建物によく見られる、屋根上に空気抜きのような小さな屋根がもうひとつ設置され、おそらく北面の屋根から壁にかけて、大きな採光窓が穿たれているのだろう。背後に見えている、昭和初期まで早稲田通り沿いのところどころに残っていた、松林の風情がめずらしい。
藤川勇造の死後、藤川栄子は1983年(昭和58)11月に死去するまで、戦後に改めて建て直したこの敷地の自宅兼アトリエに住んで制作をつづけた。もともと文学をめざしていた藤川栄子は、散歩とおしゃべりが大好きだったらしく、近くの戸塚4丁目593番地に住む窪川稲子(佐多稲子)Click!の家へ出かけてはおしゃべりを楽しみ、上落合2丁目549番地に住んでいた壺井栄Click!や上落合の女性たちと誘い合っては、戸塚界隈や落合地域を歩きまわっていた。
その散歩の様子を記録した、めずらしい写真が残っている。1941年(昭和16)に発行された「スタイル」6月号は、おそらく早稲田通りとみられる商店街を散歩する藤川栄子と壺井栄の姿がとらえられている。ずいぶん前にもご紹介Click!している写真だが、同誌のグラビア「歩きませう」に添えられたキャプションから引用してみよう。
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アトリエから出てらした藤川さんがお友達の壷井さんとごいつしよに戸塚から小滝橋へ、落合から中野までの強行軍です。何も今日にかぎつたことじやありません。藤川さんと壷井さんとは、もう一人ご近所の窪川稲子さんも混つて、戸塚から中野へ中野から戸塚へ、往つたり来たり、下落合界隈を強行なさるのだといふことです。
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この文章で、窪川稲子(佐多稲子)の名前が出ているにもかかわらず、彼女は写っていない。おそらく、3人で散歩をする姿を写したかったのだろうが、ふたりが窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったら不在だったか、雑誌に顔を出したくなかったか、ちょうど新聞社の招きで「満州」への旅行中だったのだろう。彼女たちの家ばかりでなく、一般の家庭には電話など引かれていないので、事前に連絡して待ち合わせをすることなどできなかった。家を訪ねて留守であれば、そのままあきらめるしかなかった時代だ。
キャプションの冒頭に書かれている通り、この写真が「戸塚から小滝橋へ」の散歩であるとするなら、壺井栄は「スタイル」のカメラマンを連れて、まず藤川栄子アトリエを訪ねて散歩に誘い、つづいて窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったが留守だったか、治安維持法違反で検挙・起訴され懲役2年執行猶予4年の判決を受けていたため、グラビアに載って特高Click!を刺激したくなかったためにフレームアウトしたかで、小滝橋へと下る早稲田通りを歩くふたりの姿を撮影したものだ。壺井栄と藤川栄子は同じ香川県出身で仲がよく、本名が坪井栄の藤川栄子と、小説の著者名が誤植でまちがえられた壺井栄の「坪井栄」事件Click!がきっかけとなり、急速に親しくなったものだろう。
写真に撮られたふたりが歩く道路が早稲田通りであり、小滝橋へと向かっているところだとすれば、この撮影ポイントは1ヶ所しか存在しない。冬服を着た子どものマネキンとともに、背後に写っているタイル張りの洋品店は、戸塚4丁目592番地の洋服店(店名不明)だ。位置的には、戸塚4丁目593番地の窪川稲子(佐多稲子)宅から早稲田通りへと出て、小滝橋へ向かい50mほど歩いたところの右手(北側)に開店していた。右側(東隣り)に写るオーニングが張り出した店舗は、中山という人物が経営していた日本食堂だ。実は、窪川宅とこの洋服店との間には、もう1軒のタイル張り洋服店があるのだけれど、その東隣りは「清掃組合」と「田村事務所」が入るオフィスになっており、表が店舗のかまえをしていないので、必然的に撮影場所を1ヶ所に絞ることができた。
ふたり(佐多稲子がいれば3人)は、小滝橋へと出ると橋をわたった先から、キャプションにも書かれているとおり道を右折して、上落合から下落合をめざしたかもしれない。途中、移転前の月見岡八幡社Click!の道筋へと入り、上落合1丁目186番地の村山知義アトリエClick!に立ち寄って、村山籌子Click!にも散歩に出ようと声をかけていただろうか。
◆写真上:戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)の藤川栄子アトリエ跡。
◆写真中上:上・中は、1933年(昭和8)の竣工直後に撮られた藤川勇造アトリエと母家。採光窓のある母家つづきの左手が、藤川勇造アトリエだとみられる。下は新アトリエが竣工した1年後の1934年(昭和9)に藤川勇造アトリエ内で撮影された藤川夫妻。
◆写真中下:上は、庭に別棟として建てられた藤川栄子アトリエとみられる建物。中は、1936年(昭和11)に撮影された藤川栄子の自宅とアトリエ。下は、空襲で焼かれたあと1963年(昭和38)の空中写真にみる戦後の藤川栄子アトリエ。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)発行の「スタイル」6月号に掲載された散歩をする壺井栄(左)と藤川栄子(右)。下は、写真が撮影されたとみられる洋品店の一画で、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕Click!の記憶画より。
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アトリエ新築の直後に死去した藤川勇造。
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