ずいぶん以前、1925年(大正14)の春に中央美術社Click!が実施した、画家たちへの奇妙なアンケートの記事Click!を書いたことがある。その際、村山知義Click!の回答と小出楢重Click!、池部鈞Click!など一部の回答についてはご紹介していた。今回は、他の画家たちの回答も見つかったので、改めてご紹介したい。
中央美術社が用意した画家たちへの質問は、以下の10項目だった。
一、貴方は毎朝何時にお起きになりますか。
二、床屋へは何日隔き若しくは何ケ月隔き位ゐに行かれますか、失礼ですが。
三、御酒と煙草はどれくらゐ召し上りますか、序でに御愛用の品種を。
四、御健康を保つ上に何か特別の養生法をおやりになつて居られますか。
五、奥様をお呼びにになるのに常々どういふお言葉をお用ゐになりますか。
六、此の世で一番憎らしいとお思ひになるものは何んですか。
七、貴方がお得意とする隠し芸を。
八、貴方の娯楽と道楽をお聞かせ下さい。
九、一ケ年を通じての御制作は平均どれ位ゐになられますか。
十、和歌、俳句、短詩、都々逸、端唄――何んでも一ツ二ツ御近作を。
まずは下落合の596番地、牧野虎雄アトリエ(604番地)の真ん前、曾宮一念アトリエ(623番地)の斜向かいのアトリエで暮らしていた、片多徳郎Click!の回答から見てみよう。
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一、子共達の御蔭で八時には起きます。
二、一ト月隔き或は二タ月隔き。
三、酒は一日五合迄。煙草は敷島を一日に一包。
四、麦飯を喰ふ事。
五、『オーイオーイ』又或時は「母ちやん」。
六、金。
七、歯ぎしりと寝言。
八、止むを得ず飲む酒。
九、不定。
十、考えた事がありませぬ。
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八の設問に、「止むを得ず飲む酒」と答えているのが目をひく。牧野虎雄は酒が大好きだったが、片多徳郎はそれほど好きで飲んでいたのではないのがうかがわれる。それでも、「酒は一日五合迄」と決めているのが、いまから見ればどこか痛々しい。「五合」は、決して少ない量ではないので、おそらく自制しなければ1升はすぐに飲んでしまったのではないだろうか。
「此の世で一番憎らしい」のが「金」と答えており、常に芸術と生活とのはざまで追いつめられていった様子が透けて見えそうだ。こののち、アルコール依存症が昂じて1934年(昭和9)に家を出たまま失踪し、名古屋の寺で自裁している。
つづけて、東京美術学校の5年後輩であり、目白中学校Click!の美術教師をしていた清水七太郎Click!へ、下落合にアトリエの空きがないかどうかを問い合わせしていた、茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地の萬鉄五郎Click!から寄せられた回答を見てみよう。
このとき清水七太郎は、中村彝Click!の弟子であり下落合584番地に住んでいた、二瓶等Click!の留守アトリエを紹介している。ちょうど二瓶等Click!は、制作活動と個展開催のために故郷の北海道に帰省しており、アトリエは長期間使われないままの状態だった。萬鉄五郎は、市街地から西北に位置する郊外風景を数多く残しているので、画家の集まる下落合には親しみを感じていたのかもしれない。
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一、其の時のねむさ加減で朝七時から九時までに起きます。
二、床屋で待たされるのがいやですから、バリカンで妻に短くからせます。
三、酒は五勺まで。煙草は禁じて居ますが他出すると遂吸ひます。
五、妻を呼ぶ時名前を呼べば差支ありませんが場合により変化することあり。
九、大概毎日何かやつて居ますが制作の数を勘定して見た事はありません。
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萬鉄五郎は、病身の娘ともども茅ヶ崎で暮らす療養生活に、そろそろピリオドを打ち心機一転したかったのだろう、1926年(大正15)の夏から下落合の貸しアトリエの物件探しをはじめている。ところが、同年の暮れに16歳になった長女・登美を結核で亡くし、それが原因で大きく気落ちした面もあるのだろう、その萬自身もまた翌1927年(昭和2)5月、41歳の若さで急死している。
二瓶等のアトリエに、萬鉄五郎が引っ越してきていたら、下落合の美術界にも大きなインパクトや変化があったのではないかと思うと、ちょっと残念だ。
下落合に住む沖縄の画家たちClick!が、よく通っていた画塾に「同舟舎洋画研究所」があるが、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通った同画塾を主宰する小林萬吾Click!の回答を見てみよう。このとき、小林萬吾はすでに東京美術学校の教授であり、帝展審査員もつとめ作品をパリ万博へも出品していた。
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一、七時から八時の間。
二、髪の毛の五月蠅くなつた時。
三、晩酌小量、ウエストミンスター拾五本位。
四、便秘に注意する。
五、さん付けにする。
七、謡曲。
八、音楽と旅行。
九、平均とれず。
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さすがに作品も売れ、それなりに地位もおカネもある余裕の画家は、趣味が謡いClick!で英国一流の“洋モク”をふかしながら、コンサートや旅行にと生活を楽しんでいるのがわかる。夫人を「さん付け」で呼ぶのは、林武Click!の幹子夫人Click!のように、性格的にかなりおっかなかったのだろうか。
アンケートを概観すると、画家たちは朝起きる時間が案外早いことに気づく。このあたり、同じ表現者でも作家たちとは根本的にちがう点だろう。作家は真夜中でも仕事ができるが、画家たちは基本的に外光の下で仕事をするので、起床時間に双方で5~6時間ほどのズレがありそうだ。ただし、朝夕に関係なくアトリエで制作をする画家もいるし、早朝から机に向かう作家もいるので、例外がないわけではない。
特に大正後期になると、マツダ電気や東京電気などからより自然光に近い照明器具Click!が発売され、夜でもアトリエにこもる画家がそろそろ出はじめている。また、アブストラクトな表現の画家たちは昼夜関係なく制作しているので、別に午前中に起きる必要はなかっただろう。
画家たちへのアンケート結果が掲載されたのは、1925年(大正14)に発行された「中央美術」6月号だが、ほかにも下落合にゆかりのある画家たちが、同様の回答を寄せていると思われるので、また機会があれば見つけしだいご紹介してみたい。
◆写真上:下落合596番地にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。そのすぐ裏手には、1927~1930年(昭和2~5)まで村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)発行の「中央美術」6月号。下は、自裁する2年前の1932年(昭和7)に描かれた片多徳郎『自画像』(左)と、1913年(大正2)制作の萬鉄五郎『赤い目の自画像』(右)。表現の時代が、まるで逆転しているかのようだ。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)に制作された片多徳郎『裏庭』。下は、1931年(昭和6)に描かれた片多徳郎『春暖』。
◆写真下:上は、1905年(明治38)に描かれた萬鉄五郎『戸山が原の冬』。中は、1918年(大正7)ごろに制作された萬鉄五郎『郊外風景』。下は、もう少し長生きしていたら萬鉄五郎が住んだかもしれない下落合584番地の二瓶等アトリエ跡。