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この春、久しぶりに浅草寺の伝法院の庭を訪れてみた。同院は、拝観期間が決まっているので、うっかりしていると見逃してしまう。小学生のころ、緒形拳Click!が主演する島田一男の『開花探偵帳』(NHK)というドラマをやっていて、親にせがみ連れていってもらったけれど、以来ほんとうに久しぶりだ。明治の初期、伝法院には屯所(警察署)が置かれており、同ドラマはそこに詰める探索方(刑事)の活躍を描いたものだ。
でも、久しぶりに伝法院を拝観したのは、別に伝法院屯所跡を見たくなったからではない。庭園内に、浅草寺本堂裏にあった熊谷稲荷社古墳から出土している、おそらく房州石で造られたとみられる石棺(手水鉢に加工・流用されていた)があったのを思い出したからだ。本堂裏の熊谷稲荷社は、明治期の神仏分離政策で廃社となり、同社が奉られていた墳丘は丸ごと崩されて平地となった。
ちなみに、浅草寺の本堂裏一帯が「奥山」と呼ばれていたのは、明治末から大正時代ぐらいまでだろうか。現在は平坦になってしまっている本堂の裏域だが、ここで「山」の名称が登場していることに留意したい。なにか塚状のこんもりとした起伏の地形、あるいは江戸期にはかなり鬱蒼とした森が拡がっていたので、「奥山」と呼ばれていた可能性が高そうだ。
もともと、浅草寺の境内が古墳だらけだったのは古くから知られていたようで、関東大震災Click!が起きて東京が焼け野原になったあと、東京帝大の考古学者で人類学者の鳥居龍蔵Click!は神田や上野に次いで、浅草地域へ調査に駆けつけている。彼が伝法院に立ち寄り、石棺を調査している報告書が残っていた。1927年(昭和2)に東京磯部甲陽堂から出版された、鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
▼
此の伝法院の椽先に、石灰岩で作つた手水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかといふ疑ひがあつて、吉田君から其の調査に就いて話があつたので、伝法院に行くと、早速其の手水鉢のある所へ行つて見た。而して注意して見ると、どうも石棺らしい。長方形のもので、中は近頃不完全に掘つて水を入れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所で、此処に石棺らしいものゝ存在して居るのは極めて興味がある。『江戸夢跡集』によると同寺には尚、別に石棺があつた。此の事は『武蔵野及其の周囲』「石の枕」の所に記して置いた。
▲
鳥居龍蔵は「石灰岩」と書いているが、どう見ても色彩や質感からして凝灰岩(房州石Click!)のように見える。当時は、火山灰により生成された岩石を、総じて「石灰岩」と呼称していたものだろうか? 伝法院の石棺ばかりでなく、浅草寺の境内にはもうひとつ別の石棺が存在していたことが指摘されている。
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「浅草寺境内は古墳群のある所」と書かれているが、これは江戸湾に面した大きな入り江の突き当りに浅草湊が拓かれ、古墳時代から物資を集積する物流の一大拠点として繁栄していたからだ。房総半島で切りだされた房州石が、江戸湾を縦断して浅草湊や、横断して三浦半島の六浦湊へと陸揚げされ、そこから関東各地へと運ばれていった。その運搬もまた、各河川をさかのぼる水運が最大限に活用されたのだろう。関東各地に散在する古墳の玄室や羨道に、房州石が多く用いられているのは、当時の南武蔵勢力圏にあったクニ同士の交易や物流ルートを解明する重要な手がかりを与えてくれている。
さて、そんな繁栄をつづけた浅草湊には、地域の有力な勢力がいたのはまちがいなく、また物流の一大拠点ともなれば多くの人々が暮らし、いわば“町”を形成していただろう。それを物語るように、浅草寺の境内には、伝法院に石棺が残る本堂裏の熊谷稲荷古墳だけでなく、本堂の南東側には弁天山古墳、関東大震災の火災によって出現した、いまだ無名の古墳群などが連続して築造されていた。これらの古墳は、寺社の伽藍や殿を建設するために墳丘が崩され、また前方後円墳の前方部は参道や階段(きざはし)に流用され、かろうじて江戸期まで原型Click!を保っていたケースが多い。
そもそも、浅草寺の宝蔵門から参道、そして本堂さえ大型古墳の塚を均して建立されたものなのかもしれない。それは、同寺の北東550mほどのところにある待乳山古墳Click!のケーススタディに、典型的な姿を見ることができる。浅草寺の創建は645年だが、そのころからすでに境内全体がなんらかの聖域化していた可能性もありそうだ。また、幕末から明治期にかけ、本堂の南東側に弁天社が奉られた弁天山古墳には、周濠の残っていたことが地図などで確認できる。鳥居龍蔵の同書より、つづけて引用してみよう。
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少なくとも江戸の高台にて古墳を築造した此の原史時代に於ては、今の下町の或部分は沖積して居つたものと考へられる。其の頃の古墳が今も下町の彼方此方に遺つて居つて、今回の震災にて周囲の建物が焼払はれた為めに、古墳の形が明白に現はれて来たのぶある。/今此のことに就いて大體を云ふと、第一は浅草の地であつて、此処は古くから沖積して居つたもので、観音よりも以前の移籍が残つて居る。彼の弁天山の弁天塚は、其の名の如くに古墳であり、此の他にも、浅草寺の境内には嘗つてそれがあつた。されば此の境内が古墳群の跡であることは言ふまでもない。
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かつて、浅草寺には伝法院の石棺のほかに、境内にはもうひとつ石棺が置かれていたという江戸期の記録から、伽藍や社を建立するため墳丘を崩した際に、玄室から出土したもののひとつではないかと推測できる。だが残されているもの、あるいは記録にあるものは石棺のみで、副葬品についての伝承は存在していないようだ。かなり早くから寺社の境内にされたため、散逸してしまったものだろうか。
小学生のとき以来訪れた伝法院の庭園は、さほど大きくは変わっていないのだろうが、周囲に高い建物が増えたせいか、大きめな箱庭のようにも見える。ただし、浅草寺参道のラッシュアワーのような喧騒を離れ、戦災をまぬがれた建築とともにひっそりとしたたたずまいを見せているのは、昔もいまも変わらない風情だ。わたしが子どものころ、庭から見えていたのは本堂の大屋根のみで、五重塔は空襲で焼けたまま存在しなかった。また、スカイツリーが妙な借景を見せているのが、アンバランスな風景で落ち着かない。
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それほど詳細に見てまわったわけではないが、伝法院の庭園には玄室や羨道の石材に用いられていたのかもしれない、房州石らしい大きな庭石がところどころに配置されている。伝法院に限らず、浅草寺の境内各所に置かれている石材には、多くの古墳から出土した房州石が、いったいどれほど残されているのか、ちょっと面白いテーマだ。
◆写真上:伝法院の庭園で手水鉢に加工された、房州石をくり抜いたとみられる石棺。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)に鳥居龍蔵が撮影した同石棺。中は、伝法院の庭に集合した東京帝大の鳥居龍蔵古墳調査団。下は、伝法院庭園の現状。
◆写真中下:上は、幕末の絵図に描かれた弁天山古墳で周濠の残っていたのがわかる。中は、関東大震災の直後に撮影された弁天社と参道の階段。前方後円墳と思われ。周濠が消えて江戸期からさらに小規模になった様子がうかがえる。下は、伝法院の北側の池。
◆写真下:上のモノクロ写真は、関東大震災の焦土から次々に姿を現した浅草寺の無名古墳群で、大きな主墳に付随していた倍墳群かもしれない。中は、浅草寺の五重塔を伝法院の庭下から眺めたもので、無粋なスカイツリーがどうしても隠れなかった。下は、東日本大震災で墜落した五重塔の宝珠と破壊された水煙。
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この春、久しぶりに浅草寺の伝法院の庭を訪れてみた。同院は、拝観期間が決まっているので、うっかりしていると見逃してしまう。小学生のころ、緒形拳Click!が主演する島田一男の『開花探偵帳』(NHK)というドラマをやっていて、親にせがみ連れていってもらったけれど、以来ほんとうに久しぶりだ。明治の初期、伝法院には屯所(警察署)が置かれており、同ドラマはそこに詰める探索方(刑事)の活躍を描いたものだ。
でも、久しぶりに伝法院を拝観したのは、別に伝法院屯所跡を見たくなったからではない。庭園内に、浅草寺本堂裏にあった熊谷稲荷社古墳から出土している、おそらく房州石で造られたとみられる石棺(手水鉢に加工・流用されていた)があったのを思い出したからだ。本堂裏の熊谷稲荷社は、明治期の神仏分離政策で廃社となり、同社が奉られていた墳丘は丸ごと崩されて平地となった。
ちなみに、浅草寺の本堂裏一帯が「奥山」と呼ばれていたのは、明治末から大正時代ぐらいまでだろうか。現在は平坦になってしまっている本堂の裏域だが、ここで「山」の名称が登場していることに留意したい。なにか塚状のこんもりとした起伏の地形、あるいは江戸期にはかなり鬱蒼とした森が拡がっていたので、「奥山」と呼ばれていた可能性が高そうだ。
もともと、浅草寺の境内が古墳だらけだったのは古くから知られていたようで、関東大震災Click!が起きて東京が焼け野原になったあと、東京帝大の考古学者で人類学者の鳥居龍蔵Click!は神田や上野に次いで、浅草地域へ調査に駆けつけている。彼が伝法院に立ち寄り、石棺を調査している報告書が残っていた。1927年(昭和2)に東京磯部甲陽堂から出版された、鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
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此の伝法院の椽先に、石灰岩で作つた手水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかといふ疑ひがあつて、吉田君から其の調査に就いて話があつたので、伝法院に行くと、早速其の手水鉢のある所へ行つて見た。而して注意して見ると、どうも石棺らしい。長方形のもので、中は近頃不完全に掘つて水を入れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所で、此処に石棺らしいものゝ存在して居るのは極めて興味がある。『江戸夢跡集』によると同寺には尚、別に石棺があつた。此の事は『武蔵野及其の周囲』「石の枕」の所に記して置いた。
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鳥居龍蔵は「石灰岩」と書いているが、どう見ても色彩や質感からして凝灰岩(房州石Click!)のように見える。当時は、火山灰により生成された岩石を、総じて「石灰岩」と呼称していたものだろうか? 伝法院の石棺ばかりでなく、浅草寺の境内にはもうひとつ別の石棺が存在していたことが指摘されている。
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「浅草寺境内は古墳群のある所」と書かれているが、これは江戸湾に面した大きな入り江の突き当りに浅草湊が拓かれ、古墳時代から物資を集積する物流の一大拠点として繁栄していたからだ。房総半島で切りだされた房州石が、江戸湾を縦断して浅草湊や、横断して三浦半島の六浦湊へと陸揚げされ、そこから関東各地へと運ばれていった。その運搬もまた、各河川をさかのぼる水運が最大限に活用されたのだろう。関東各地に散在する古墳の玄室や羨道に、房州石が多く用いられているのは、当時の南武蔵勢力圏にあったクニ同士の交易や物流ルートを解明する重要な手がかりを与えてくれている。
さて、そんな繁栄をつづけた浅草湊には、地域の有力な勢力がいたのはまちがいなく、また物流の一大拠点ともなれば多くの人々が暮らし、いわば“町”を形成していただろう。それを物語るように、浅草寺の境内には、伝法院に石棺が残る本堂裏の熊谷稲荷古墳だけでなく、本堂の南東側には弁天山古墳、関東大震災の火災によって出現した、いまだ無名の古墳群などが連続して築造されていた。これらの古墳は、寺社の伽藍や殿を建設するために墳丘が崩され、また前方後円墳の前方部は参道や階段(きざはし)に流用され、かろうじて江戸期まで原型Click!を保っていたケースが多い。
そもそも、浅草寺の宝蔵門から参道、そして本堂さえ大型古墳の塚を均して建立されたものなのかもしれない。それは、同寺の北東550mほどのところにある待乳山古墳Click!のケーススタディに、典型的な姿を見ることができる。浅草寺の創建は645年だが、そのころからすでに境内全体がなんらかの聖域化していた可能性もありそうだ。また、幕末から明治期にかけ、本堂の南東側に弁天社が奉られた弁天山古墳には、周濠の残っていたことが地図などで確認できる。鳥居龍蔵の同書より、つづけて引用してみよう。
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かつて、浅草寺には伝法院の石棺のほかに、境内にはもうひとつ石棺が置かれていたという江戸期の記録から、伽藍や社を建立するため墳丘を崩した際に、玄室から出土したもののひとつではないかと推測できる。だが残されているもの、あるいは記録にあるものは石棺のみで、副葬品についての伝承は存在していないようだ。かなり早くから寺社の境内にされたため、散逸してしまったものだろうか。
小学生のとき以来訪れた伝法院の庭園は、さほど大きくは変わっていないのだろうが、周囲に高い建物が増えたせいか、大きめな箱庭のようにも見える。ただし、浅草寺参道のラッシュアワーのような喧騒を離れ、戦災をまぬがれた建築とともにひっそりとしたたたずまいを見せているのは、昔もいまも変わらない風情だ。わたしが子どものころ、庭から見えていたのは本堂の大屋根のみで、五重塔は空襲で焼けたまま存在しなかった。また、スカイツリーが妙な借景を見せているのが、アンバランスな風景で落ち着かない。
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それほど詳細に見てまわったわけではないが、伝法院の庭園には玄室や羨道の石材に用いられていたのかもしれない、房州石らしい大きな庭石がところどころに配置されている。伝法院に限らず、浅草寺の境内各所に置かれている石材には、多くの古墳から出土した房州石が、いったいどれほど残されているのか、ちょっと面白いテーマだ。
◆写真上:伝法院の庭園で手水鉢に加工された、房州石をくり抜いたとみられる石棺。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)に鳥居龍蔵が撮影した同石棺。中は、伝法院の庭に集合した東京帝大の鳥居龍蔵古墳調査団。下は、伝法院庭園の現状。
◆写真中下:上は、幕末の絵図に描かれた弁天山古墳で周濠の残っていたのがわかる。中は、関東大震災の直後に撮影された弁天社と参道の階段。前方後円墳と思われ。周濠が消えて江戸期からさらに小規模になった様子がうかがえる。下は、伝法院の北側の池。
◆写真下:上のモノクロ写真は、関東大震災の焦土から次々に姿を現した浅草寺の無名古墳群で、大きな主墳に付随していた倍墳群かもしれない。中は、浅草寺の五重塔を伝法院の庭下から眺めたもので、無粋なスカイツリーがどうしても隠れなかった。下は、東日本大震災で墜落した五重塔の宝珠と破壊された水煙。