漱石門下の安倍能成Click!は、自然主義に関する文芸評論をしていた1917年(大正6)ごろ、藤沢町鵠沼に住んでいたことがある。海外留学を除き、東京を離れることが少なかった安倍能成にしてはめずらしい転居だ。ちょうど1917年(大正6)の2月に、東京の駒沢村新町(現・世田谷区駒沢)から療養のために、一家で鵠沼に引っ越してきた画家がいた。現在では誤診といわれている、「肺結核」の病名を告げられた岸田劉生Click!だ。
劉生は同年2月23日から6月23日までのわずか4ヶ月間、藤沢町鵠沼藤ヶ谷7365番地20号の貸別荘だった「佐藤別荘」に住み、なにか気に入らないことでもあったのか、6月24日からは鵠沼下岡6732番地13号の同じく貸別荘「松本別荘」Click!へと転居している。それから、1923年(大正13)9月1日の関東大震災Click!で「松本別荘」が倒壊Click!するまで、6年余を同地ですごしている。
1917年(大正6)の当時、安倍能成宅の周囲には、引っ越し魔だった「白樺」Click!の武者小路実篤Click!や和辻哲郎Click!が住んでおり、自然主義文学の話をしに安倍は両邸へ頻繁に出かけていたのだろう。岸田劉生とは、和辻哲郎邸で出会って親しくなっているようだ。当時の劉生は、鵠沼海岸近くに拡がる風景を盛んに描いている最中だった。劉生との出会いを、1940年(昭和15)6月23日から「京城日報」に連載された、安倍能成『椿君と岸田君』から引用してみよう。
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大正の五六年頃、私は二年ばかり気まぐれに相州鵠沼の松林の中に住んでゐたことがあつた。和辻哲郎君の近処であつたが、岸田君も当時偶々鵠沼海岸に住み、和辻君の宅などで時々逢つて話しすることもあつた。その頃の岸田君の作品には、丘の周囲の松林の間の道や、そこいらの藁屋などを描いた簡単な構図のものがあり、それは和辻君の家でも見たし、京城でも同僚の尾高君の家で同じやうな画を見た。晴れた青空、緑の松林、渋色の藁屋、薄褐色の砂道などが実に細かく、美しく描出されており、平生散歩する寧ろ平凡な路傍の景色の中に、かういふ美しさを見出す岸田君に感心したこともあつた。
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和辻哲郎の家の壁に架かっていたのは、1917年(大正6)に描かれた近隣の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした、『風景(鵠沼)』シリーズの1点だと思われる。また、松林の砂道とは同年に制作されている『初夏の小路』か、それに近似した画面だったのだろう。同年の『初夏の小路』は、二科展第4回展に出品され二科賞を受賞している。
鵠沼に転居した当時、劉生の風景画は前年までの代々木風景や大崎風景などに見られる赤土大地をベースにした、これでもかというほどの微細な描写は減退し、相模湾の潮風が運ぶ湿気の多い“空気感”に影響されたものか、あるいは海岸に見られる砂地特有の曖昧な地面の色合いのせいなのか、全体が朦朧としたような表現に変化している。
海辺で長時間、カメラのファインダーをのぞきこんだことがある方なら、徐々に潮の粒子がレンズの表面に付着して景色全体が霞みはじめ、細かなディテールがわからなくなっていくような、特殊フィルターを装着したような写真に仕上がるのをご存じだろう。鵠沼に移ったあとの劉生の風景表現は、まさにそんな感じの画面になっている。クロマツの林や砂道の表現からは、どことなく潮風のべとつきや生臭ささえ伝わってくるようだ。
劉生は、鵠沼生活をはじめると同時に風景画を制作しはじめているが、『麗子像』Click!シリーズや『村娘』シリーズなど、いわゆる童女像を描きはじめるのは翌1918年(大正7)の夏ごろからだ。横浜の原三渓Click!や原善一郎など、いわゆる原一族がパトロンとなって生活が安定したせいか、劉生にはめずらしく彫刻も手がけている。1918年(大正7)早々に、彼は生涯にわずか2点のみの彫刻作品となる、柏木俊一をモデルにした『男の首』と、蓁夫人をモデルにした『女の手』を制作している。
ちょうどそのころ、子連れで遊びに出かけた安倍能成の5歳になる息子を見て、岸田劉生がしきりに描きたがっていた様子が伝えられている。子どもをモチーフにした作品群が、実際に描きはじめられる1年ほど前、1917年(大正6)にはすでに具体的な表現のイメージが、劉生の中で育まれていたのではないだろうか。つづけて、「京城日報」に連載された安倍能成のエッセイから引用してみよう。
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岸田君が麗子像或は童女像を盛んに描いたのも、この頃ではなかつたかと思ふ。麗子といふのは恐らく岸田君の令嬢であり、童女像の中にそれを更に理想化したものもあつた。東京神田の岩波書店の応接間に、この童女像が一つかかつてゐるが、いつ見てもしつかりしたいい画だと思ふ。その頃私の長男が五歳位で、頬辺が林檎のやうに紅かつた。岸田君が彼を見て頻に描きたがつてゐたが、竟にその機を得なかつた。若しそれが出来てゐたら、或は世間の童女像の外に岸田君の珍らしい童男像の傑作を我家に残し得たかも知れぬと、一寸残念なやうな気もする。
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今日からみれば、「残念なやうな気もする」どころではなく、非常に残念至極なことだった。ただ、その作品を「我家」、つまり下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建っていた安倍邸Click!の壁に架けていたら、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で灰になっていたのかもしれない。
文中で安倍能成は、娘の麗子の顔を「理想化したもの」と書いているけれど、麗子ちゃんはあんな不気味でヘンな顔ではなかった……と証言する人物がいる。鵠沼に転居した劉生の自宅へ、頻繁に訪れていた河野通勢(みちせい)Click!の次男・河野通明(つうめい)だ。河野通明は、当時から麗子といっしょに遊び、大人になってからも画業で交流をつづけた人物だ。麗子ちゃんはキレイだった……という証言を、調布市にある武者小路実篤記念館が発行した『講演記録集』第3集収録の、河野通明「『白樺』のその後に就いて」(1990年講演録)から引用してみよう。
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さて、さっきお話が出ました岸田麗子さん、劉生さんのお嬢さんですけれども、「麗子像」の麗子さん。これは私たちと一緒に、今から三〇年前、来年三〇回目をやりますが、復活大調和展に最初に参加してくれました。我々と一緒に創立委員の一人として名前を連ねていましたのですけれども、この麗子ちゃんという人は美人でございます。よく「麗子像」の麗子をみて、あんな顔かと聞く人がありますが、ああいう顔ではないのです。もっと本当にかわいい。僕よりも四つぐらい上です。もしも僕が上だったら結婚している。(笑い)。描くというと、劉生先生はああいう顔でかいてしまう。/ところが、麗子さんのお嬢さんの夏子さん、(中略) その夏子ちゃんが、あの「麗子像」の麗子にそっくりな顔をしているのです。それがおかしくてしようがないのですけれども、どういうかげんでああいう顔になってしまったのか(笑い)。
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麗子像と似ている、「あんな顔」にされてしまった孫・岸田夏子には気の毒だけれど、確かに「麗子像」と岸田麗子本人とはあまり似ていない。どこか江戸期から、軸画や彫物細工などの題材でよく登場する、「寒山拾得」の詩僧たちのような表情をしている。
特に、『野童女』(1922年)や『二人麗子図』(同年)の麗子は、ホラー映画のワンシーンのようで夢に出てきそうな表情だ。もし長男をモデルに、「童男像」を描いてもらっていたとしたら「あんな顔」にされてしまい、安倍能成は腹を立てていたかもしれない。
◆写真上:1917年(大正6)2月に転居し、4ヶ月しか住まなかった「佐藤別荘」跡の現状。
◆写真中上:上は、1917年(大正6)4月に「佐藤別荘」で撮影された岸田一家。中は、近所の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした1917年(大正6)制作の『晩秋の霽日』。下は、岸田一家が関東大震災が起きるまで暮らしていた「松本別荘」跡の現状。
◆写真中下:上は、1917年(大正6)の二科展で二科賞を受賞した岸田劉生『初夏の小路』。中左は、松林の砂道で写生する岸田劉生。中右は、1928年(昭和3)6月に撮影された14歳の岸田麗子。下は、1922年(大正11)制作の岸田劉生『野童女』(部分)。
◆写真下:上は、1923年(大正12)に制作された岸田劉生『童女図(麗子立像)』(部分)。中は、1930年代の前半に撮影されたキャンバスに向かう岸田麗子。下は、1955年(昭和30)に次女の夏子をモデルに制作された岸田麗子『花と少女』(部分)。