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大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。

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十返千鶴子邸.JPG

 下落合にある氷川明神社Click!の少し東側から上る、権兵衛坂(大倉坂)と呼ばれる急坂には、十返千鶴子Click!が「御禁止山の神木」と名づけたカシの老木が生えていた。だが、戦前の一時期まで大倉財閥が所有していたこの山は、地元では名前がないので「権兵衛山」あるいは「大倉山」と呼ばれていたので、正確には「大倉山(権兵衛山)の神木」と表現するのが正しいのだろう。御留山Click!(御禁止山)は160mほど東へ寄ったピークを中核とする一帯であり、1939年(昭和14)までは相馬孟胤邸Click!の敷地内にあった。
 当然ながら十返千鶴子も、「大倉山」という呼称を知っていたが、竹田助雄Click!の「落合新聞」へエッセイを寄稿するにあたり、彼の記事で「御禁止山」という文字を頻繁に目にしていたせいか、あえて「御禁止山の神木」としているのかもしれない。1966年(昭和41)11月30日に発行された「落合新聞」の、十返千鶴子『御禁止山の神木』から引用してみよう。ちなみに、同エッセイの挿画は佐伯米子Click!が担当している。
  
 わたしの家の入口にそって大きな樫の老樹がある。ここに家を建てて住んだ十年ほど前には、この樫も、樹齢二〇〇年くらいと推定される大木の貫録をみせて、亭々と聳えたつ梢のさきに、神々しいまでの威厳をただよわせていた。/このあたりは、落合秘境と地つづきの南斜面で、地もとの人には大倉山という名で呼ばれている、木々の多い場所である。ほんらいは、御禁止(おとめ)山の一部らしいのだが、もと大倉家の所有地であったために、その名で呼ばれているようだ。/それはさておき、ここに家を建てた当時は、今よりももっと木立が深く、樹齢一〇〇年は降らないと思われる樅の木や、枝ぶりのよい松林などで、昼なお暗い、うっそうたる坂道だったものである。その中でも、わたくしの家のまん前にそそりたつ樫の大木だけは、ひときわ高く、誇らしげにその梢を大空に拡げきって、堂々たる威容をみせていたのである。/「あの樫だけは、この大倉山の御神木ですからね、ぜったいに切り倒したりしてはいけませんよ、祟りがあるからね」
  
 1970年末から80年代にかけ、学生のわたしは権兵衛坂を何度か上下しているが、このカシの老木については特に記憶がない。坂の両側には、いまだ樹木がたくさん繁っていたので、特に印象に残らなかったものだろうか。「十返」という表札は、めずらしい苗字なのでなんとなく憶えている気はするのだが、そこが戦後の十返千鶴子(あるいは十返肇Click!)の自邸なのを知ったのは、もう少しあとの時代だ。
 当時の権兵衛山(大倉山)には、ところどころにケヤキやマツなどの緑がまだまだ多く繁り、息切れがする傾斜の急なバッケ坂Click!だったにもかかわらず、すがすがしくて気持ちのいい坂道だったのを憶えている。ようやく坂を上り終え、七曲坂Click!と合流するあたりからは、北側のやや下った細い路地沿いにヒマラヤスギの大木が見えていた。このヒマラヤスギは、戦前から路地沿いに植えられていたもので、昭和初期にはことに一帯を薄暗く不気味に見せていたと、七曲坂の庚申塚Click!について取材しているとき、堀尾慶治様Click!からもうかがったことがある。
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十返邸リニューアル.JPG

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権兵衛山ピーク.JPG

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落合新聞19661130.jpg

 その後、カシの「神木」は勢いがなくなり、十返邸の屋根を覆うほどだった枝葉が年々少なくなっていったらしい。このエッセイが書かれた1966年(昭和41)の時点で、幹から分岐した枝が「わずか一、二本残るだけ」になってしまったので、ほどなく枯死してしまったのかもしれない。ただし、この「神木」が存在しなかったとしても、学生時代に歩いた権兵衛坂は住宅の庭に繁る樹木も含め、まだまだ緑が濃かった印象がある。
 ここで少し余談だけれど、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月24日に描いた「下落合風景」作品Click!に、「かしの木のある家」Click!というタイトルがある。それに該当しそうな画面は、モノクロ写真で残されてはいるが、いまだどこの丘の風景を描いたのか不明な作品だ。丘の中腹にカシと思われる樹木がポツンと描かれ、丘上に当時は一般的だったふつうの住宅が3軒描かれている。
 十返千鶴子の「神木」エッセイを読んだとき、佐伯の「かしの木のある家」の画面を真っ先に思い浮かべたのだが、残念ながら大正末から昭和初期にかけて、このような風情は大倉山(権兵衛山)には見られない。そもそも、この丘が宅地開発されるのは戦後になってからのことで、戦前には急な斜面に林や原っぱが拡がる“山林”状態のまま、住宅はほとんど1軒も建っていなかった。
 さて、戦後に拓かれた権兵衛坂が通う住宅地を、小説に取り入れて書いたのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。以前にも、権兵衛坂の中腹からの眺めを描写した同作の文章を引用したことがあるが、十返千鶴子のエッセイ『御禁止山の神木』に書かれている風景と『虚無への供物』の執筆は、時代的にほぼ同時期で重なっている。中井英夫は、最終的に「ザ・ヒヌマ・マーダー」を解決する「牟礼田の家」を、権兵衛坂の急峻な斜面に設定している。
 部厚い長編小説『虚無への供物』の中で、「下落合の牟礼田の家」の様子が描かれるのは、全編を通して4ヶ所。白壁の邸で、南を向いてアトリエ風の大きな窓がある家、そして麓の下落合氷川明神社から見上げることができる家という描写はあるが、1950年代末に見られた権兵衛山(大倉山)全体の風情、大樹が多かった木々については特に触れられていない。これは、ある意味では当然といえば当然なのかもしれない。
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十返千鶴子1947.jpg

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十返千鶴子1963.jpg

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十返千鶴子1975.jpg

 1987年(昭和62)に三一書房から出版された『中井英夫作品集Ⅹ/死』所収の『虚無への供物』より、第二章に登場する「牟礼田の家」の描写から引用してみよう。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう。読まなかった? いつかの『続・幻影城』に出てるの。ホラ、あのカーテンの傍にいるのは藍ちゃんらしいけど、ちょうど顔までは判らなくて、背恰好だけ判るぐらいの距離だから、先に藍ちゃんを殺した犯人が、何かの仕掛をして、ここから他の目撃者と一緒に犯行を見守ればいいってわけ。それにちょっと歩くと、ね、もう隠れて見えないんですもの」
  
 ここには高田馬場駅から栄通り、田島橋、下落合氷川明神社、そして「狭い坂道」の権兵衛坂までの情景が描かれているが、当時は十三間通りClick!(新目白通り)が存在していないので、田島橋をわたり西武線の踏み切りを越えて氷川社の前でクルマから降りるまで、両側には小規模な工場や商店街が並ぶ、やたらカーブの多い細い道筋に感じただろう。氷川社の周囲にも、かろうじて1931年(昭和6)まで下落合駅Click!前だった商店街の風情が残っていた時代だ。また、他の章に書かれた「牟礼田の家」でも同様だが、特に大倉山の斜面に生えた特徴的な「神木」や大木についての描写はない。
 下落合の西部、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んで『虚無への供物』を執筆していた中井英夫は、おそらく散歩の途中で権兵衛坂を上り、「牟礼田の家」のイメージを膨らませているのだろう。ときに、権兵衛坂が大きくクラックする斜面に建つ、緑に覆われた十返邸の前で足を止めて新宿方面を眺めているのかもしれない。でも、当時の下落合はケヤキやクヌギ、カシ、クスなどの大木があちこちに繁り、権兵衛坂に生えていたカシの老樹や多彩な大木をことさら描写する意味、すなわち当時の下落合ではごく一般的でありふれた目白崖線沿いの風景を、特に描く“必要性”を感じなかったのだ。
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権兵衛坂.JPG

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中井英夫1964.jpg
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池添邸大谷石塀.jpg

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十返邸鳥瞰.jpg

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大倉山麓からの眺め.JPG

 また、より緑が濃かった下落合の西部に住む中井英夫にしてみれば、権兵衛坂が通う急斜面は下落合ではよく目にする、ありふれた住宅街の一画……ぐらいにしか感じなかったものだろう。もし彼が、大倉山の「神木」についてあらかじめいくばくかの知識を持っていれば、世界じゅうの神話や宗教的な事蹟には敏感な彼のことだから、なんらかの謂れとともに「牟礼田の家」の描写へと取り入れていたかもしれない。

◆写真上:2007年(平成19)に権兵衛坂で撮影した、解体前の十返千鶴子邸。
◆写真中上は、リニューアル工事中の同邸。右手に見える大きな樹木は、戦前から繁っていたホオの木だろうか。は、大倉山(権兵衛山)の山頂界隈。は、「落合新聞」1966年(昭和41)11月30日号に掲載された十返千鶴子『御禁止山の神木』。
◆写真中下は1947年(昭和22)の空中写真にみる大倉山(権兵衛山)、は1963年(昭和38)の十返邸、は1975年(昭和50)の同邸。1963年の写真で、邸の南側に見えていた大樹が1975年の写真では消えているように見える。
◆写真下は、下落合でも有数の傾斜角のある権兵衛坂。中左は、1964年(昭和39)に「塔晶夫」名で講談社から出版された『虚無への供物』の中扉。中井英夫の背後に写る大谷石の塀は、当時住んでいた池添邸の塀の一部だと思われる。中右は、現在も残る長大な池添邸の塀。は、下落合氷川社から「牟礼田の家」の「立ちつくす黒い影」を見上げた『虚無への供物』エピローグの視野と大倉山麓から丘上を見上げたところ。

おまけ:余談だが、1960年代には大倉山(権兵衛山)の山頂付近には、大倉さんが住んでいたようだ。1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」より。
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大倉山1960.jpg

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