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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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襲撃後に下落合へ転居した細川隆元。

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矢田坂下.JPG
 1936年(昭和11)の二二六事件Click!の際、上落合1丁目476番地の神近市子Click!の隣家に住む、東京朝日新聞社で政治部長(事件当時は次長か?)だった細川隆元邸が何者かに襲撃された証言をご紹介した。蹶起将校のひとりだった竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地と細川隆元邸のごく近くにあったため、同日の午前中に東京朝日新聞社を襲撃している中橋基明中尉に情報を提供したものだろうか。新聞社を襲撃した部隊のうち、一部の支隊が上落合の細川邸を襲っている可能性が高そうだ。
 どのような襲撃だったのかは、細川自身が証言しているのを読んだことがないし、当時の記録も見かけないので詳細は不明だが、おそらく細川隆元は襲撃後ほどなく、上落合から下落合へと転居していると思われる。中井駅の改札を出て踏み切りをわたり、道を北へ進むと中ノ道Click!(中井通り)とのT字路に突き当たる。転居後の邸はその真正面、すなわち現在はみずほ銀行中井支店やセブンイレブンのある斜面に細川隆元が住んでいた……という伝承を、わたしは地元の方からうかがっていた。一ノ坂Click!「矢田坂」Click!にはさまれた、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)あたりだ。
 改正道路(山手通り=環6)の道路工事Click!の進捗とともに、一ノ坂と振り子坂Click!の間を抜けていた山道のような細い「矢田坂」は全的に消滅し、現状ではちょうど同区画は三角形に切り取られたような敷地になっている。この場所で葬儀が行われているのを、当時は目白文化村Click!の第一文化村に住んでいた東京外国語学校の学生であり、のちに毎日新聞社の記者になる名取義一Click!が目撃している。
 ちなみに、名取義一は1935年(昭和10)4月に18歳で東京外国語学校へ入学し、翌年の同校1年生のときに二二六事件を経験している。そのときの様子を、名取義一『東京・目白文化村』(私家版)から少し長いが引用してみよう。
  
 大雪の昭和十一年二月二十六日、東京外語の一年生で、第三学期の試験・第二日目――父は風邪で休み――なので、学校へと玄関を出た。/すると、ちょうど妹が、通学の千代田高女近くから戻ってきた。/して「大変よ。何かあったらしいの。学校へはゆけないので……」とえらく興奮して話しかけてきた。/「何事だろう」と考えながら、といってラジオ・ニュースは……まだだし、と家を出て平常の如く西武線・中井駅から省線・水道橋駅へ。ここから神田の古本街を通り「如水会館」の所に来ると、黄色い冬外套で、剣付銃の兵士が通行人をいちいち検問しているではないか。/なるほど、大事件が起きたのだナ、と。/「誰だ、どこに行く」と訊かれ「外語生です。今日は試験なので……」と応えると、「よし。行け」とあっさり通してくれた。近くでは外語の外人講師が追い返されていた。/教室に入ると、皆がガヤガヤ、状況がさっぱり判断できなかった。それより、私は窓外で、つまり共立女子学園の方に向け、機関銃坐ができていて、兵士らが伏せているのに、思わず緊張した。一体、敵は……。内線か……。/試験が始まったが、心忙しく、そのうち試験は取止めということになり、以後は連絡を待てとのことになった。
  
細川隆元邸1936.jpg
細川隆元邸1938.jpg
 名取義一は東京外国語学校の神田キャンパスへ、運行していた電車(西武線→山手線→中央線)でたどり着き期末試験を受けている。一方、妹は麹町区四番町の千代田高等女学校へは、途中で東京市電が一部区間を運行停止にしていたものだろうか、登校できなかったのがわかる。
 名取義一を水道橋で誰何(すいか)したのは、蹶起部隊の兵士ではなく当日の午前中から街中に展開していた警備兵のひとりとみられ、同日午後から警備兵が東京の街角へいっせいに展開した……という通説が、わたしの祖母や親父の証言Click!とともに、ここでも覆っているのが判然としている。また、鉄道は大雪にもかかわらず通常どおり運行Click!されており、積雪のせいで遅れが出ていた可能性はあるものの、事件の影響で電車も運行を停止していたという、一部の二二六事件について書かれた本の記述は事実に反する。
 同年4月、東京外国語学校へ二二六事件のリーダー的な存在で元・一等主計(大尉相当)だった磯部浅一夫人の弟が入学し、学内にはいろいろなウワサが流れている。彼が栗田茂(のちの作家・五味川純平)と同級生だったことも、それらのウワサが後世まで記憶されることになった要因なのではないかとみられるが、事実を確認しようがないのでここでは省略する。
 さて、名取義一が細川隆元邸の葬儀を目撃するのは同校3年生のとき、すなわち1938年(昭和13)の暮れだった。つづけて、同書より引用してみよう。
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細川隆元邸1947.jpg
  
 外語生のとき、毎日が乱読また乱読で、このため些か疲れると、夕方必ず近所に散歩に出かけた。/ある日のこと、西武線・中井駅の北側にある高台にゆくと――その下は、いま富士銀行中井支店になっている――“花輪”がずらりと並んでいる木造平屋建てがあった。/その“花輪”を一々見ると、まず“近衛文麿”それに名を忘れたが大臣からのが……。この主人公は一体何物(ママ)なのか、幸い人もいないので、周辺をウロついてみた。/で表札には「細川隆元」とあった。アッ、朝日の有名な記者で、先日、若くして政治部次長から部長になったばかりではないか、それがここに住んでいたとは。/これは同夫人が病死したためであった。(中略) =昭和十三年十二月十六日=/氏は、二・二六事件の折は、社電で起され、ともかく迎えの車で自宅から上落合-大久保へと急いだという。そこで緒方竹虎主筆が、その百人町から同乗し、ともに朝日本社に入った由。/同社が決起部隊(ママ)に襲われたことは、天下周知のことで省略する。それより同(昭和)六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロに襲われている。(カッコ内引用者註)
  
 富士銀行中井支店は、現在のみずほ銀行中井支店のことだが、この証言により細川隆元邸が中ノ道(中井通り)沿いの下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)界隈にあったのは、1938年(昭和13)12月現在、つまり1936年(昭和11)の二二六事件から2年後であることがわかる。
 これにより、神近市子が隣家として証言している上落合1丁目476番地の細川隆元邸、すなわち二二六事件のときに襲撃を受けたのは、下落合へ転居する以前の邸だったことが判明した。換言すれば、細川隆元は上落合の自宅が襲撃を受けたあと、身の危険を感じて早々に下落合4丁目1925番地界隈へ引っ越した……という経緯が推定できる。
 また、名取義一は本人から直接聞いたものだろう、細川隆元は2月26日の早朝に異変をキャッチした本社からの電話で起こされ、迎えのクルマで緒方竹虎とともに数寄屋橋の本社へ急行しており、自宅が襲撃を受けた際には不在だった可能性が高そうだ。襲撃者に応対したのは、家に残っていた夫人たち家族だったかもしれず、そのせいで細川隆元自身の二二六事件に関する印象的なエピソードとして、後日、自宅襲撃について語られる機会があまりなかったのかもしれない。
朝日新聞社1934.jpg
名取義一「東京・目白文化村」.jpg 細川隆元.jpg
 「同六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロ」とあるのは、1987年(昭和62)5月に朝日新聞阪神支局が襲撃された「赤報隊事件」Click!(広域重要指定116号事件)のことで、このテロにより同紙の記者2名が死傷している。1961年(昭和36)の「風流夢譚」事件を想起するまでもなく、現代の中国やロシアのメディアがそうであるように、さまざまな報道・言論機関へのテロによる言論封殺・抑圧は、その後にやってくる自由な意見表示や思想表明を圧殺する“暗黒時代”の予兆として、改めて銘記しておきたい現象のひとつだ。

◆写真上:細川隆元邸があったとみられる、下落合4丁目1925番地界隈の現状。改正道路(山手通り)の工事で消滅した、「矢田坂」の坂下にあたるエリアだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真に見る下落合4丁目1925番地界隈だが、細川邸は上落合にありいまだ転居してきていない。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同地番エリアで、いずれかの住宅が細川邸だろう。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された「矢田坂」の下部。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所で改正道路工事が進捗している。
◆写真下は、1934年(昭和9)に撮影された数寄屋橋の東京朝日新聞本社。下左は、1992年(平成4)に発行された名取義一『東京・目白文化村』。下右は、戦後の細川隆元。

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