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小学生のころ夏休みの自由研究というと、よく昆虫採集をしたものだ。その様子は、以前にも記事Click!に書いたことがあるが、近くに森や山がある地域の方は、子どものころの虫捕りは誰でも経験しているのではないだろうか。(女子Click!は別かな?) 大人になるとともに、虫とは縁遠くなりめったに捕まえることがなくなるけれど、子どもが生まれたりすると再び補虫網を手にしては、近くの森や山へと出かけることになる。
わたしにとって、いちばん印象的な虫捕りの場所は大磯Click!の渓流だった。水辺に下りて待ち受けていると、1時間でオニヤンマが数匹は捕まえられた。ギンヤンマは捕まえたくても、かなり高いところを飛行しているので、子どもたちの背丈や技量ではむずかしい。夕暮れどきに、松林の上に拡がる空を琥珀色の羽で染める、ギンヤンマの大群をうらめしげに見上げていた。特に、胸と腹の間に空色が入るギンヤンマの♂を、手に入れたくてしかたがなかったのを憶えている。
神奈川県の海辺、渚も近い下が砂地の原っぱには、大きなトノサマバッタやショウリョウバッタが群れていたし、近所の林にはあらゆるセミの声が聞こえていた。チョウや甲虫類も多く、そういう意味では虫捕りにはめぐまれた環境だった。逆にいえば、うちの娘のように虫ギライな人間には最悪の環境に見えるだろう。だが、ときおり親が連れ歩いてくれる東京の(城)下町Click!界隈では、虫の影などほとんど見かけなかった。たまに空き地で、渡りをするウスバキトンボの姿を見るぐらいだった。だが、山手にはまだ緑が多く残っていたので、いろいろな虫が棲息していただろう。
下落合での虫捕り場というと、やはり御留山Click!などの森や林、池などがあるエリアだろう。おそらく、1960年代後半から80年代前半あたりにかけては、空気や河川などの汚濁がピークを迎え、虫の姿もあまり見かけなくなったのではないだろうか。だが今世紀に入ってから、樹木が伐られ緑は相変わらず減少しつづけているものの、虫の姿や声は目立って多くなってきた。
わたしの家のまわりだけでも、オニヤンマをはじめ多彩なトンボの姿を見かけるし、ベランダにはカブトムシ(♀)が飛びこんできたりする。いったい長い間どこに隠れていたものか、30年前を考えるとまるで夢のようだ。鳴き声からすると、関東に棲息するセミは全種類いるようだし、夕暮れに神田川沿いを散歩するとギンヤンマの姿さえ見かけるようになった。でも、戦前に比べたら、いまだ非常に数が少ないのだろう。
1963年(昭和38)の「落合新聞」8月11日号に、北杜夫が『雑木林の虫』というエッセイを寄せている。当時の北杜夫は、まだまだ自然が残る世田谷区松原4丁目に住んでいたが、それでも次々と森や林、小川、池などが失われ宅地化されるのを嘆いている。また、当時の世田谷区は田畑が多く、そこで使用されるようになった農薬や除草剤の影響で、戦後は虫の数が激減しているのではなかろうか。ひとたび樹木が伐採され自然が失われてしまうと、その貴重さにあとから気づくのはどこの地域でも同じだった。同号から、北杜夫の文章を引用してみよう。
▼
いま私は世田谷松原に住んでいるが、この附近にも昔は――といってもほんの数年くらい前まで――ネズ山と呼ばれる楢と欅の林があった。私の子供のころは鬱そうとし、涯が知れないようにも思われた。数年前までは、それでも林の形を残していたが、つい先ごろ行ってみると、完全に住宅地となってしまっている。/むかし、私の家の本家が、このネズ山の近所に住んでいた。そこへ遊びにゆくと、同年配くらいの従兄が沢山いたし、ネズ山に虫とりに行くのがまた愉しみであった。
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彼は昆虫採集をはじめると、多くの子どもたちが夢中になるカブトムシやクワガタムシ、トンボ、セミなどはねらわず、しぶいクロカナブンの採集に熱中したらしい。昭和初期の松原では、樹木の幹に黒砂糖を煮て酒を混ぜたシロップを塗っておくと、ありとあらゆる甲虫類が集まってきたようだ。北杜夫は、カブトムシやクワガタムシは友だちに上げてしまいカナブン、特にクロカナブンの採集に明け暮れた。
わたしの感覚からすると、このカナブンの“趣味”は理解できない。わたしが子ども時代をすごした海辺や付近の里山では、クロカナブンにしろアオカナブンにしろ、ありとあらゆるカナブン類が棲息していたので、むしろカブトムシやクワガタムシのほうが捕まえにくくて貴重だった。
少年時代の北杜夫(斎藤宋吉)が住んでいたのは、南青山の「青山脳病院」(火災後の分院)近くの自宅だったろうが、下落合ともなんらかのつながりがあったのだろうか? 「落合新聞」を主宰する竹田助雄Click!とは、旧知の間がらのようだが、北杜夫は1927年(昭和2)の生まれであり、1921年(大正10)生まれの竹田助雄とは6歳も年が離れているので、子どものころからの知り合いだったとは考えにくい。
ただし、北杜夫の自伝的小説である『楡家の人びと』には「目白」が、下北沢から行方不明になった「桃子」がらみの情景として登場している。1964年(昭和39)に新潮社から出版された、北杜夫『楡家の人びと』より引用してみよう。
▼
そして歴史は繰り返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。
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この「目白」が山手線の駅名であり、「アパート」のイメージが下落合だったとすると、戦前から斎藤家と下落合にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。だが、1931年(昭和6)8月に下落合へ転居してくる竹田助雄との関係は、以前から佐藤愛子らも参加していた文学サークル「文芸首都」の関連ではないだろうか。佐藤愛子もまた、同人つながりで1967年(昭和42)2月2日の「落合新聞」にエッセイを寄せている。
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また、1982年(昭和57)出版の竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』(創樹社)には、執筆を依頼するために松原の北杜夫邸を訪ねた、次のような記述がある。
▼
「こんな稚ない新聞でわるいんだけど、頼む」/その新聞(落合新聞)を見ながら彼は、/「何かしら書いているんだね」とにっこりし、「みんな、どうしてる」と訊ねた。/「みんなも何かしら書いている」と答えた。SもAも同人誌を主宰し、Kは近代文学によいものを書いた、などと話した。原稿は四枚書いて欲しいと頼んだ。/「どういうことを書いたら、いいかな」/私は“落合秘境”のことを話した。もう、何人もの人に打明けたと同じことを、北杜夫にも気恥かしそうに話した。(カッコ内引用者註)
▲
1933年(昭和8)に保高徳蔵がはじめた、文芸誌「文芸首都」での北杜夫や佐藤愛子とのつながりが、戦後も途切れずにそのままつづいていたのだろう。
さて、北杜夫は子どものころに虫を熱心に観察・分類することは、大人になる前の観察眼を養う成長過程であり、大人になってからあらゆるものを観察し分類する思考へと結びつく“原体験”だと書いている。「落合新聞」の同エッセイより、再び引用してみよう。
▼
少年時代のこうしたほしいままの虫への熱中は、多くの場合跡方(ママ)もなくさめていってしまうものだ。それはそれでよいことだろう。ただ、彼らは彼なりに、なんらかのものを――たとえ追憶の一片なりとも――掴んでゆく。/もう少し進んで、たとえば樹液にくる蝶と花にくる蝶を区別するようになる。蛾の中で、どんなものが樹液にくるか知るようになってくる。これは自然観察の第一歩である。なにも虫に限ったことではない。何者かを観察し分類するという業の、それは虫の姿を借りた芽生えなのである。
▲
わたしは昆虫採集をするとき、それほど虫たちを細かく観察し分類していた憶えはない。夏休みの宿題で、標本にする虫の名前を調べるときは、確かに図鑑や資料類には当たるけれど、ことさら意識して頭の中に“分類系統”図を描いた記憶がないのだ。どこにいけば、どのような虫が棲息していて捕まえられるかは研究したけれど、それは虫を捕まえるという行為自体が楽しいからであり、スリリングな感覚を味わえるからにほかならない。
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それが大人のいまになって、「何者かを観察し分類するという業」のベースになっているかといわれると、ほとんど役に立っていないのではないだろうか。むしろ、虫たちがたくさんいる濃密な環境の中ですごした子ども時代は、観察や分類といった理性的なプロセスの形成などではなく、情緒的かつ感性的な精神面を養い成長させるのに不可欠な、かけがえのない時間だったように感じるのだ。
◆写真上:下落合の坂道で、このような環境と水辺がないと虫は棲息しにくい。
◆写真中上:ともにヤンマを代表するトンボで、オニヤンマ(上)とギンヤンマ(中)。オニヤンマは、子どもが通った落合第四小学校Click!の教室へ飛びこんできたこともある。ともに、「新・理科教材データベース」Click!より。下は、ベランダへよく飛びこんでくるミンミンゼミ。網戸へたかるようになると、そろそろ寿命が尽きるころだ。
◆写真中下:上は、人をあまり警戒しないシオカラトンボ♀(ムギワラトンボ)。下落合には、人懐っこいミヤマアカネも多い。中左は、1961年(昭和36)出版の北杜夫『ドクトルマンボウ昆虫記』(中央公論社)。中右は、1964年(昭和39)出版の北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)。下は、1924年(大正13)に焼失した南青山の「青山脳病院」全景。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)8月11日の「落合新聞」より。下は、周辺に虫が多いとマイナス面もある。緑が濃い森の中で遊び、まんまとチャドクガの毒針毛にやられた左腕。2週間ほど消えなかったが、聖母病院Click!の皮膚科に診せたら“悪い病気”だと思われたのか、女医さんが気味悪がってあまり近づかなかった。ww
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小学生のころ夏休みの自由研究というと、よく昆虫採集をしたものだ。その様子は、以前にも記事Click!に書いたことがあるが、近くに森や山がある地域の方は、子どものころの虫捕りは誰でも経験しているのではないだろうか。(女子Click!は別かな?) 大人になるとともに、虫とは縁遠くなりめったに捕まえることがなくなるけれど、子どもが生まれたりすると再び補虫網を手にしては、近くの森や山へと出かけることになる。
わたしにとって、いちばん印象的な虫捕りの場所は大磯Click!の渓流だった。水辺に下りて待ち受けていると、1時間でオニヤンマが数匹は捕まえられた。ギンヤンマは捕まえたくても、かなり高いところを飛行しているので、子どもたちの背丈や技量ではむずかしい。夕暮れどきに、松林の上に拡がる空を琥珀色の羽で染める、ギンヤンマの大群をうらめしげに見上げていた。特に、胸と腹の間に空色が入るギンヤンマの♂を、手に入れたくてしかたがなかったのを憶えている。
神奈川県の海辺、渚も近い下が砂地の原っぱには、大きなトノサマバッタやショウリョウバッタが群れていたし、近所の林にはあらゆるセミの声が聞こえていた。チョウや甲虫類も多く、そういう意味では虫捕りにはめぐまれた環境だった。逆にいえば、うちの娘のように虫ギライな人間には最悪の環境に見えるだろう。だが、ときおり親が連れ歩いてくれる東京の(城)下町Click!界隈では、虫の影などほとんど見かけなかった。たまに空き地で、渡りをするウスバキトンボの姿を見るぐらいだった。だが、山手にはまだ緑が多く残っていたので、いろいろな虫が棲息していただろう。
下落合での虫捕り場というと、やはり御留山Click!などの森や林、池などがあるエリアだろう。おそらく、1960年代後半から80年代前半あたりにかけては、空気や河川などの汚濁がピークを迎え、虫の姿もあまり見かけなくなったのではないだろうか。だが今世紀に入ってから、樹木が伐られ緑は相変わらず減少しつづけているものの、虫の姿や声は目立って多くなってきた。
わたしの家のまわりだけでも、オニヤンマをはじめ多彩なトンボの姿を見かけるし、ベランダにはカブトムシ(♀)が飛びこんできたりする。いったい長い間どこに隠れていたものか、30年前を考えるとまるで夢のようだ。鳴き声からすると、関東に棲息するセミは全種類いるようだし、夕暮れに神田川沿いを散歩するとギンヤンマの姿さえ見かけるようになった。でも、戦前に比べたら、いまだ非常に数が少ないのだろう。
1963年(昭和38)の「落合新聞」8月11日号に、北杜夫が『雑木林の虫』というエッセイを寄せている。当時の北杜夫は、まだまだ自然が残る世田谷区松原4丁目に住んでいたが、それでも次々と森や林、小川、池などが失われ宅地化されるのを嘆いている。また、当時の世田谷区は田畑が多く、そこで使用されるようになった農薬や除草剤の影響で、戦後は虫の数が激減しているのではなかろうか。ひとたび樹木が伐採され自然が失われてしまうと、その貴重さにあとから気づくのはどこの地域でも同じだった。同号から、北杜夫の文章を引用してみよう。
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いま私は世田谷松原に住んでいるが、この附近にも昔は――といってもほんの数年くらい前まで――ネズ山と呼ばれる楢と欅の林があった。私の子供のころは鬱そうとし、涯が知れないようにも思われた。数年前までは、それでも林の形を残していたが、つい先ごろ行ってみると、完全に住宅地となってしまっている。/むかし、私の家の本家が、このネズ山の近所に住んでいた。そこへ遊びにゆくと、同年配くらいの従兄が沢山いたし、ネズ山に虫とりに行くのがまた愉しみであった。
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わたしの感覚からすると、このカナブンの“趣味”は理解できない。わたしが子ども時代をすごした海辺や付近の里山では、クロカナブンにしろアオカナブンにしろ、ありとあらゆるカナブン類が棲息していたので、むしろカブトムシやクワガタムシのほうが捕まえにくくて貴重だった。
少年時代の北杜夫(斎藤宋吉)が住んでいたのは、南青山の「青山脳病院」(火災後の分院)近くの自宅だったろうが、下落合ともなんらかのつながりがあったのだろうか? 「落合新聞」を主宰する竹田助雄Click!とは、旧知の間がらのようだが、北杜夫は1927年(昭和2)の生まれであり、1921年(大正10)生まれの竹田助雄とは6歳も年が離れているので、子どものころからの知り合いだったとは考えにくい。
ただし、北杜夫の自伝的小説である『楡家の人びと』には「目白」が、下北沢から行方不明になった「桃子」がらみの情景として登場している。1964年(昭和39)に新潮社から出版された、北杜夫『楡家の人びと』より引用してみよう。
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そして歴史は繰り返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。
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この「目白」が山手線の駅名であり、「アパート」のイメージが下落合だったとすると、戦前から斎藤家と下落合にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。だが、1931年(昭和6)8月に下落合へ転居してくる竹田助雄との関係は、以前から佐藤愛子らも参加していた文学サークル「文芸首都」の関連ではないだろうか。佐藤愛子もまた、同人つながりで1967年(昭和42)2月2日の「落合新聞」にエッセイを寄せている。
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「こんな稚ない新聞でわるいんだけど、頼む」/その新聞(落合新聞)を見ながら彼は、/「何かしら書いているんだね」とにっこりし、「みんな、どうしてる」と訊ねた。/「みんなも何かしら書いている」と答えた。SもAも同人誌を主宰し、Kは近代文学によいものを書いた、などと話した。原稿は四枚書いて欲しいと頼んだ。/「どういうことを書いたら、いいかな」/私は“落合秘境”のことを話した。もう、何人もの人に打明けたと同じことを、北杜夫にも気恥かしそうに話した。(カッコ内引用者註)
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1933年(昭和8)に保高徳蔵がはじめた、文芸誌「文芸首都」での北杜夫や佐藤愛子とのつながりが、戦後も途切れずにそのままつづいていたのだろう。
さて、北杜夫は子どものころに虫を熱心に観察・分類することは、大人になる前の観察眼を養う成長過程であり、大人になってからあらゆるものを観察し分類する思考へと結びつく“原体験”だと書いている。「落合新聞」の同エッセイより、再び引用してみよう。
▼
少年時代のこうしたほしいままの虫への熱中は、多くの場合跡方(ママ)もなくさめていってしまうものだ。それはそれでよいことだろう。ただ、彼らは彼なりに、なんらかのものを――たとえ追憶の一片なりとも――掴んでゆく。/もう少し進んで、たとえば樹液にくる蝶と花にくる蝶を区別するようになる。蛾の中で、どんなものが樹液にくるか知るようになってくる。これは自然観察の第一歩である。なにも虫に限ったことではない。何者かを観察し分類するという業の、それは虫の姿を借りた芽生えなのである。
▲
わたしは昆虫採集をするとき、それほど虫たちを細かく観察し分類していた憶えはない。夏休みの宿題で、標本にする虫の名前を調べるときは、確かに図鑑や資料類には当たるけれど、ことさら意識して頭の中に“分類系統”図を描いた記憶がないのだ。どこにいけば、どのような虫が棲息していて捕まえられるかは研究したけれど、それは虫を捕まえるという行為自体が楽しいからであり、スリリングな感覚を味わえるからにほかならない。
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それが大人のいまになって、「何者かを観察し分類するという業」のベースになっているかといわれると、ほとんど役に立っていないのではないだろうか。むしろ、虫たちがたくさんいる濃密な環境の中ですごした子ども時代は、観察や分類といった理性的なプロセスの形成などではなく、情緒的かつ感性的な精神面を養い成長させるのに不可欠な、かけがえのない時間だったように感じるのだ。
◆写真上:下落合の坂道で、このような環境と水辺がないと虫は棲息しにくい。
◆写真中上:ともにヤンマを代表するトンボで、オニヤンマ(上)とギンヤンマ(中)。オニヤンマは、子どもが通った落合第四小学校Click!の教室へ飛びこんできたこともある。ともに、「新・理科教材データベース」Click!より。下は、ベランダへよく飛びこんでくるミンミンゼミ。網戸へたかるようになると、そろそろ寿命が尽きるころだ。
◆写真中下:上は、人をあまり警戒しないシオカラトンボ♀(ムギワラトンボ)。下落合には、人懐っこいミヤマアカネも多い。中左は、1961年(昭和36)出版の北杜夫『ドクトルマンボウ昆虫記』(中央公論社)。中右は、1964年(昭和39)出版の北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)。下は、1924年(大正13)に焼失した南青山の「青山脳病院」全景。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)8月11日の「落合新聞」より。下は、周辺に虫が多いとマイナス面もある。緑が濃い森の中で遊び、まんまとチャドクガの毒針毛にやられた左腕。2週間ほど消えなかったが、聖母病院Click!の皮膚科に診せたら“悪い病気”だと思われたのか、女医さんが気味悪がってあまり近づかなかった。ww