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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。

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小島善太郎サイン.jpg
 小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。
 そもそも、四谷見附の隧道(トンネル)をモチーフにした『四ツ谷見附』は、小島善太郎が21歳の1913年(大正2)から取り組みはじめ、翌々1915年(大正4)に安井曾太郎Click!から作品を賞賛されるまで、制作はつづいていたとみられる。わたしは、現存するひとつの画面しか観たことがないが、時刻や季節を変え同じタイトルで3つの画面が、少なくとも大正中期まで存在していた。そう証言しているのは、画家で劇作家の松岡義和だ。しかも、3作品のうち『四ツ谷見附』の1作「夕景」を、彼は小島から贈られている。松岡義和は、同作を自分の部屋の壁に架けて、訪れる友人たちに自慢していた。
 なぜ、小島善太郎が四谷見附の風景画を、3年間にもわたり数多く描きつづけることになったのか、その秘密についても松岡は証言している。当時、四谷(正確には麹町区麹町)にあったF女学校(四ツ谷駅前の雙葉高等女学校Click!)へ通ってくる、Fという女性に恋をしていたのだ。だから、彼女が登下校で利用する省線・四ツ谷駅東口のすぐ近くで、イーゼルを立てて描きつづけていた。雙葉高等女学校と小島の描画ポイントは、わずか200mほどしか離れていない。ふたりは毎朝、同じ時間の電車で落ちあい、おそらく帰るときもいっしょの電車に乗ったのだろう。
 だが、女学生のFは女学校を卒業すると、別の地方へ転居してしまい、ふたりは二度と逢えなくなってしまった。また、小島のほうでは、いまだ絵画を勉強中の身で生活の自立ができず、彼女を迎えにいけないという現実に苦悩していた。3年にわたり、10点にもおよんだ『四ツ谷見附』の画面の背後には、小島善太郎の悲哀に満ちた恋の物語が隠れていたのだ。
 では、松岡義和が小島から譲られた夕景の『四ツ谷見附』は、どのような画面だったのだろうか? 小島善太郎の次女・小島敦子様Click!よりいただいた、1992年(平成4)出版の『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版社)収録の、松岡義和『「四ツ谷見附」の思い出―小島善太郎兄に捧ぐ―』(1920年)から引用してみよう。
  
 レモンイエロウを基調とした巳に夕陽が斜めにさし込んで、その画面上の総てのもの、隧道も、桜の木々、電信柱、向こうの側の土堤も逆光線の為に黒ずんで、レモンイエロウの悲哀に満ちた光線の中に浮かんでいた。桜の葉の全く落ちた梢の先端まで、そして端正に堀に沿うてカギ形に曲って並んでいる杭の一本、一本まで涙と悲哀の中にたどって画かれた事は、それを見る人は直ぐ感ずるであろう。そして木々の陰、向こう側に立っている電信柱の長く引いた影、これ等はK(小島)の震える手で画かれた事を見ることが出来る。それから隧道の真っ暗な、中に吸い込まれる様な深さ。Kはこの闇を画くに、どれ程苦心したか知れぬ事をよく物語った。闇に対する空想、恐怖が常に彼を捕らえ、それがKが幾度小刀を出してカンバスを削って画き直しても、Kは、それ等が知らず知らずの中に表れるのを見た。彼はその絵を抱いて、戸山ヶ原で絶望のあまり号泣した事もあった。
  
 松岡義和が壁に架けていた『四ツ谷見附』(夕景)は、隣家から出火した火災で松岡家が全焼し、あえなく同作は失われている。また、残った2作の『四ツ谷見附』のうち、現存する画面でないもう1作も失われたのか、現在では目にすることができない。
小島善太郎「四ツ谷見附」1914.jpg
四谷見附隧道.jpg
雙葉高等女学校1912.jpg
 さて、小島善太郎Click!は野外で風景画を制作をしている際、画面のできが悪いとキャンバスごと写生地へ棄ててくるクセがあった。松岡の証言にも出てきた戸山ヶ原Click!で、小島はずいぶんキャンバスを遺棄Click!しているようだ。まず、キャンバスの表に風景を描きはじめるが、気に入らないとナイフで削っては描き直しを繰り返し、それでも気に入らないと今度はキャンバスの裏を使って描く。それでも思うように描けないと、おもむろにキャンバスを棄てて帰ってしまう。
 この性癖は、フランス留学中にも表れて、クラマールの森では小島が描きかけたキャンバスがずいぶん棄てられていたらしい。そんな棄てられた『クラマール風景』のキャンバスを、「もったいない」と拾って持ち帰っていたのが佐伯祐三Click!だ。誰かは忘れたけれど(鈴木良三Click!だったか?)、確か戸山ヶ原Click!でも遺棄された小島善太郎のキャンバスを見つけて、持ち帰った人物がいたはずだ。
 同書に収録された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(1933年)から引用してみよう。
  
 小島の巴里時代の作品の一つ『クラマール風景』は、佐伯がクラマールの森の中から----小島のこんな傑作が捨ててあった……と言って拾って来た。そして、今は僕が珍蔵している。二十号/第一面はプランタンの並木、地面は影になって黒と緑の交叉。第二面は建築中の家と丘へ登る道。道の両側の家はやがて遠景となり明るい空に連続する。/半完成ではあるが、調子は実に制限としている。筆触は単純で強い。色彩は美しい。小島のモチーフにおける第一印象は十分に表現されている。
  
 里見勝蔵は他界する1981年(昭和56)まで、小島善太郎との60年近い交流Click!がつづいていたので、おそらく死ぬまで未完の『クラマール風景』は、フランスでの懐かしい留学生活の思い出として手もとに置いていたのだろう。
四谷見附隧道1912.jpg
小島善太郎「戸山ヶ原風景」1911.jpg
戸山ヶ原.JPG
 その20号の『クラマール風景』と格闘する、小島自身が書いた文章が残っている。画面がどうしても気に入らず、小島善太郎はクラマールからパリへと出て、画家仲間たちと気晴らしの交流をしている。当時、フランスへ留学していた小島が知る画家たちの顔ぶれは、初期の1930年協会Click!でいっしょになる画家仲間のほか、川口軌外Click!鬼頭鍋三郎Click!、中山魏、林倭衛Click!、坂本繁二郎、小松清Click!、阿以田治修、宮坂勝Click!などだった。
 1981年(昭和56)に出版された小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会)から、クラマールで制作する様子を引用してみよう。
  
 クラマールの宿の裏門の丘から見下ろした風景画は、二十号大で大作といえないのに、1ヵ月もたつが出来ない。場所に惚れて描くのでなく、与えられた場で腰を据えて描いているのだが、ただ塗っていけばよいのではなく、画としての空間処理に気を配りながら、色々有機的な関係の問題とか、その色感とか立体感、物質感などの総合したものを組み立てながら思索し、徐々に進めるといったやり方である。/ことにパリに来てからは、日本での垢が気になり、自分を苦しめる。詩情に浸るのでなく、理に立ち向かうような切迫感があって、できた画面を削っては直す。これは私の癖で画は一向に出来上がらない。こういう時、酒の味をしらなかった私は、ぶらっとパリの学生街に出るのが常であった。
  
 ひょっとすると、制作途中でカンシャクを起こし、宿へ帰る途中の森の中へ遺棄してきた20号の『クラマール風景』は、上記の画面のことかもしれない。
小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg
フェニックス会1923頃.jpg
小島善太郎「パリ郊外」1923.jpg
 パリの「サロン・ドートンヌ」展Click!に、クラマールで描いた小島善太郎『パリ郊外』が入選するのは、1923年(大正12)のことだった。その後、彼はティントレット『スザンナ』(300号)を模写するために、ルーブル美術館へ2年間も通いつづけることになる。

◆写真上:小島様にいただいた本の、内扉に書かれた小島善太郎の直筆サイン。
◆写真中上は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『四ツ谷見附』。は、当時とほとんど変わらない四谷見附隧道(トンネル)の現状。は、1912年(大正元)に撮影された雙葉高等女学校の校庭でボール遊びをする女学生たち。
◆写真中下は、1912年(大正元)作成の「四谷区全図」にみる描画ポイントと雙葉高等女学校の位置。は、1911年(明治44)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、現在は一部が公園になっている戸山ヶ原の現状。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』Click!は、パリでは「フェニックス会」のホスト(主人)だったフェニックス役の小島善太郎。は、1923年(大正12)にサロン・ドートンヌ展に初入選した小島善太郎『パリ郊外』。

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