高校生のころ、「どうしてあのふたり、付き合ってるの!?」と思うような、妙なカップルがいた。たとえば、たくましく大きな体育会系の女子に対して、ヒョロヒョロッとしたガリ勉の男子がカップルだったりすると、「なんで?」というようなウワサが流れてきた。誰もが認める美貌で評判の女子が、気弱そうで地味な男子と「すげえ仲がいい」と聞くと、「はぁ?」となったのを憶えている。人は、自分にはないものを求めるというが、DNAレベルでそういう本能をどこかに宿しているのかもしれない。
街を散歩していると、たまにそんなふたり連れに遭遇することがある。このふたりは夫婦でないし、恋人同士にも見えないし、上司と部下や役員と秘書、パトロンと愛人、タレントとマネージャーのようにも思えないし、姿かたちや仕草もしっくりこなくて、装いの趣味だって全然ちがう……というようなカップルだ。つまり、お互い仲がよさそうに歩き親しそうに話していながら、それぞれの周囲にはちがう空気が流れている、あるいは、それぞれ異なる“気”を発散している……そんな雰囲気のふたり連れだ。
わたし自身も、そんな“空気”がちがう異性を連れて親しげに歩いたことがある。お互いにまったく共通点がなく、育った環境もちがえば共通の話題も少ないし、性格だって似ているとは思えない。ましてや、つき合っているわけでもないのに、なぜかウマが合うというのか、反りが合うClick!というのか、お互い惹かれ合って仲よくなるという妙な関係だ。まあ、親しい友だち関係といえばその通りで、別にめずらしくない間がらなのだけれど、異性同士でこういう関係というのはそう多くなく、新鮮な感触にはちがいない。
そのひとりは、大学を出てすぐのころに仕事で知り合った、米国ボストンのH大学の某研究所につとめる女性だった。仕事で教授とともに来日したのだが、わたしが地元だということで東京の街を案内する世話役をおおせつかった。……というと聞こえがいいのだけれど、大学を出たてのわたしには、いまだ任せられるまとまった仕事がほとんどなく、教授が日本のあちこちで仕事をしている間、かなり手持ちぶさたとなる秘書の“お守り”兼ボディガード役をしなければならなくなったというわけだ。英会話が得意でないわたしは、半分途方に暮れて気が重かった。
ところが、この女性は少なからず日本語ができたのだ。さすがに、むずかしい語彙や複雑ないいまわし、当時の流行り言葉などはわからなかったけれど、ふつうの日常会話にはほぼ困らなかった。どうしても通じないときは、わたしが辞書で調べてなんとか“通訳”した。しかも、彼女とはウマが合うというのか、妙に気が合ったのだ。わたしは彼女を連れて、東京のあちこちを歩いた。知らない人が見たら、いまだ学生のように見えるラフな姿の男と、わたしと同じぐらいの背丈がある、米国イーストコーストの典型的なWASP然とした20代のブロンド女性のカップルは、妙ちくりんな組み合わせだったろう。
お互い性格もかなり異なり、彼女は米国人らしく大らかで大雑把(はっきりいえばガサツ)な質(たち)なのだけれど、歯の手入れにはなぜか執着し熱中していて、当時はなかなか東京でも手に入らなかったデンタルフロスを求め、ふたりで薬局を訪ね歩いたのを憶えている。また、日本の音楽に興味を持っていて、あらかじめどこかで仕入れたらしい曲のフレーズを口ずさんでわたしに聴かせ、「この曲の入ったアルバムがほしいの」といった。そんなこといわれても、わたしは米国のJAZZ事情なら彼女よりもよほど詳しかったけれど、日本の歌謡曲には不案内なので途方に暮れた。これはレコード屋でメロディを歌わなきゃダメか……と思っていたところ、たまたまTVから流れてきた曲に気づき、彼女と店で岩崎宏美のアルバムを無事に買うことができた。
かなりの時間をいっしょにすごすうち、彼女とはなんとなく以心伝心でやり取りができる関係になっていった。縫製に優れた、日本製のやわらかいパンプスがほしいというので、わたしは銀座にある第二文化村Click!の東條さんClick!の店(ワシントン靴店)へ連れていった。製品をいろいろ見せてもらい、彼女がmaterialを気にしたので店員に訊ねると、彼女に向かって流暢な英語で「素材は柔らかなカーフです」と答えた。「カーフ?」と首をかしげ、何度か男性店員に訊き返していた彼女は、困った顔をしてわたしをふり返ったので、「仔牛の皮だって」と日本語で通訳すると「ああ、了解」と日本語で納得したのに笑ってしまったが、店員は途方に暮れたような眼差しをわたしたちに向けた。きっと、このふたり、いったいどういう連中なのだろうと怪しんだにちがいない。
当時、TVで流行っていた『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(どこか少し面影が似いていた)が履くような、ブロンドの髪に似合う明るいベージュ色に細いストライプの入った、わたしが「やっぱり、これかな?」と奨めたパンプスに決まり、以降、それを履いていると露わな脚をわたしの前に突き出して、「カーフ!」と日本語でいっては笑っていた。こういうところ、米国の女性は無防備というかあけっぴろげで、こちらがドギマギするのもおかまいなしだ。
もうひとり、わたしとはまったく住む世界がちがう異性と親しくなったことがあった。学生時代のアルバイト先で知り合った先輩の、そのまた知り合いだった女性だ。彼女とも、妙にウマが合うというか気がよく合って、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら、とりとめなく他愛ない会話したのを憶えている。わたしとは、やはり出身地も育った環境も経歴もまったく異なり、共通の話題がほとんど皆無だったにもかかわらず、平気で楽しくおしゃべりしつづけてしまうという、妙に気のおけない関係だった。彼女の職業は芸者、いや正確にいうなら芸者の“卵”だった。
高校を卒業してから花柳界に入り、いろいろな稽古ごとに励んでいるまっ最中だった。この世界では、中卒から修業をはじめるのがあたりまえなので、彼女のスタートは3年遅れでたいへんだ……というようなことをいっていた。だが、1980年(昭和55)前後ともなると、昼間の時間がぜんぶつぶれるような、ぎっしりと詰まった稽古事カリキュラムを強制したりすれば、さっさと辞めて転職してしまう子も多いので、午後の早い時間にはけっこう自由時間が与えられていたらしい。まさにバブル経済がはじまろうとしていた時期で、仕事探しにはそれほど困らなかった時代だ。
彼女は、いつも小ぎれいな普段着(和服)姿に、江戸東京らしい紅い琉球珊瑚玉をひっつめにした長い髪に、1本かっしと挿して現れたので、学生っぽい薄汚れたジーンズ姿のわたしとはまったく非対称で釣り合わず、やはり怪しいカップルに見えただろう。彼女は日本舞踊や、ならではの作法を習っているせいか、当然、芸者(の卵)らしいシナをつくるのが自然で、喫茶店や牛鍋屋でそんな艶っぽい(玄人っぽい)姿を見せられたりすると、彼女が薄化粧にもかかわらず周囲からは好奇の目で見られた。幼馴染みの『たけくらべ』関係と見られるのならまだしも、芸者と悪いヒモとか、犠牲になって苦労している姉と大学へ通う弟……それにしちゃ似てねえなぁとか、ロクな目で見られていなかったような気がする。もちろん、彼女の方がわたしより3つ4つ年下のはずだった。
なにをそんなに話すことがあったのか、よく待ち合わせてはお茶や食事をしていたけれど、その会話の中身をほとんど憶えていない。わたしは、(城)下町Click!のことをずいぶん話したような気がするが、彼女は高校時代やいまの生活のこと、故郷(確か茨城だった)のことなどを話題にしていたような気がする。いずれにしても、ほとんど忘れるぐらいだからたいした話題ではなかったのだろう。東京には友だちが少なく、気さくな世間話に飢えていたのかもしれないし、わたしはといえばめずらしい職業の気の合う異性相手に、ふだんとはちがう時間をリラックスしながら楽しんでいたのかもしれない。
もし、これが戦前だったりすれば、たとえ“卵”といえども芸者を呼ぶには、それなりの格のある待合や料理屋に上がらなければならず、少なからず玉代(祝儀)を用意する必要があったろう。ましてや、昼間の「お約束」(芸者を昼間、散歩や食事に連れ歩くこと)ともなれば、その時間によってはとんでもない花代を覚悟しなければならない。お茶か食事を付き合って話をするだけの、今日の「レンタル彼/彼女」ビジネスの時間給に比べたら、その4~5倍はあたりまえの花代になりそうだ。とても貧乏学生が経験できる世界ではないのだが、そこは戦後の労働環境と民主主義の世の中だから、自由意思による行動がある程度許されていたのだろう。いずれにしても、貴重な体験をさせてもらったものだと思う。
出身地や生活、性格、考え方、職業、趣味嗜好などがまったくちがう人、ときに国籍や人種までが異なる人と、妙にウマが合って相手の心が読めるほど親しくなることがある。本来なら接点がまったくないはずの、質(たち)が正反対で釣り合いそうもない異性と、少なからず面白い時間をすごすことができる。そこが、人間同士の「ないものねだり」の性(さが)であり、人間関係の妙味なのだろう。ちなみに、芸者の“卵”の彼女は、座敷に出るようになってからほどなく結婚して芸者を辞めたと、風の便りに聞いている。戦前なら、そんな自由で“わがまま”な行為は、決して許されなかっただろう。
◆写真上:そよ風が吹くとキラキラ美しい、街を歩くブロンド髪の女性。
◆写真中上:上は、クリスマスの時期に撮影した銀座ワシントン靴店本店。下は、わたしとの会話中に撮影した写真で赤いLARKが似合う彼女のしぐさが懐かしい。
◆写真中下:上は、幕末に来日したベアトが撮影した江戸芸者で、おそらく日本橋か柳橋芸者だと思われる。下は、いまでも芸者さんを呼べる山王に残った古い料亭の軒下。
◆写真下:上は、江戸東京各地のお座敷で唄われた江戸小唄で一世を風靡した立花家美之助Click!。下は、そろそろ芸者さんたちの出勤時刻となる神楽坂の夕暮れ。