下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)には、帝展の洋画家・一原五常Click!がアトリエを建設して住んでいた。おそらく下落合西部の、東京土地住宅Click!によるアビラ村構想Click!により、帝展の画家たちに誘われて昭和初期にアトリエを建てているとみられる。だが、1925年(大正14)に東京土地住宅が破綻してアビラ村事業Click!の継続ができなくなり、一原五常自身が絵画制作だけでは生活が苦しかったのか鹿児島に職を見つけて転居してから、一原アトリエは貸し家となった。そこへ1927年(昭和2)ごろ住みついたのが、沖縄出身の洋画家・名渡山愛順だった。
名渡山アトリエとなった家には、近所に住んだ金山平三Click!や島津一郎Click!などが出入りしたが、沖縄からやってきた画家の卵たちが寄宿するようになる。1931年(昭和6)には、東京美術学校をめざす仲嶺康輝や山元恵一、西村菊雄らが名渡山アトリエに住み、小林萬吾Click!の同舟舎洋画研究所に通っている。
このあたりの経緯は、1986年(昭和61)に新生美術協会が発行した「新生美術」5月号所収の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』に比較的詳しく書かれているのだが、仲嶺におよそ東京の土地勘や地場の記憶がないせいか、この文章には不正確で妙な記述や誤りが目立つ。たとえば、文章の出だしからして、わたしはひっかかってしまった。
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昭和二十年三月九日の夜から翌十日朝にかけ米機B29による東京大空襲は、多大の被害をもたらし、帝都は一夜にして焼野ヶ原と化し、そのため東京都の三十五区は戦後今日の二十三区に変った。
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戦前から地元に住む方がこれを読んだら、すぐにも「?」だろう。3月10日の東京大空襲Click!は、B29の大編隊により最初の1弾が着弾したのが、3月10日午前0時8分(投下時点の7分説もある)であり、前日の9日夜はいまだ空襲警報の段階だった。前夜の23時すぎから翌日の未明にかけて行なわれた、同年4月13日夜半および5月25日夜半の二度にわたる山手空襲Click!と東京大空襲を混同してないだろうか? また、「そのため」に東京35区Click!が22区(のち23区)になってしまったのではなく、敗戦を機に人口の急減で戦後の行政統合と自治体の業務効率化、財政緊縮の流れにより23区化 (面積は35区とほぼ同じだ)されたのであって、東京大空襲とは直接なんら関係がない。
下落合における表現も同様で、耳野卯三郎Click!(上高田422番地=最寄りは西武線の新井薬師駅)や大久保作次郎Click!(下落合540番地=最寄りは山手線の目白駅)、鈴木誠Click!(下落合464番地=同)、片多徳郎Click!(下落合596番地=最寄りは西武線の下落合駅)など各画家のアトリエをすべて「中井駅附近」と書くなど、このあたり土地勘のおかしさをあらかじめ含みおきつつ、同文から引用してみよう。
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昭和十年神宮外苑の日本青年会館に沖縄から舞踏団が来て三日位沖縄の種々の芸能が披露された。真境名由康。新垣松含ら大ぜいの舞踏団であった。/私は、金山夫妻と、医学博士でアララギ派の歌人斎藤茂吉夫妻のおともをして行った。金山平三夫妻は沖縄がすきになり、それから間もなくして沖縄に旅行された。/名渡山愛順は、美校を卒業して夫妻と愛拡が沖縄に帰り、借りていたアトリエは家主に返さねばならぬので、私達三人は別に附近に家をかりて、自炊生活をする事になった。高田馬場駅の近くには、洋画家の安宅安五郎がいて、私達三人は、笹岡了一に連れられてアトリエを訪問した。中井駅の近くには詩人萩原朔太郎と離縁したマダムが、ワゴンという喫茶店を経営して私達三人は笹岡了一、南風原朝光らとここでコーヒーを飲みながら談笑した。南風原朝光は、すぐ近くの上落合に住んでいた。
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これを読むと、金山平三Click!と斎藤茂吉Click!は疎開先の山形県大石田で知り合ったのではなく、もっと以前から知人関係にあったことがわかる。急速に親しくなったのが、大石田での疎開生活だったのだろう。また、金山平三は沖縄舞踊も踊れたClick!らしいことがうかがわれて面白い。また、萩原稲子Click!の喫茶店「ワゴン」Click!には、文学関係者だけでなく画家たちも常連で出入りしていた様子がうかがえる。
また、仲嶺康輝は帝展つながりのせいか、下落合(2丁目)604番地に住む牧野虎雄アトリエClick!を頻繁に訪問していたようだ。牧野アトリエの並びや向かいにあった、二科の曾宮一念Click!(下落合623番地)や帝展の片多徳郎のアトリエについては記述がないので、特に訪ねはしなかったのだろう。つづけて、同文から引用してみよう。
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下落合駅の近くには、洋画家の牧野虎雄が木造瓦葺、平屋に独身で住んでいて制作していた。一日に清酒二升五合を飲み、訪れる人には、お茶がわりに酒を出していた。日本間の畳の上ですわって絵を描き、小道具は熊手で自分の所に引き寄せていた。酒のみの妻はかわいそうだと言って妻帯せずときどき新橋の芸者屋に行っていた。アルコール中毒で絵を描く時も、学校で絵の指導する時もガソリンがきれたと言って洋服のポケットから出して小瓶の洋酒を飲んでいた。/牧野虎雄は、旺玄社(戦後旺玄会)の創立者で、ふだんの身の廻りは、酒屋の番頭が見ていた。
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1932年(昭和7)の前後、牧野虎雄はすでに重度のアルコール依存症だったことがわかる。向かいにアトリエをかまえていた、より重症なアル中の片多徳郎が訪ねてきたりすると、牧野アトリエは目もあてられない状態になったのではないか。
なお、曾宮一念のスケッチや回顧録Click!などから、牧野アトリエは洋間ばかりの家だと想定していたが、和洋折衷住宅だったのかどうやら和室をアトリエとして使っていた様子がうかがえる。したがって、以前の記事でご紹介した牧野虎雄の写真Click!は、年齢的な容貌からいっても長崎ではなく、下落合604番地のアトリエの可能性が高い。
名渡山愛順は、1932年(昭和7)に沖縄にアトリエを建て、同時に沖縄県立第二高等女学校で教職につくために帰郷するので、しばらく共同生活をつづけていた3人の画学生は、やがて一原五常アトリエを出なければならなくなった。代わりに借りたのが、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエだった。中井御霊社のちょうど南側にあたる、八ノ坂の西側一帯の地番だが、名古屋で僧職に就いている林明善の留守番というかたちでアトリエを借り受けている。
さて、少し余談になるけれど、仲嶺康輝はこの文章の中で佐伯祐三Click!による『下落合風景』Click!の場所特定を試みている。八島邸の赤い屋根を入れた八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を、金山平三アトリエClick!前の南北通りを北から南に向いて描いたものだと規定している。つまり、突き当たりに見える大きな屋根の家が金山アトリエだとした。おそらく、1931~34年(昭和6~9)ごろ実際に目撃した風景の断片を思い返しながら、描画ポイントの特定を試みたものだろう。だが、佐伯の画面に描かれた道が左ではなく右へクラックしている様子、犬を連れて散歩する人物が右手の坂を下っていく様子、描かれた三間道路には下水道の整備など早くから手が加えられている様子、同風景を描いた他のバリエーション作品(たとえば晴れ間のあるバージョン)の光線が射しこむ方角のちがいなどから、仲嶺の特定位置とはことごとく一致しない。
そしてなによりも、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と三ノ坂Click!にはさまれた金山平三アトリエ前の南北道が拓かれ、上ノ道から南下する路地とつながったのは昭和に入って少ししてからであり、佐伯がいた1926年(大正15)ごろには道路自体が存在せず、家もほとんど見あたらない一面の野原だったはずだ。ついでに、仲嶺康輝は1986年(昭和61)に下落合4丁目(現・中井2丁目)を歩きながら、「新生美術」用の写真撮影をしているようなのだが、島津源吉邸Click!母家の建設位置を四ノ坂の西側と書いたり、刑部人アトリエClick!を三ノ坂に面したアトリエ東隣りの2階家に規定するなど、50年以上も前の曖昧な記憶に頼らず、もう少し事前に東京あるいは下落合の下調べをしてから原稿を書くべきだったろう。
仲嶺康輝は、林明善アトリエから帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)さらには多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へ通いつつ、金山平三Click!アトリエのダンスパーティClick!(忘年会)などへ頻繁に顔を出している。しばらくすると、愛知県からやってきた洋画家をめざす荻太郎や小林久と同居するようになるのだが、それはまた、次の物語……。
◆写真上:下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の一原五常アトリエ跡で、昭和初期には一原が不在となり名渡山愛順が借り受け沖縄の画学生たちが集合していた。
◆写真中上:上は、戦後すぐのころの名渡山愛順。中は、1946年(昭和21)に制作された名渡山愛順『首里の追憶』。下は、1959年(昭和34)制作の同『青藍絣の女』。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる一原五常アトリエ。中は、1934年(昭和9)に撮られた「沖縄美術協会」展の記念写真。前列右端が山元恵一、後列右からふたりめが仲嶺康輝で右端が西村菊雄。下は、1974年(昭和49)制作の山元恵一『ペルーの皿』。シュルレアリズムの作風は、どこか三岸好太郎Click!を想起させる。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる一原五常アトリエ。中は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる一原アトリエ。下は、2012年(平成24)11月撮影の一原アトリエ側の道筋から眺めた解体寸前の金山アトリエ。