「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!の『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!の東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
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ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
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川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験をするから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
直助 まことに関心、奇妙。
この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
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宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
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わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!と蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。
◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上:上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。中は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。下は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社。
◆写真中下:上は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下:上は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!。下は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。