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考現学的アプローチの岡不崩(岡正壽)。

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蘭塔坂階段.JPG

 落合地域には、洋画家ばかりでなく日本画家もたくさん住んでいたが、これまでほとんど紹介してきていない。曾宮一念アトリエClick!の北側に住んでいた、おそらく岡倉天心門下で洋画には反感を抱いていたらしい、また落合町の議員あるいは町会の役員として随所に顔を見せる、下落合622番地の川村東陽Click!ぐらいしか憶えがない。川村東陽は、曾宮一念へのいやがらせエピソードとして紹介しているだけだが、きょうは下落合に住んだ日本画家の仕事をご紹介したい。関東大震災Click!ののち、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上の下落合1980番地に画室をかまえて住んでいた楽只園主人・岡不崩(岡正壽)だ。
 岡不崩については、永井荷風Click!の美術教師だったことや、万葉集に登場する植物について分析・考察した、かなりマニアックな植物学的なアプローチからの図画集を残していることで広く知られているけれど、今和次郎Click!と同時期に考現学的な仕事もしていることはあまり知られていない。関東大震災のあと、岡不崩は東京の街中へ出かけていって、おもに繁華街の商店が復興する様子を克明に記録している。大震災の直後、街中へスケッチしに飛び出した洋画家たち、河野通勢Click!佐伯祐三Click!竹久夢二Click!たちのことは、これまで何度かご紹介Click!している。岡不崩は、震災から数ヶ月後の1923年(大正12)暮れより、スケッチブックを手に被災した東京市内の繁華街へと出かけている。
 岡不崩がスケッチして歩いたのは、東京のおもな繁華街が中心だった。1924年(大正14)1月の神田須田町を皮切りに、銀座、新橋、日比谷、築地万年橋、呉服橋、茅場町と歩いている。そして、同年3月に『帝都復興一覧』乾之巻・坤之巻の2巻にまとめた。この記録が特異なのは、単に復興をつづける街並みを写生したからではない。もちろん、そのような写生も同書には挿画としてわずかに含まれているのだが、岡の目的は作画ではなく“作図”なのだ。すなわち、各町のメインストリート沿いに展開していた商店街が、震災後どれくらいまで再建されているのかを、すべての敷地において1軒1軒採取し、それを細かく業種業態別に色分けして、詳細な商店街マップに仕上げているのだ。
 また、上記の繁華街のみならず浅草や花川戸、今戸、吉原、築地、月島、深川、洲崎などを歩いて、復興当初にいち早く商店や企業、各種施設、役所などが掲げていた看板や幟、サインディスプレイ、店先に印された屋号、貼り紙などを、事細かに採集してまわっている。さらに、震災後に発行された切手や収入印紙、交通切符、乗車券、百貨店で発行された買い物シールなどの現物まで貼付されている。まさに、大震災の惨禍から立ち直ろうとする東京市民の息吹が、同書を通じてあちこちから感じとれる内容となっている。
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焦土の京橋銀座19230905.jpg

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岡不崩「帝都復興一覧」乾之巻.jpg
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岡不崩「帝都復興一覧」坤之巻.jpg

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「帝都復興一覧」凡例.jpg

 震災後の当時、このような仕事をほかでは見たことがない。フカンから眺めた街の通りには、東京市電の線路までが描かれ、その上を走る市電の屋根やパンタグラフ、自動車の屋根までがところどころに描かれている。そして、通りの両側に並ぶ商店街には、おそらく震災から5ヶ月なのでバラック建築がほとんどなのだろう、1924年(大正13)1月現在に改めて営業を再開している商店や会社、役所などが、店名や社名、ビル名、施設名などとともにすべて屋号も含めて採取されている。驚くのは、震災による大火災で全滅した日本橋や京橋、銀座の商店街が、震災からわずか4~5ヶ月なのにもかかわらず多くの商店やデパート、企業などが、にわか造りの突貫工事にせよ再建され、営業を再開していることだ。ところどころに、残骸や灰の山、レンガの山、焼土の山などを集積した空き地が描きこまれているけれど、驚くほどの復興スピードだったことがわかる。
 たとえば日本橋を見てみると、日本橋三越Click!は営業を再開しているが、北隣りの三井銀行は焼失した空き地のままだったのがわかる。でも、通り沿いに向き合っていたフルーツ・洋食の千疋屋Click!は2軒とも開店しており、洋品の明月堂や岡野楽器、パンの清月堂、漬け物の小田原屋、海苔の山本山や山形屋、寿司天ぷらの大増、鰹節の加藤、漆器・刃物の木屋、そして日本橋魚河岸など、軒並み復興して営業をリスタートさせていたのがわかる。日本橋白木屋や丸善本店も、急ごしらえの建物で開店していた様子がわかる。京橋界隈は、瓦礫の山や空き地が目立ち復興が少し遅れているようだが、銀座通りは松屋と銀座三越(マーケット形式で服部時計店の焼け跡で営業)が早々に開店し、店々も次々と元の場所で再開しているのが記録されている。岡不崩は、ところどころに小さな赤文字で注釈を加えながら、急速に復興する東京の繁華街を記録し、また興がそそられた面白い風景に出あうとスケッチしていった。
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「帝都復興一覧」日本橋1.jpg

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「帝都復興一覧」日本橋2.jpg

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「帝都復興一覧」銀座.jpg

 たとえば、震災から半年たった1924年(大正13)3月28日に、尾張町2丁目21番地にあった復興マーケットのひとつである「銀座マーケット」から出火し、類焼で隣りの森永製菓店や木本シャツ店が全焼していることが、赤文字の注釈で書き加えられている。岡不崩は、この仕事をどれほどの期間つづけていたのかは不明だが、いま国立国会図書館に残されている『帝都復興一覧』は2巻のみだ。
 1923年(大正12)10月に、今和次郎は銀座へバラック装飾社を設立している。岡不崩が、銀座を含めた繁華街で復興調査とスケッチをはじめたのは、その少しあとということになる。また、今和次郎自身も、震災の焼け跡を次々と歩きまわっては、バラック建築を写生してまわっていた。当時の今和次郎は、明確に「考現学」というような新しい概念を打ち出してはいなかったけれど、このふたり、どこかの街角で交叉していやしないだろうか。1923年(大正12)の暮れから翌年にかけ、ふたりの軌跡が焼け野原となり復興への槌音があちこちで響く、東京の繁華街でピタリと重なる時間がある。
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焼け跡おでん屋.jpg
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復興自動車屋(築地新魚河岸).jpg

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復興看板1(浅草).jpg

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復興看板2(浅草).jpg

 あるいは、のちに今和次郎は楽只園主人(岡吉壽)の仕事をどこかで知り、下落合1980番地の楽只園すなわち岡不崩の画室を訪ねていやしないだろうか? 岡不崩は、『帝都復興一覧』を描いたまま和綴じ本に仕上げ、出版することなく手もとに置いて保存していた。しかし、その記録の貴重性や評判は各方面へ伝わっていただろう。今和次郎に限らず、資料に活用したり見せてほしいという人物は、少なからずいたと思われるのだ。
 岡不崩(吉壽)の画室“楽只園”は、蘭塔坂(二ノ坂)の途中から分岐する階段を上った、丘上の右手(東側)に建っていた。いまや、二ノ坂から山手通りへと抜けるバイパス道路が敷設され、あたりはクルマの騒音でうるさくなってしまったが、岡が画室を建設した大正末ごろは家もまばらで、静かな邸の南側からは新宿の街が一望できただろう。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では岡吉壽が「岡吉元」と誤記載され、1938年(昭和13)制作の「火保図」でも姓と名前がくっつけられて苗字「岡吉」と誤採取されている。以前にご紹介した川村東陽も、「下落合事情明細図」では「川村東郷」と誤記載されていたが、日本画家の表札は達筆すぎて、調査員には判読がむずかしかったものだろうか。
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焼け跡大売出し(日比谷).jpg
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岡不崩1929.jpg

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岡不崩邸1926.jpg
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岡不崩邸1938.jpg

 余談だけれど、天心門下で狩野芳崖の弟子だった岡不崩の画室の、目と鼻の先に洋画界の“ご意見番”的な存在だった金山平三Click!が住んでいたのは面白い。曾宮一念と川村東陽がそうであったように、ふたりは「犬猿の仲」だったものだろうか? おそらく、金山平三や満谷国四郎Click!たちが洋画家を中心とした「アビラ村(芸術村)」Click!を構想していたとき、岡不崩は苦々しく見ていたようにも想像してしまうのだが、案外、「変人」の金山じいちゃんClick!とは気が合って、なんらかの往来があったものだろうか。金山平三が岡邸に、アサガオかなにかを描きに出かけてたりすると面白いのだが……。

◆写真上:蘭塔坂(二ノ坂)から分岐して、岡不崩の画室(右手)へと向かう階段坂。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月5日に陸軍飛行第五大隊の撮影による全滅した京橋から銀座の街並み。は、国会図書館に保存されている『帝都復興一覧』の乾之巻()と坤之巻()。は、同書の巻頭に書かれた店舗や施設の凡例の一部。
◆写真中中は、再開した日本橋三越といまだ空き地のままの北隣りの三井銀行。は、まだ瓦礫の山や空き地が目立つ京橋寄りの日本橋エリア。丸善本店は開店しているが、本来の位置ではなく北隣りの敷地で営業を再開している。は、尾張町の交差点(銀座4丁目)界隈。服部時計店の跡地で三越がマーケットを開き、カフェライオンや山野楽器、パンの木村屋、宝飾の三木本などがすでに営業を再開していたのがわかる。
◆写真中下上左は、1924年(大正14)元旦に描かれた日比谷公園のおでん屋。上右は、築地新魚河岸の自動車屋。は、さまざまな看板や幟、貼り紙類のスケッチ。廃墟となった浅草十二階(凌雲閣)の屋内で、植木市場の開かれていたことがわかる。
◆写真下上左は、1924年(大正13)元旦に日比谷公園でスケッチされた看板と幟。上右は、1929年(昭和4)1月に撮影された岡吉壽(不崩)。は、「下落合事情明細図」(1926年)にみる岡邸()と「火保図」にみる岡邸()で、いずれも名前を誤記している。


昔とはちがう現代学生気質(かたぎ)。

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学習院女子大学.JPG

 久しぶりに、都内にある某大学のキャンパスへ出かける機会ができ、キャンパスじゅうを歩いて学生たちと話をしてきた。学食でランチを食べたり、史的資料がぎっしり詰まった研究室で休息したりと、なんだか学生時代にもどったような懐かしい1日だった。学食のメニューは信じられないほど充実しており、400円も出すとボリュームたっぷりの豪華なメニューが食べられる。有名な洋食屋と大学との協同運営で、ステーキランチ650円にはビックリした。わたしが出た1970年代後半から80年代にかけての大学とは、“食糧事情”が雲泥の差なのだ。わたしの時代には、学生会館にあったほとんど具の入っていない、学食の100円カレー(のち150円に)が人気だった。
 ところで、いまの大学キャンパスを歩いてみて、いちばん印象深く感じたことは、女子学生の数がやたら多いということだ。わたしがうかがったのは各学部が揃っている総合大学のはずなのだが、キャンパスはまるで女子大学へ出かけたようだった。この現象は、別にこの大学に限らず、わたしの母校にも常々感じていることだ。男子学生の数が相対的に減ってしまったものか、キャンパスを往来するのは女子学生ばかりが目につく。(もっとも、そもそも講義へ出てこない男子学生は、割り引いて考えなければならないだろう) 今回は、学生たちへの取材で出かけたのだが、教授たちが紹介してくださった学生10人のうち、なんと9人までが女子学生だった。女子の割合がなんと90%。おかげで、話をするのがちょっとタイヘンだったけれど。w
 わたしは知らない世代に属するのだが、1970年代末からスタートした共通1次試験とか、つづく大学入試センター試験の影響で、着実かつ地道にステップ・バイ・ステップで学習を積み重ねている、まじめで勉強をサボらない子たちが有利になり、わたしのようにいつもは遊んでいるのに、大学入試ではなんとか一発花火を打ち上げて、あわよくば合格ラインにひっかかってやろう……などという、ふとどき千万な生徒が激減したものだろうか。必然的に、ふだんから授業をちゃんと聴いてノートを几帳面にとっている生徒が多い、女子が有利になるのかもしれない。おそらく、いまわたしが受験をしたら、「もうちょっとマジメに高校で勉強して、成績がマシだったらよかったのにねえ」……と、内申書レベルですぐにハネられるような気がする。
 驚くことは、まだある。教授と学生との距離が、わたしたちの時代に比べてかなり近接しているのだ。わたしの時代も、3・4年生になると専門別のゼミでは少人数のため、教授とはかなり親しく接することができたけれど、いまは入学したばかりの1年生(100人単位の大教室時代)から、気に入った講義の教授へ気軽に話しかけて勉強や進路のこと、あるいはさまざまな学内の相談事などを持ちこめるシステムのようだ。教授のほうも面倒がらず、ひとつひとつの相談にのってあげている様子には感心してしまった。わたしの時代なら、「自分で考えてなんとかしろ」と突き放していわれてしまいそうなことにも、きちんと対応しアドバイスしてあげているらしい。少子化のせいで、大学の評判や学生の質をたいせつに考えてのことなのだろうが、とてもうらやましく感じた点だ。
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立教大学1.jpg
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立教大学2.JPG

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慶應大学1.JPG
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慶應大学2.JPG

 履修科目の選択や進路の相談では、大学に専門の相談窓口があるのもうらやましい。また、どの科目を履修すればどのような資格が取得できるのかも、すべて目的別やコース別で細かく相談にのってもらえる。わたしの学生時代は、ぜんぶ自己管理の自己責任でカリキュラムを組み立てて、必要な単位を履修しなければならず、細かなことまで相談できる専門窓口などほとんど存在しなかった。学部ごとに学生課はあったが、おもな業務は必要な書類などをやり取りするカウンター窓口であり、なにか気軽に相談を持ちこめるような部局ではなかった。
 大学の評価や実績に直結するからだろう、就職のサポートもたいへん親切で手厚い。わたしの大学にも就職課は存在したが、利用したことがないので詳細はわからない。でも、傍らで友だちが利用しているのを眺めていると、まるでハローワークか不動産屋のような雰囲気だったのを憶えている。就職課の掲示板に張り出されている、各社の求人・募集の貼り紙をメモして相談カードに書きこみ、「ここの入社試験を受けてみたいんですけどぉ」とカードをカウンターに提出すると、係員が学生の学部や学科を見て「うーーん、キミは資格とかちゃんと取ってるの? なにか履歴書の資格欄に書きこめるものがないと、ここの1次書類審査は狭くてキビシーんだよ~ん」とか、「この会社は地方とか海外勤務が多いから、覚悟して入社しないと転職したOBが多いよ~ん」とか、そんなレベルの応談だった。ところが、今日の大学では就きたい仕事や方向性が漠然とでも見えていれば、1年生から相談にのってくれるそうだ。つまり、いまだ曖昧な将来の“夢”や仕事のイメージレベルから、履修しておいた方がいい科目のアドバイスにさえのってくれる。
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 こうまでいたれりつくせりだと、学生の自主性や主体性が育たないじゃないかなどという懸念Click!がアタマをもたげてくるのだけれど、どうやらそんな心配は杞憂のようだ。もちろん、個々の学生の性格にもよるのだろうが、少なくともわたしが取材した学生たちは、自分でしっかり自律して目的意識をもった学生生活を送らないと、面白くて充実した勉強が思うように進まないし、まずは自身が積極的に動きまわり視野を広げて多角的に学問をとらえ、興味のある研究テーマを早く見つけて主体的に取り組んでいくことがとても重要で大切だと思う……と、わたしの学生時代では信じられないような、強い問題意識や主体性をもった答えが返ってきた。別に、近くに担当教授や大学関係者がいて、彼らの言葉に聞き耳を立てているわけではなく、ラフな雰囲気で雑談風に訊ねたことに対する彼らの回答だ。わたしのように、とりあえずはこの大学に入って、それからなにかを探してみようか……などという、いきあたりばったりな姿勢ではないのだ。
 ことさら、教授たちに紹介いただいた優等生に取材をした……という側面は否定できないけれど、学食やラウンジで他の学生の話に耳を傾けても、おしなべて彼女たち(彼ら)は真摯でマジメな雰囲気であり、くわえタバコで競馬新聞を拡げながら長椅子に寝っ転がっている(爆!)、大学のラウンジだか競馬場だかわからないような風情は、もはやどこにも存在していない。あるいは、キャンパスはきわめて清潔で美しく、もちろん立て看やところ狭しと貼られたサークルのポスター、風に吹かれてキャンパスに舞う夜目にも白いビラなど絶無だ。サークルのポスターや告知ビラなどは、ちゃんと「学生自由掲示板」に行儀よく貼られていた。
 この大学環境を、「きちんと勉強しやすい、理想的な学府の姿だ」ととらえるか、「問題意識のレベルが現象面を脱しておらず、管理され飼いならされた羊ちゃんのようだ」ととらえるかは、各時代の世相を背景に大学生活を送った世代によって、おそらく千差万別だろう。少なくとも、勉強や研究というテーマのみに絞れば、わたしには非常にいい環境のように映るのだけれど、それでは得られない多彩な人間関係や、4年間しか許されない知的経験とそれ以外のさまざまな体験を味わうには、どこか高校生活の延長線上のような気がして、ちょっと物足りなく感じるのも確かなのだ。
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目白大学1.jpg
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早稲田大学1.JPG
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 まかりまちがっても、「我々は~理工学部のスト突入を最後とし~圧っ倒的な力を結集して~諸君とともに~全学バリストを克ちとり~今回の~学費値上げ阻止斗争を契機として~わが学園の自治破壊をもくろむ~大学当局の~分断マヌーバを粉砕し~歴史的な転回点をうつために~最後まで~徹底した要求貫徹と~来たるべき総長団交の~圧っ倒的な勝利をめざして~全学的に~断固起ち上がることを~改めてここに~宣言する!」というようなw、尻あがりの聞きづらい学生アジ演説Click!など、もはや風の音ばかりで、どこからも聞こえてきはしない。静寂なキャンパスの高層化した学舎の窓をたたくのは、遠くで救急車のサイレンが混じる、風の音だけだ。

◆写真:わたしが訪問した大学と、掲載している大学の写真とは関係がありません。

薬王院の太子堂は茅葺きだった。

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薬王院01.JPG

 またしても、1926年(大正15)ごろに制作された『堂(絵馬堂)』Click!がテーマなのだ。佐伯祐三Click!がこの風景を描いたのと同じ時期に、大正末から昭和初期にかけて存在していたと思われる寺院の堂を求めて下落合、上落合、葛ヶ谷(西落合)はもちろん、長崎地域や野方・上高田・新井地域、柏木地域(東中野)地域、戸塚地域を訪ねてみたが、この堂があった寺院をいまだ発見できていない。唯一、大正期から戦前まで堂の姿が写真で確認できないままの、佐伯が『下落合風景』シリーズClick!「洗濯物のある風景」Click!を描く背後に建っていた桜ヶ池の不動堂を除き、この堂が落合地域とその周辺域にあった可能性は低くなっている。
 ただし、わたしは『下落合風景』シリーズの描画ポイントにもとづく佐伯の足跡を軸に、『堂(絵馬堂)』を落合地域の西部、落合地域の北(長崎町)・西(野方町・中野町)・南側(淀橋町)を中心に調べてきたが、落合地域の東はまだ手つかずのままだ。『下落合風景』を見ても、佐伯は下落合東部の山手線沿いを除いてほとんど描いておらず、それは佐伯自身の郊外風景に対する画因選び(モチーフ探し)に起因していると思われる。いかにも郊外の新興住宅地を思わせる、工事中あるいは工事直後の道路や、宅地造成が済んだばかりで真新しい縁石に赤土がむき出しの分譲地、もうすぐ畑地を売って農業をやめてしまいそうな鄙びた近郊農家などを好んで描く佐伯は、山手線の内側で明治期から拓けていた街の風景を描くとは想定しにくいからだ。
 しかし、雑司ヶ谷大原の踏み切りを描いた『踏切』Click!や、下落合と高田町とをつなぐ雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に架かった山手線の『下落合風景(ガード)』Click!など、雑司ヶ谷や学習院下Click!へと抜けられる位置にイーゼルを立てていたのも事実だ。したがって、そこからフラフラと雑司ヶ谷(現・南池袋)や高田・目白台へと抜けていかないとも限らない。特に『踏切』の奥に見える武蔵野鉄道ガードClick!の向こうには、佐伯アトリエの隣りに1927年(昭和2)ごろ大きな邸を建設した納家Click!が経営する、毛糸を製造していた「曙工場」Click!が建っていた。そして、山手線の踏み切りやガードの向こう側には、下落合の西側と同様に寺町が形成されている。時間があれば、今度は下落合の東側の寺々を確認しにまわってみたい。
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 さて、もうひとつ確認しておかなければならない課題があった。それは、戦前まで薬王院に太子堂が存在していたことだ。太子堂は本堂(現・僧坊)の西側にあり、当時の鐘楼に近接して建立されていて、現・駐車場の一画にあたる位置だ。佐伯祐三は、曾宮アトリエClick!のある諏訪谷Click!から南へと写生ルートをたどり、薬王院の旧墓地のコンクリート塀を「墓のある風景」Click!に描いたあと、さらに南へと下って新宿を遠望できる崖から、丘の斜面中腹に建っていた巨大な池田邸Click!の鯱がのる赤い屋根を見下ろしながら描いている。したがって、薬王院の境内に入りこみ、その堂を描かなかった……とは決して言い切れないからだ。
 灯台下暗しで、さんざん探しまわった『堂(絵馬堂)』が結局、薬王院の太子堂だったりしたら、ほとんど笑い話の世界になってしまう。でも、わたしはこの作品について2005年(平成17)当時、真っ先に薬王院の僧坊を訪ねている。しかし、「わかりません」というお答えだったので、その後詳しくは調べていなかったのだが、少々気になりだしたので念のために“ウラ取り”をしてみることにした。当事者である薬王院には取材したはずなのだが、現在の住職は戦後の就任であって、戦前の寺内の様子はまったくご存じないとのこと。それでは、実際に薬王院の太子堂をご覧になっている、地元住民の方々に取材したほうが確実だと判断した。太子堂は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、鐘楼とともに全焼している。
 2013年(平成25)に発行された地元資料『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)には、薬王院の太子堂と鐘楼が1945年(昭和20)5月の空襲で焼ける様子を記録した、高田俊夫氏の想い出が掲載されている。
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薬王院02.JPG
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薬王院03.JPG

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 薬王院が戦災に遭って太子堂と鐘楼が焼失したのは昭和二十年五月のことでした。現在の山門に向かって左手奥の駐車場の場所に、当時太子堂と鐘楼が建っていました。太子堂は屋根がかやぶきで、空襲のため大火災となった戸塚のほうから飛んでくる火の粉のため、このかやぶき屋根に火がつきました。/お寺の人や近所の人たちが何人か集まって、現在の墓地に行く階段の下あたりにあった湧水で消火活動をしていました。当時中学生だった私も屋根に登って消火に当たりましたが、だんだん水がなくなってきて、ついに太子堂と鐘楼は焼けてしまいました。/私は濡れたかやぶき屋根から滑り落ちたりしましたが、幸い怪我はせずにすみ、消火活動に当たった人の中からも誰も怪我人は出ませんでした。(「薬王院太子堂・鐘楼の戦災焼失」より)
  
 太子堂の屋根が瓦葺きや檜皮葺きではなく、いまだ茅葺きだったことがわかる。佐伯の『堂(絵馬堂)』の屋根は、その形状といいボリューム・質感といい茅葺きには見えない。念のため堀尾慶治様Click!にも確認してみたところ、「茅葺きには見えない、ちがうね」というご意見だった。
 ちなみに、この作品は長い間「絵馬堂」というタイトルで呼称されているけれど、もちろん佐伯祐三自身が付与した画題ではなく、後世に誰かがタイトルをあと追いでつけたものだろう。画面をよく観察すると、堂の前面に架けられているのは、絵馬とは異なるものが多いように見えることは、いつかすでに記事Click!へ書いたとおりだ。あと追いのタイトルに引きずられ、絵馬を奉納する「絵馬堂」を想定してモチーフとなった堂建築を捜索すると、実は大きなまちがいを犯しそうなのだ。
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佐伯祐三「堂」1926.jpg
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武蔵野鉄道ガード1983.jpg

 いままで、あえて“堂探し”をしてこなかった下落合の東側には、はたして90年前のどのような風景が眠っているものだろう。わたしは、下落合に建てられた納邸Click!の存在とともに「曙工場」が建っていた周辺域、すなわち『踏切』のガード向こうの雑司ヶ谷が、いま、とても気になるのだが……。

◆写真上:鐘楼があった位置から、戦災で焼けた薬王院の太子堂跡あたりを望む。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる薬王院の太子堂と鐘楼。は、1936年(昭和11/)と1947年(昭和22/)に撮影された空中写真にみる薬王院の太子堂(跡)と鐘楼(跡)。
◆写真中下上左は、クルマが停車しているあたりに太子堂が建っていた。上右は、消火に用いた湧水源があったあたり。は、いまでは僧坊として使われている旧本堂。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。は、1983年に撮影された武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の雑司ヶ谷大原ガード。(撮影:lot49sndさん)

「もとゆひ工場」は元結の天日干し作業?

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風景・職人.jpg

 中村彝Click!が描いていたアトリエ裏の「もとゆひ工場」(一吉元結工場)について、もう少しあれこれこだわって書いてみたい。きょうの記事は長いので、興味のない方は遠慮なくどんどん読み飛ばしていただきたい。彝は、同工場を小品『雪の朝』Click!にとらえて描いているが、この作品が広く認知されるようになったのは、同作品が彝から中村春二Click!に贈られ、成蹊学園の教育機関誌『母と子』(成蹊学園出版部)の表紙に採用され出版された、1923年(大正12)2月5日(実質的には1月発行だろうか)以降のことだろう。
 『雪の朝』Click!はいつ描かれたものか、新宿歴史博物館Click!で行われた「中村彝―下落合の画室-」展では「制作年不詳」とされているが、同展の図録ではなぜか「1916年」(大正5)ごろ、つまり彝が下落合464番地へアトリエを建てたころに制作されたことになっている。もし、この記載が誤記ではないとすれば、その根拠はなんだろうか?
 タテ長の小さな画面に周囲の風景や、竣工したてのアトリエを描いた作品などには、確かに下落合へ引っ越してきてから間もない作品が多い。でも、1919年(大正8)になって庭先などを描いた作品にも、同様の小品は見られる。わたしは彝がアトリエ周辺、特に南側の庭ではなく、北側の目白福音教会や元結工場の干し場あたりを描いていた、アトリエから少し離れて野外写生をする体力が比較的もどっていた、もう少しあとの年代を想定しているのだが……。
 これらの小品については、面白い証言が残っている。1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「アトリエ雑記」には、中村彝のキャンバスについて次のような記述が見える。
  
 一つ二つ彝氏の逸話でもかいてみませう/昔は板でさへあれば菓子折でも何へでも描いたのださうで、よく絵の裏をかへすと鶏卵などゝ書いた紙がはつてあつたりしたさうです。又気に入らない絵はどんどん塗りつぶして仕舞い、人がどんなに望んでも決して売らなかつたさうで、自画像だけでも二箱位燃やしたこともあるとか。
  
 彝が描いた小さな作品群には、はたしてどのような素材が用いられているものか、キャンバスを裏返して見てみたい。近くの養鶏場で売っていた鶏卵や、目白駅近くの菓子屋の商標などが残っていれば、下落合のアトリエですごす彝の生活を、よりリアルに実体化できそうだ。
 さて、彝の手紙に「もとゆひ工場」が登場するのは、1919年(大正8)12月14日の洲崎義郎(すのさきぎろう)あての手紙だ。この手紙は、従来2月4日と分類されていたが、文面から同年の暮れに書かれたものであり、消印の誤読によるものであることがのちの研究で判明している。1926年(大正15)に出版された、『芸術の無限感』(岩波書店)収録の手紙から引用してみよう。
  
 仕事を信じ、仕事の中に味ふ緊張した喜びと激情と冒険とを少しも怖れなくなつた為めに、この頃では、実に、実に、多くの自由と勇気と自信とを獲得して、日毎に心が晴れやかになり、元気を増し、頭も少しづゝよくなつて、例の神経衰弱も大分よくなつて来ました。今は毎日裏の「もとゆひ工場」を十二号に描いて居ます。そして午後と曇り日とは、画質で十号に静物を描いて居ます。
  
 わたしは、彝自身が「もとゆひ工場」を12号キャンバスに描いていると記していることから、そして実際に『雪の朝』で一吉元結工場を中心モチーフにすえて描いていることから、戦災で失われてしまったかもしれない、あるいは個人蔵で行方不明になってしまったかもしれない、元結工場をモチーフに描かれた12号作品の画面を探している。
 しかし、これが『雪の朝』のように、一吉元結工場自体の建屋を描いた画面のことではなく、元結工場で生産された元結を乾燥させるため、工場の西側に拡がる干し場へ運んで天日干し作業をする職人たちをモチーフに描いていた……と解釈したらどうだろうか? すると、翌1920年(大正9)に完成し、新潟県の柏崎で開催された中村彝の個展Click!にも出品されることになる、『目白の冬』の12号画面が相当することになってしまうのだ。
 ちょっと余談だけれど、佐伯祐三Click!が大好物だった“はなよめ”Click!だが、山田新一Click!が『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)に書く「福神漬のような缶詰」という表現の解釈しだいでは、“はなよめ”は「福神漬けのような食べ物」ともとれるし、“はなよめ”は「福神漬けのような意匠の缶詰めに入った食べ物」ともとれる。わたしは、双方の可能性を前提に探しているのだけれど、いまのところ会津の甘煮豆“はなよめ”しか発見できていない。w
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目白の冬・職人1.jpg
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目白の冬・職人2.jpg

 1989年(昭和64)に木耳社から出版された、鈴木秀枝『中村彝』には次のように表現されている。同書には、彝のもっとも身近にいた親しい友人のひとりである曾宮一念Click!も跋文を寄せているので、ほぼ失明していたとはいえ同書の内容は、曾宮自身も確認・把握しているだろう。
  
 なおその他にヴァン・ゴーグ(註:ゴッホ)的技法を用いた十二号「目白の冬」で自宅裏の元結い作りの情景を写した。非常に繊細な筆触で大正期の郊外地の様子を明るく捕らえ(ママ)ている。
  
 同書では『目白の冬』の画面について、元結工場ではなく「元結作りの情景」を描いているとしている。曾宮一念は、『目白の冬』に描かれた建物が一吉元結工場の建屋ではなく、2棟とも目白福音教会の建物であり、中心にあるモチーフは宣教師館(メーヤー館Click!)であることを熟知していただろう。また、曾宮自身も同館をモチーフに『落合風景』Click!(1920年ごろ)を制作し、のちに支援者だった津田左右吉へと贈っている。つまり、下落合生活が長く彝アトリエの周辺を熟知している曾宮であれば、『目白の冬』の情景を「元結工場」が描かれた作品だとは表現しえなかったであろうし、著者の鈴木秀枝も、それを十分に意識しての記述なのだろう。
 もうひとつ、鈴木良三Click!が死去したあと中村彝会の会長を近年までつとめ、中村彝アトリエ保存会Click!へも病床から参加していただいた梶山公平氏Click!は、1988年(昭和63)に出版された『夭折の画家・中村彝』(学陽書房)で、『目白の冬』について次のように記述している。
  
 こうして平磯転地で療養の効果もなかった大正八年も暮れて翌九年に入る。二月の冬晴れの日に画室の西側の空地を見た彝はイーゼルを立てる。くいを打って糸を引き元結をつくっている眺めを描いて『目白の冬』と題した。/この作品は十二号であるが、ゴッホの筆触と色調が画面を支配している。澄みきった冬の大気が感じられて躍動するタッチが美しい。
  
 梶山公平氏もまた、当時の元結工場(彝アトリエの北北東)の立地とは反対位置にあった、彝アトリエの「西側の空き地」(干し場)の眺めを描いていると規定しており、元結工場を描いたとは書いていない。これは、梶山氏が1929年(昭和4)から中村彝アトリエを購入して住んでいた、鈴木誠Click!の子息である鈴木正治様Click!(アトリエの保存について、わたしが最初に手紙を差し上げた方だが、残念ながら1ヶ月後に亡くなられた)と中村彝会を通じてお互いに親しく、『目白の冬』に描かれたそれぞれのモチーフを、鈴木正治様より詳しく聞いて正確に把握していたからだろう。
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元結.jpg
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水引.jpg

 中村彝は、現在わかっているだけで、目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)をタブローとして都合4回Click!(デッサンや習作類は除く)、メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校の建物Click!を1回モチーフに選び、同教会の敷地にある建築物を執拗かつ繰り返し描いている。だが、にもかかわらず、「教会」あるいは「教会の建物」という言葉をあえて避け、意図的につかっていないように感じるのだ。これは、若いころ野田半三Click!の奨めで市ヶ谷キリスト教会へと通い、牧師から洗礼を受けたこともある彝だが、その後、おそらく疑問や反発をおぼえてキリスト教とはかなり距離をおくか、半ば訣別している思想的な経緯によるものではないか。
 彝は晩年、「近くの教会の牧師さん」に奨められ、おそらく体力的に歩くのが困難になっていたのだろう、わざわざ俥(じんりき)を雇って教会へ説教を聞きに出かけているが、友人の洋画家・遠山五郎Click!へ語ったように、とても信仰できず「やっぱり駄目だね」Click!だったのだ。このときの「近くの教会の牧師」とは、目の前にあるプロテスタント系の目白福音教会の牧師だった可能性が高い。下落合には教会が数多いが、「牧師」のいるプロテスタント系教会で昔からの施設は、明治末に建設された落合福音教会(しばらくして目白福音教会に改称)しかない。
 彝が死去した翌年、鈴木良三は上記の『みづゑ』240号へ追悼文「父としての追慕」を寄せている。アトリエ裏の元結工場を描いていた、彝の想い出を書いているので引用してみよう。
  
 たゞお躰が悪いばつかりに近年では外の景色さへも眺める事が出来なかつたのです。「気分の良い日に俥で附近の景色を見に行かう」などゝ言つて居られましたがそれも駄目でした。/七年程前に裏の元結工場を十二号ほどに描かれて、そのするどい激情や、驚くべき洞察やを示されました。その後一二年後に平磯で、十号ばかりに風景をかゝれましたが、それ以後は風景らしいものは描かれずに終はれました。
  
 鈴木良三が追悼文を書いたのは、1925年(大正14)の新春だと思われるが、その7年ほど前というと、1918年(大正7)に「元結工場」が描かれていたことになり、またその後、1、2年ののちに平磯療養があったとすれば、彝は12号の「元結工場」をもう1枚制作していることになってしまう。彝が洲崎義郎あてに、「もとゆひ工場」について書いているのは1919年(大正8)の暮れで、平磯療養から帰った3ヶ月後のことだ。そして、平磯の風景作品が最後ではなく、1920年(大正9)に『目白の冬』が完成していることを考慮すれば、鈴木良三の記憶ちがいのようにも思える。
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目白の冬素描・職人.jpg
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目白風景・職人.jpg

 だが、鈴木良三も中村彝アトリエから南西へ400mほど離れた下落合800番地Click!に住み、曾宮一念と同様に、彝アトリエ周辺の情景には知悉していただろう。だから、『目白の冬』や『目白風景』、『風景』(2画面)などの作品に描かれているのは、目白福音教会に付属していた建築群であり、一吉元結工場でないことは周知のことだったにちがいない。それをあえて「元結工場」と書き、その制作時期の曖昧な記述も踏まえて考えると、やはり鈴木良三は『目白の冬』の情景ではない、別の画面を想起しながら書いているようにも思えてくるのだ。

◆写真上:中村彝『風景』(制作年不詳)の、麦藁帽をかぶった天日干しの職人たち。
◆写真中上:中村彝『目白の冬』(1920年)に描かれた、製造した元結を乾かす職人たち。
◆写真中下:いまでも生産がつづく元結()と、同様の工程で製造する水引()。大正末から日本髪に必要な元結の需要が急低下し、水引製造へと事業転換する工場が相次いだ。
◆写真下は、中村彝『目白の冬』(素描)に描かれた元結職人のデッサン。は、中村彝『目白風景』(1919年)の画面に描かれた作業中の職人らしいフォルム。

下落合を描いた画家たち・牧野虎雄。

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牧野虎雄アトリエ跡.JPG

 大酒飲みで幻覚を見るほど錯乱し、最後には縊死してしまった破滅型の洋画家・片多徳郎Click!が暮らしていた、下落合732番地のアトリエ斜向かいに、これまた大酒飲みでポケットウィスキーを手放せない牧野虎雄Click!が、下落合の北隣りである長崎町1721番地から引っ越してきてたのは、1937年(昭和12)のことだった。
 アトリエをかまえたのは下落合2丁目604番地で、下落合(2丁目)623番地の曾宮一念Click!アトリエClick!とは土井邸をはさんで東隣りにあたる位置だ。この土井邸は、佐伯が描いた『下落合風景』シリーズの「浅川ヘイ」Click!に名前の残る浅川邸だった敷地だ。牧野虎雄はここを拠点に、室内や庭、また周辺の風景をモチーフに作品を残した。文展や帝展を中心に活躍した牧野は、旅行が好きでなかったせいかあまり遠出はせず、自宅とその周辺に画因を求めている。
 牧野虎雄というと、1922年(大正11)から下落合540番地の大久保作次郎Click!アトリエClick!近く、長崎村荒井1721番地で暮らしていた印象が強い。それは、牧野の初期代表作である『凧揚げ』(1924年)が特に有名なせいもあるだろう。赤い屋根のモダンな家が見える長崎村の草原で、女の子が凧(たこ)あげをしている情景を描いたものだが、豊島区の資料でもしばしば登場する作品だ。牧野自身も凧あげが大好きだったようで、下落合のアトリエの壁にはめずらしい凧がいくつか飾られていたのを、曾宮一念が目撃している。1963年(昭和48)に東京都庭園美術館で開かれた、「牧野虎雄・曾宮一念」展図録の「落合の一人居」から、曾宮の言葉を引用してみよう。
  
 美術学校で牧野は四年上だが卒業後研究科で知った。その人が震災後落合に越して来た。一人居で近づき難い孤高の先輩を私も訪ね彼も来た。/牧野と我が家の間に欅と野仏があり、武蔵野の名残があった。「麦の道と少年」「朝顔」「箱根風景」はこの時代の作と思われる。珍しい凧が壁に吊され、笑いをこらえている子供の画もあった。独り湧き出る笑いを少年に託した画と思う。四谷の新居に移った後に私は富士の吉原に疎開した。/牧野重態の噂で四谷に見舞うと、田沢田軒と猪口を手にしていたが、色白の顔は土色に変っていた。/二十年私はB29の列に追われてついに牧野の訃報をうけられなかった。
  
 牧野虎雄は戦後、和歌山へ旅行したあと、1946年(昭和21)10月18日に食道癌が悪化し56歳で死去しているので、「二十年」と書いている「訃報」は曾宮の記憶ちがいだと思われる。
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牧野虎雄「春」1940.jpg
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牧野虎雄「杏」1941頃.jpg

 牧野虎雄は、東京美術学校の森田亀之助Click!がプロデュースした、下落合の画家たちを集めた湶晨会(せんしんかい)Click!にも参加して作品を出展している。金山平三Click!安井曾太郎Click!曾宮一念Click!、そして牧野虎雄の4人が参加した湶晨会は、太平洋戦争の直前にもかかわらず、軍事色のない美術展として特異な存在だったろう。もし健在であれば、森田亀之助は中村彝Click!にも声をかけ、また親しかった佐伯祐三Click!も加えた6人展にしていたかもしれない。この湶晨会を通じて、曾宮一念は牧野と急速に親しくなったと思われる。
 また、金山平三とは帝展改組の第二部会Click!を結成し、実力がないのに自分の弟子だからという理由で優先的に入選させる情実鑑査や、盆暮れにわいろを受け取って選考に手ごころを加える審査員の腐敗を糾弾して、帝展への出品をいっさい拒否している。文展・帝展とも、とうに無鑑査になっていた牧野だが、1935年(昭和10)に「帝展不出品同盟」を結成し、金山とは第二部会以来の“同志”だった。このあと、牧野は東京美術学校の教授も辞めている。
 下落合のアトリエで描かれた牧野の作品には、箱根へ出かけて描いた『函嶺風景』(1939年)などは別にして、やはり室内や庭先、近所の風景が多いようだ。湶晨会展にも、室内の生物や庭先、下落合の近所を写生したらしい作品を出展している。まず、1940年(昭和15)に描かれた『春』は、どこかの崖地に建っている庭先から、谷間へと落ちる斜面の草木を描いたように見える。翌1941年(昭和16)ごろの『杏』は、逆に崖下の畑らしい平地から、杏の樹木ごしに少し高くなった丘陵を写している。当時の下落合西部、特に金山平三たちが住んでいたアビラ村Click!の西側界隈には、いまだこのような風景が残っていただろう。
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牧野虎雄「けし」1940年代.jpg
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牧野虎雄「芥子の実」1940年代.jpg

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牧野虎雄「朝顔」1938-45.jpg
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牧野虎雄「柿の実」1938-45.jpg

 下落合のアトリエで描かれた静物には、花瓶に挿したケシの花や実がよく登場している。これは、同時期にケシClick!のスケッチをしていた曾宮一念とも共通するモチーフだ。曾宮は、自宅庭の花畑へケシも植えており、ひょっとすると牧野虎雄は曾宮から庭で育ったケシをもらい、アトリエに持ち帰って描いているのかもしれない。同時期には、アサガオやカキの実、ナシの花、白ツバキ、白ユリなどをモチーフに静物作品を制作している。1940年代に入ると、風景作品が減り静物画が急増するのは、洋画家が「非常時」に屋外で写生などをしていると、「非国民」呼ばわれされ特高Click!に検束されかねない状況だったからだ。
 1941年(昭和16)11月、日米開戦の直前に日本橋高島屋で開かれた湶晨会展への出品作品も、身近な風景や静物が中心だった。おそらく、下落合の牧野アトリエの庭先を描いたと思われる『雨後の夕映』と『風景花葵』、室内で描かれた『白ゆり』の3点が出品されている。いずれも植物をモチーフにしており、長崎のアトリエでよく描かれた人物作品は少ない。
 牧野虎雄は、和服の懐中にポケットウィスキーを常時携帯していたようで、片多徳郎に劣らず酒好きだった。みずから「瓢人」と号し、「酒訓」と題する戒めを書に残している。
  
  酒 訓      瓢人
 沢山のむが自慢になり候はず、それば酒量を誇ること禁物に候。飲みて楽み愉快なるは可、酔ふて乱れ狂ひ人々迷惑なるは醜く甚だ頼もしからず候。各自己れの分量にて我慢をされ度くいづれも酒のみのたしなみに候。右よくよく御承引の上は酒来らすべく候。
  
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牧野虎雄「風景花葵」1941.jpg

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牧野虎雄「酒訓」.jpg

 牧野はスポーツが得意だったようで、中でも野球Click!はやるのも観戦するのも好きだった。また、芝居好きClick!だったらしく、金山平三と親しかったのもうなずける。芝居を観たあと、銀座のバーに寄りウィスキーを痛飲していたようで、死期を早めたのはまちがいなく酒だったのだろう。

◆写真上:旧・下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)の、牧野虎雄アトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、酒を片ときも手から離さない牧野虎雄で背景は長崎1721番地のアトリエ。上右は、1931年(昭和6)に制作された牧野虎雄『自画像』。下左は、1940年(昭和15)に描かれた牧野虎雄『春』。下右は、1941年(昭和16)ごろに制作された牧野虎雄『杏』。
◆写真中下は、1940年代の前半に制作されたとみられる、牧野虎雄『けし』()と『芥子の実』()。は、1938~1945年のスケッチブックより牧野虎雄『朝顔』()と『柿の実』()。
◆写真下は、湶晨会展へ出品するため1941年(昭和16)に制作された、牧野虎雄『雨後の夕映』()と『風景花葵』()。は、牧野虎雄が酒飲みの戒めとして書いた「酒訓」。

目白文化村絵はがき2枚を比較する。

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絵はがき「目白文化村」表.jpg

 先ごろ、絵はがき「目白文化村の一部」Click!を入手しご紹介したが、こういう幸運は重なるもので、新宿歴史博物館に収蔵されているものと同一の絵はがき「目白文化村」Click!も、数日後に手に入れることができた。古書店や絵はがき店では、めったに見ることができない稀少なものだが、価格もリーズナブルだった。
 新宿歴博に収蔵されている同絵はがきClick!と比較してみると、こちらのほうが焼けが薄くて保存状態も良好だろうか。特に表裏とも白地の部分が変色せず、当初の印刷時の姿をよく残していると思われる。裏面の宛て先は、前回の絵はがき「目白文化村の一部」と同じ大井町で、しかも驚いたことには「市外大井町五六二」と住所までいっしょだ。しかし、宛て名が異なっており先の「U・M殿」に対し、この絵はがきでは「S・U殿」となっている。大井町の同じ地番で同一区画内に住んでいた、ちがう人物への販促絵はがきを、わたしは偶然手に入れてしまったものだろうか。
 1銭5厘切手の上に押された消印は、かすれてよく読み取れないが、他の2通と同様に1923年(大正12)の春から初夏にかけ、早稲田局へ投函されたものだと思われる。わたしは前回、箱根土地のDMを扱う業者が早稲田いたのではないか……と想定したが、堤康次郎Click!の出身校である早稲田大学の学生たちに、宛て名書きアルバイトをやらせていた可能性もありそうだ。早大の理工学部建築家の学生に声をかけ、さまざまな建築の設計コンペを実施していたことを考えあわせると、DMアルバイトの可能性はかなり高いようにも思われる。
 さて、「大井町五六二」の住民に向け、箱根土地は絵はがき「目白文化村」の異なるバージョンを送付していたことになるのだが、これにより以下のふたつのことを想定することができる。まず、DMのプロモーションは見込み顧客を絞りこんだピンポイント的な送付ではなく、ある地域の住民全体へ「目白文化村」宣伝はがきを大量に送りつける、「ローラー作戦」型の展開であった可能性だ。大井町や大森界隈は学者や文化人、芸術家、勤め人などが数多く住んでおり、ある地域に住む住民へ片っぱしから絵はがきを送りつけていった……という手法だ。当時は、今日ほど個人情報に対するセキュリティ感覚は薄いので、地域住民の名簿などはすぐにも入手できただろう。
 もうひとつの可能性は、同じ人物あるいは同じ地域へ繰り返し異なる種類のDMを送りつける、反復宣伝の手法によるプロモーションだ。今回、入手した絵はがき「目白文化村」の消印ははっきりしないが、新宿歴博に保存されている同絵はがきの消印は、1923年(大正12)4月20日の早稲田局消印が押されている。でも、前回ご紹介した絵はがき「目白文化村の一部」には、同年5月22日の早稲田局消印が押されていた。つまり、今回入手したポピュラーな絵はがき「目白文化村」は、1923年(大正12)3月ごろに印刷して翌4月に見込み顧客へ発送し、絵はがき「目白文化村の一部」は同年4月ごろに印刷して、翌5月に同一の見込み顧客あてに発送されたのではないか……という二重送付の可能性だ。
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絵はがき「目白文化村」裏.jpg

 後者の宣伝プロモーションを想定すると、絵はがきの裏面に印刷されたコピー表現のちがいも、自ずと理解できるように思われる。1回めのDMでは、受け取った顧客へ目白文化村Click!のオシャレでハイカラな風情や眺望を感覚的にアピールするコピー表現であり、2回めのDMでは、より具体的な街中の設備や売地の価格をスペック的に記述している。つまり、1回めのDMは顧客に対する“アプローチ”であり、2回めのDMは営業マンにかわっての“トーク”ということになる。堤康次郎自身が、セールスプロモーションを指揮したと思われるのだが、大正期の当時、このような手法は別にめずらしくはなくなっていただろう。ちなみに、ポピュラーな絵はがき「目白文化村」の裏面コピーを再録しておこう。
  
 ウイルソンは「住居の改善は人生を至幸至福のもたらしむる」と断言致して居ります、目白文化村は健康と趣味生活を基調として計画致しましたが今や瀟洒な郊外都市として立派な東京の地名となつて仕舞ひました。
 高台地のこの村は武蔵野の恵まれた風致――欅や楱の自然林、富士の眺め――をそのまゝに道路や下水を完備し水道や電熱設備倶楽部テニスコート相撲柔道場等の設備が整つて居ります。文化村は住宅地として市内以上の設備が整つて居ります。
 倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与へ子女の健やかなる発育を遂げる為めに目白文化村の生活は真に有意義のものであります、今回第二期の新拡張を合して文化村は三万五千坪に達しました。
 実地御視察の節は本社に御休憩を願ます、土地住宅に関する事は何に依ず御相談に応じます。
  
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文化村倶楽部.jpg
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関口邸.jpg

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神谷邸・渡辺邸.jpg

 1923年(大正12)の春から初夏にかけ、目白文化村では第一文化村がほぼ完売し、第二文化村の開発に全力を投入していたころだ。第一文化村は、坪10円という超目玉の値付けが好評で売れいきも好調だったが、箱根土地としては全区画を完売しても利幅が少なく、同年の5月から販売がスタートする第二文化村が、この事業の勝負どころだと考えていただろう。第一文化村は大人気につき完売……という状況を醸成したうえで、第二文化村は坪単価を50~70円と一気に吊りあげている。DMによるローラー宣伝、ないしは反復宣伝が功を奏したのか、第二文化村も短期間で売り切ることができた。
 さて、もしDMによるプロモーションが後者だった場合、つまり同一の人物や地域に対して時間差で反復のDMを送っていた場合、「目白文化村」の絵はがきセットの可能性は低いといえそうだ。箱根土地は、プロモーションに必要な時期に必要な数だけ同一の絵はがきを印刷し、顧客あてに発送していた公算が高く、最初から絵はがきセットを制作し、その中から任意の絵柄を選んでDMを発送していた……とは考えにくいからだ。
 ポピュラーな絵はがき「目白文化村」と、神谷邸を撮影した絵はがき「目白文化村の一部」を比較してみると、サイズが微妙に異なっているのがわかる。ポピュラーな「目白文化村」のほうは、「目白文化村の一部」に比べて横に1mmほど長く、また「目白文化村の一部」のほうは縦に1mmほど長い。すなわち、印刷の紙質(表面)はコート系の用紙でほぼ同一だが、はがき大への裁断サイズがやや異なっているのだ。また、絵はがき「目白文化村の一部」が日本美術写真印刷所の制作に対し、絵はがき「目白文化村」には印刷所の記載がない。両者は、異なる印刷所の仕事による制作物とみるのが自然だろう。
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目白文化村空中19450402.jpg

 反射原稿として使われた元写真の質が不明なので、ハッキリしたことはいえないのだが、製版技術や印刷技術の上からみれば、日本美術写真印刷所が手がけた「目白文化村の一部」のほうが、かなり出来がいいように見える。印刷に使われている活字も、前者は一部がつぶれるなどして不鮮明だが、後者はくっきりと鮮明で読みやすいのが明らかだ。

◆写真上:第二文化村の販売時期にあわせ、1923年(大正12)4月に発送されたとみられる絵はがき「目白文化村」。写真は、同年早春に撮影されたとみられる第一文化村。
◆写真中上:絵はがき「目白文化村」裏面の、引用される機会も多いコピー。
◆写真中下上左は、文化村倶楽部で前には見学用の乗合自動車(バス)が停車しているのが見える。バスの車庫は倶楽部前にあった。上右は、女性の設計による関口邸Click!は、左より箱根土地のモデルハウスから神谷邸と三角の大屋根が特徴的な渡辺邸Click!
◆写真下:1945年(昭和20)4月2日、第1次山手空襲Click!の11日前にB29偵察機が爆撃目標規定用に撮影した空中写真Click!の一部に写る目白文化村の第一・第二・第四文化村。先年、米国防総省で発見されたばかりで、落合地域の写真は先の記事Click!を含め当サイトが初公開ではないかと思われる。4月13日の空襲で一部が焼失寸前の、健全な目白文化村の姿をとらえた最後の貴重な写真だ。

「大磯学」と「落合学」・丸10年によせて。

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大磯駅.JPG

 少し前に、「落合道人」サイトの訪問者がのべ900万人を超えました。いつもご覧いただき、ありがとうございます。あと少し、2014年11月で丸10年を迎えるわけですが、なにか総括的なことを書かなければと思いつつ、別に当初の思いClick!が大きく変化しているわけではないので、いつもの落合記事+αでほんの少し書いてみたいと思います。
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 関東大震災Click!の3ヶ月ほど前、1923年(大正12)5月15日(火)に下落合にあった目白中学校Click!の3年・4年・5年生は、修学旅行で大磯を訪れている。学年別に分かれ、さらにひとつのグループが10人前後の“班”に分かれて、いまでいう自由行動をとって大磯各地をめぐっているようだ。訪問先は、千畳敷山(のち湘南平)や鴫立庵Click!別荘街Click!、小淘綾(こゆるぎ)ノ浜の海岸線などで、東京の中学生にはめずらしい風景が多かったらしく、1924年(大正13)4月に発行された校友誌『桂蔭』第10号には、各学年の生徒たちによる修学旅行の感想文がいくつか寄稿されている。
 このときは、いまだ千畳敷山には「湘南平」という呼称はなく、鴫立庵も「でんりゅうあん」と呼ばれることが多かったかもしれない。今日の、「鴫」は鳥の「しぎ」ではなく「死木」、すなわち墓標ないしは塔婆のことで、最初期の庵は海辺ではなく沢のもっと上流域にあり、流れの岸辺には多くの「死木」が建立されていたため「死木立沢」と呼ばれていた……というような、新しい解釈が登場する前のことだ。西行は、大磯の浜辺ではなく丘陵寄りの沢で、「三夕の歌」のひとつを詠んだことになる。この説によれば鴫立庵の位置も、以前に三岸節子アトリエClick!を訪ねた際に通過した谷間あたりということになる。「鴫立沢の秋の夕ぐれ」と「死木立沢の秋の夕ぐれ」とでは、まるっきり歌の情景や情感が変わってきてしまうのだが……。
 では、目白中学生が体験した鴫立庵の情景を、同誌から引用してみよう。
  
 しぎたつ澤と書いた碑のたつたさゝやかな門をくゞると右側に茅葺の家がある。つきあたりには小さな御堂がある。御堂のそばに五六本の松があつて、そこに七つ八つの墓石が並んでゐる。これが鴫立澤のすべてである。/この旅行が大浪小浪うち寄せるこゆるぎの磯の風景を貪らうとしての企てには相違なかつたが「こゝろなき身にもあはれはしられけり鴫立澤の秋の夕ぐれ」と詠んだ西行法師の心を汲まうとしてかなりこの鴫立澤を期待してゐた人も少くなかつた。鴫立澤といふからにはさだめし広い澤があつて、春だから鴫は居ないにしても、蘆かなにかが叢生してゐるに違ひないと思つてゐたところが案外単調なのに少からず失望した。(中略)/庵室は二方に縁側のつつた(ママ)八畳一間である。こゝで絵葉書を買ひスタンプをおした。それからいろいろの宝物を見せて貰ふ。
  
 現在の庵主は、伊達藩の俳諧師・大淀三千風から数えて22代めだそうだが、中学生たちは当時の庵主に文覚が制作した鉈彫りの西行法師像を見せてもらっている。残念ながら、当の鴫立庵の前身となる草庵を、1664年(寛文4)に設立した崇雪(そうせつ)について、生徒たちは詳しく取材していないようだ。
 崇雪が江戸時代の初期に、大磯の土地を「盡湘南清絶地」と詠んだことから、明治以降はおもに相模湾の中央部を、大正期は馬入川(相模川)の西側から小田原あたりまでを、昭和に入ってからは同河川から東側の藤沢あたりまで含めて「湘南地方(海岸)」と呼称するようになった。目白中学生たちが鴫立庵を訪れたころは、相模湾のおもに西側の海岸線一帯を「湘南海岸」と呼んでいたころだ。大磯の照ヶ崎に、日本初の海水浴場が設置され、これまた国内初の「海水茶屋」(現在の「海の家」)がおめみえしてから38年後、中学生たちはおもに鎌倉時代の歴史を学ぶために大磯へやってきている。
 余談だけれど、ここで大磯の丘や斜面から眺めた、三浦半島と伊豆半島が両腕を拡げたように見える光景を、中国の「湘南」に倣い江戸初期の崇雪由来の地域愛称として呼んでいたものが、おそらく大正期あたりから大きく西の海岸線へと“拡張”されている。大正末の東海道線の電化(国府津まで)をにらみ、国府津に別荘地開発を進めていたのが、またしても堤康次郎Click!だ。ここで、下落合における「不動園」Click!(のち目白文化村Click!)開発にともなう「不動谷」Click!の西への“移動”(前谷戸の改称化)と同様に、大磯界隈の地域名だった「湘南」を観光・別荘地開発のキーワードとして、強引に西へと大きく“拡張”していやしないだろうか? 同じ現象は現在でも見られ、不動産広告や店舗名へ馴染みのない「湘南」とつけられ、「ここはそんな地名じゃない!」とお怒りの、古くからの鎌倉・逗子・葉山人たちがたくさんいる。ちなみに、堤邸はいまでも大磯に存在している。
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旧・岩崎別邸.JPG
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大磯教会.JPG

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鴫立沢.JPG
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鴫立庵.JPG

 さて、目白中学生たちが出かけた日は、あいにく雨もよいの日で大山は見えても富士山は見えなかったのか記述には登場していない。雨の中、千畳敷山へと登った中学生たちは、さんざんなめに遭っている。引きつづき、『桂蔭』の感想文から引用してみよう。
  
 「千畳敷いてもお釣が来らあ」と誰かゞ云ふ。居合せた十人許りの黒洋服がどつと笑ひくずれる。小松林をぬけて、「どつこいさ」と爺さんみたやうに土手をはね越えると、いちめんの芝草原が平らかに広がつてゐる。/五月といふのに今日は馬鹿に寒い。大粒の雨が強く草原――とは云へ山頂の平へ偉い勢でふきつける。こんな日に元気なことだ。小学の女生徒が緋袴の傍(ママ)を高くとつて辷(すべ)りながらも小さき足に土踏みしめつゝ頂へ登つて来る。五月の空の憂さを含んだ色が海面をひくゝ流れて美しい荒浪も今日に限つて何となう和かである様に見える。灰色に眼界遠く――然しぼんやりと展開された相模の海がしんめりした梅雨期の鬱々しい雨になやまされて鳴きひたつてゐるのが悲しく思はれてならぬ。真只中にいさり船が二三隻ほのかにゆれる。/広い草つ原だ。細かい芝草が途切れて所々に赤黒い痩土の色が雨にぬれて悲しく見える。そこへ足を踏み入れたが最後、すてんころりと尻餅どころか頭餅までつく、外套を泥だらけにした奴が、世界中の苦虫を一度にかみつぶしたかの様な苦い笑をする。(中略)/小松林をぬけて明るい北向の芝草道を下りると真正面にあの美しい相模大山のゆつたりとした英姿を見る。附近の何物よりも一番俺の眼を喜こばして呉れる相模大山、今更ながら去年の夏がしのばれる。(中略)/登るときに比して、下山する時の辛さ、苦しさ、靴底が平らな所へもつてきておまけに赤土の急な坂道が辷つてあぶなくてたまらない。一寸でも油断しようものならつるつとすべつて、千丈の谷底でもないが、外套から何から泥だらけになつて泣面をしなければならないのだから、危険なこと極りない。思はず足を辷らしてあはて、傍の笹薮の中へ飛び込む。お蔭でヅボンがびしよぬれになつてつめたくてたまらない。山麓のしめり切つた赤土畑に桐の紫がさみしく散る。海岸の里ではあるが山村の峡の様な感じがしてうれしい。段々畑には青麦がのびのびとしてゐる。野に山に新緑の美しい輝きが満ちみちてゐる。
  
 当時の千畳敷山(湘南平)には、休息する茶屋もなければ戦後のようなレストハウスもなく、中学生たちは雨の中を山道で滑って泥だらけになりながら下山している。同山のハイキングコースは、雨が降ると今日でも山道を横切る沢が突然出現する箇所がいくつかあり、また水に濡れると滑りやすい箱根連山や富士山の火山灰地質のため、滑って転ばなかった生徒はひとりもいなかったのではないかと思われる。いまでは、ところどころに土止めが整備され、急斜面には階段状の横木がわたされた山道となっているが、大正当時は自然のままの状態だったろう。当日は風も強かったようなので、目白中学生たちはなかば冒険気分で湘南平へ登ったのではないだろうか。
 また、生徒たちは地元で、千畳敷山には「朝倉義景の館があった」という伝承を採取しているけれど、彼らも不可解に感じているように鎌倉期の“誰か”の館と、室町期の朝倉義景とを混同してしまったものか、あるいは江戸期の他愛ない講談のたぐいの出来の悪い付会なのかは不明だが、大磯と越前の朝倉家との接点はまったく存在しない。
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こゆるぎの浜.JPG

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千畳敷山(湘南平).JPG
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島崎藤村旧居.JPG

 修学旅行の日は、風雨が強くて肌寒かったと思われるのだが、大磯は明治期から海水浴とともに首都圏を代表する別荘地として拓けてきた。夏の避暑や冬の避寒はもちろん、春秋にも美しい風景を楽しめる、他には見られない四季折々を通じての別荘保養地だ。特に千代田城Click!の御殿医で、のち蘭学ではなく西洋医学を初めて学び初代陸軍軍医総監をつとめた松本良順(のち松本順)による海水浴場が設置されたせいで、東京人たちにとってはあこがれの別荘地となった。
 真夏である8月の平均気温が26.2℃、いちばん寒い2月の平均気温が5.4℃(2010年測定値)で、春は花見に秋は紅葉と海や山の風情を1年じゅう楽しめる大磯は、東京人にとっては人気ダントツの別荘地だった。当時は町域の狭さと宅地の稀少性から、鎌倉よりも大磯のほうが地価がかなり高かっただろう。事実、わたしの父方の祖父は大磯に別荘を持ちたがったようだが、土地が高くて手が出ず場所を熱海に変更Click!している。いまでこそ、大磯は東京への通勤圏内となり、別荘地の面影はかなり薄れているけれど、古くからの江戸東京人には憧憬の街であり、他の別荘地とは格ちがいの別天地、それが大磯という街の位置づけだった。たとえば「大磯」と同じ別荘地である「軽井沢」とのスタンスのちがいは、ブームになっている「江戸東京学」に興味をもたれている方には、古くからの花柳界である「柳橋」や「日本橋」と明治以降の新しい「新橋」や「赤坂」の存在に近い関係……といえば、その感触がお分かりいただけるだろうか?
 近年、その大磯地域を自然や地勢、歴史、物語、風俗文化を含め、全的にとらえようとする「大磯学」が起ち上げられているようだ。2013年に創森社から出版された『大磯学―自然、歴史、文化との共生モデル―』には伊藤嘉一、小中陽太郎、坂上寛一、高津茂など多彩な分野の方々が執筆している。同書の「はしがき」から引用してみよう。
  
 JR東海道線大磯駅の北側は丘陵末端部が間近に迫っており、現在は駅北側の出入り口がなく、南側に改札口があるだけである。駅前ターミナル広場の周辺には高層ビルがなく、銀行もパチンコ屋も見当たらない。首都圏の駅前としては珍しいことである。/広場の隅には旧サンダース・ホーム(澤田美喜記念館Click!)があり、いわゆる洋食屋があるかと思えば、瀟洒な料理屋がある。機能的な広場ではなく、アットホームな雰囲気がある。市営バスがなにか不釣り合いな気までしてくる。/町は相模湾に面し、東西に細長い。大磯丘陵の南の低平地に主要な生活の場がある。JR東海道線と国道1号線(東海道)がこの低平地部分を並行して走っている。大磯町の商店街は東海道沿いであるが、その街並みも華美さは一切ない。/なぜこのような落ち着いた街並みを維持できたのか。町の歴史を繙くと、歴史に裏打ちされた伝統の町であることが了解できる。このような町の努力とその成果としての町の良好な雰囲気は、湘南の一隅として他に代えがたい価値がある。
  
 文中の「市営バス」は、神奈中バス(神奈川中央交通)で「私営バス」の誤りだし(それに大磯は市制ではなく町制だ)、「湘南の一隅」ではなく同書でも高津茂が書いているとおり、大磯はその名が発祥した「湘南」の中核地点なのだが、地質時代から現代までの一貫した各時代ごとの物語を紡げるのは、ここ新宿の落合の街とまったく同様の条件であり環境なのだ。そして、目白中学生たちが見た大磯の光景、あるいは佐伯祐三Click!が家族を連れて1927年(昭和2)の夏に訪れた大磯Click!の光景とは(尾張町Click!=銀座に生まれ育った地付きでプライドの高い米子夫人Click!が、避暑地にことさら大磯を希望したのではないかと推定している)、見ちがえるほど大きく様変わりをしてしまった……とは思えない風情を残している街でもある。
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照ヶ崎.JPG
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西小磯化石.JPG

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旧木下別荘.JPG
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大磯学2013.jpg

 さて、今年の11月で「落合道人」サイトは丸10年を迎える。東京でもっとも繁華な街=新宿区の片隅に、まるで忘れ去られたように武蔵野の森や湧水源が残り、いまだ野性のタヌキClick!が棲息する落合地域だが、どこか首都圏ではもっとも繁華な東海道線(東海道)の中で、独特な存在感を失わない大磯駅(宿)の街に通じるものを感じる。上掲の「はしがき」にある「大磯」を「落合」に読みかえてみても、ある側面では不自然さを感じない。ともに明治以降は、「海浜別荘地」または「郊外別荘地」として拓けた土地柄だ。わたしにとっては“マグネットポイント”である大磯と落合なのだが、「大磯学」に倣い「落合学」のようなものが成立するとすれば、さまざまな分野の多角的で斬新な視界が開けてくるのではないかと想像している。
 このサイトの記事を読むと、いつもの街角がきのうとは少しちがって見える、そんなコンテンツづくりをめざしたい。それが、街をよく識ることであり、地域に愛着を抱くきっかけになると思うからだ。このサイトが、いつか生まれるかもしれない「落合学」のささやかな基層のひとつになれば、うれしい限りなのだが……。

◆写真上:わたしが子どものころから変わらない、東海道線の大磯駅舎。
◆写真中上上左は、駅前にある岩崎別邸の丘。上右は、日本キリスト教団の大磯教会。は、東海道(国道1号線)沿いの鴫立沢()と鴫立庵()。
◆写真中下は、小淘綾ノ浜から望む箱根連山。下左は、東小磯から眺めた千畳敷山(湘南平)。下右は、東小磯の線路近くにある旧・島崎藤村邸。
◆写真下上左は、照ヶ崎の岩礁。上右は、西小磯の海岸に露出した「大磯層」の岩礁から採れる貝化石。きに、魚の化石やサメの歯の化石が見つかることもあり、付近の小学生にはうれしい自由研究ポイントだ。下左は、わたしが子どものころからクルクルと用途や店が変わる旧・木下別荘。下右は、2013年に出版された『大磯学』(創森社)。

落合の妙見山を登攀する。

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妙見山1.JPG

 1979年(昭和54)7月1日、西落合(旧・葛ヶ谷Click!)に住んでいた瀧口修造が死去したとき、大岡信は同年の『現代詩手帖』8月号に「タキグチさん。/宇宙青ですか、/そこは。」ではじまる、追悼詩『西落合迷宮―瀧口修造氏に―』を寄稿した。その一部を、同誌から引用してみよう。
  
 西落合。
 書斎は迷宮。
 ですね。
 隣りの部屋から、
 おくさんが、
 お茶をはるばる
 運んで渡つていきました。
 ぼくはそれを、
 目白通りで、見てゐます。

  
 瀧口修造の死後、瀧口の存在を慕う人たちの“西落合参り”は、いまもつづいている。きょうの記事は、その“西落合参り”ではなく大岡信が追悼詩を詠む700~800年ほど前、まだ一帯は鎌倉街道が整備されたばかりで、おそらく葛ヶ谷(当初は「くずがや」ではなく「かつらがたに」とも)と名づけられたばかりのころの、“葛ヶ谷参り”について書いてみたい。以前にも記事Click!で触れているけれど、北斗七星(または北極星)あるいは妙見神(または妙見菩薩)への信仰にともなう、葛ヶ谷に設置された妙見山の探訪だ。
 日本の北斗七星信仰は、別に外来宗教である仏教が朝鮮半島からもたらされるはるか以前、縄文時代から存在している「日本」の始源的な信仰のひとつだ。それが妙見神信仰Click!と広く結びついたのは、おそらく平安期末から鎌倉期にかけてだと思われる。同時期からの伝承と思われる「葛ヶ谷の起りと鎮守の事」が収録された、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)から、当該箇所を引用してみよう。
  
 尚古へから鎮守境内に牛頭天王と村内の谷戸といふ地に妙見山といふことに就いて伝説があります。牛頭天王には或る書にこの神は具には和魂の神、牛頭大神と申しまして、往古より悉く大地を宰り、人々の貧富病快を任じて諸の疫病神の主であると申されてゐます。この神を信ずるものは疫病を除き、禍を転じて福をお授け下さる神様として信仰されてゐます。又妙見山は妙見菩薩即ち「北斗七星又一説にはこの北斗の一星とありますが、又或書には妙見の功徳を説いて七星とし、総じて北極星をいふとあります」 この菩薩を祀りし地といひ伝へられます。
  
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 この中で、御霊社がらみで語られる妙見神への信仰が「妙見菩薩」とされているのは、記録者が自性院=仏教者であるゆえんだろう。「鎮守境内」とあるのは西落合の葛ヶ谷御霊社の境内のことであり、北斗七星(妙見神)信仰とともに「牛頭天王」の伝承がセットになって存在しているのが、なによりも興味深い。「牛頭天王」は、出雲神であるスサノオの別称であり、ちょうど「大黒」が出雲神であるオオクニヌシの別名ととらえられるのと同じような位置づけだ。
 つまり、平安末か鎌倉期にかけ葛ヶ谷(西落合)界隈では、妙見信仰と出雲神がどこかで連携して意識されており、明治期に下落合へ転居を考えていた将門相馬家Click!(1913年に転居)が、おそらく妙見神と神田明神Click!のオオクニヌシや氷川明神のスサノオ・クシナダヒメなど、出雲神との結びつきClick!(結界)を強く意識していたらしい気配と同様、非常に類似した信仰心(換言すれば世界観)を、700~800年前の葛ヶ谷でかいま見ることができるのだ。
 さて、ここに記述された「妙見山」とはどこにあるのだろうか? 葛ヶ谷(西落合)地域で「谷戸」と表現される谷間は、以前に落合分水Click!(千川上水の分水)でご紹介した谷間しか存在しない。その谷戸に沿った丘陵で、明らかに頂上のある“山”状の場所は、これもたった1ヶ所しか存在していない。まさに、『自性院縁起と葵陰夜話』の巻末に添えられた、おおざっぱな絵図に記載されているあたり、耕地整理が行われる前の明治期に作成された地籍図の地番でいうところの落合村(大字)葛ヶ谷(字)北耕地202番地界隈、耕地整理後は旧・西落合1丁目176番地あたり、すなわち現在の西落合3丁目7・9・10・11番地に囲まれた交差点あたりが、妙見山のピークだと思われる。この交差点から、東南北いずれの道路を向いても急な下り坂であり、西側はゆるやかな傾斜だがほぼ平坦で、このような山らしい形状は葛ヶ谷の谷戸地域ではここにしか存在していない。
 旧・西落合1丁目149番地の瀧口修造邸や、同1丁目338番地にあった東京国立近代美術館の初代館長であり美術史家の富永惣一邸にもほど近い。松下春雄アトリエClick!または鬼頭鍋三郎アトリエClick!から、南南東に400mほど下がった位置にあたる。
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妙見山4.jpg
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妙見山地籍図1880頃.jpg

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西落合耕地整理.jpg

 おそらく、大正末あたりからスタートした耕地整理の前は、街道筋あるいは付近の村々から眺めれば、明らかに左右へ裾野を拡げる山嶺、ないしはところどころに集落のある△状の段々畑のように見えていただろう。鎌倉期から時代が下って、室町後期あるいは江戸期に入るころからだろうか、妙見信仰の事蹟は妙見山の存在とともにすっかり忘れ去られ、妙見山の山麓も次々と田畑へ開墾されて、由来の古い葛ヶ谷御霊社あるいは自性院に残る伝説としてのみしか、語られなくなってしまったのだ。
 もうひとつ、葛ヶ谷にあった妙見山の位置関係がとても面白い。周囲を、出雲神の氷川明神社に囲まれているのだ。しかも、妙見山に近い位置の氷川社4社は、主柱がスサノオである点にも留意したい。すなわち、妙見山の真南には上高田氷川社Click!(スサノオ)、南西には沼袋氷川社Click!(スサノオ)、北西には江古田氷川社(スサノオ)と豊玉氷川社(スサノオ)、さらに南東にはやや離れて下落合氷川社Click!(クシナダヒメ)と高田氷川社Click!(スサノオ)、北東にもやや離れて長崎氷川社Click!(現・長崎神社:クシナダヒメ)と、出雲神だらけのほぼ中心点に妙見山が位置していたことになる。そして、周囲の氷川社はスサノオ5社とクシナダヒメ2社とで、偶然にも計7社を数える。
 さて、いまから700~800年ほど前の人々は、牛頭天王や妙見神(習合して妙見菩薩)への信心から、その信仰を深めるために葛ヶ谷に展開していた社や寺、ときには妙見山へも参詣したのだろう。その時代の妙見山は、はたして北斗七星(または北極星)からの“気”が降りそそぐ聖なる山(ご神体)として立入禁止だったものか、あるいは今日のパワースポットのように山頂へ上って瞑想する、一種の修験・修行の場であったものだろうか。
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 昭和初期に耕地整理が完了し、住宅街として開発された西落合の街並みからは、星降る神聖な妙見山の姿を想像するのは、もはや困難だ。それとも、星空がきれいに見える「宇宙青」の宵、この交差点から北斗七星や北極星を眺めていると、なにか特別いいことでも起きるのだろうか。それとも、東南北いずれの道路からも坂上のピークにあたる交差点なので、勢いをつけて上ってきたクルマにはねられ、目から星でも出るのだろうか。

◆写真上:葛ヶ谷の妙見山へと上る、新青梅街道側からの絶壁のある登山口。w
◆写真中上上左は、落合分水が流れていた谷戸の現状。上右は、妙見山の東側からの登山口で山裾の商店街や地下鉄に出られるせいかもっとも登山者が多い。w は、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された周辺伝説マップ。
◆写真中下上左は、妙見山の東側斜面から谷戸方向の谷間を眺めたところ。登攀にはいちばん苦しいあたりだが、やたら軽装な高齢者の登山者が多い。w 上右は、1880年(明治13)ごろに作成された妙見山あたりの地籍図。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる妙見山。は、耕地整理後の旧・西落合1丁目あたりの様子。
◆写真下は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる妙見山とその周辺。は、山頂からの四方の眺望で東南北が急激に落ちこんだ坂道になっている。は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる妙見山の地域的な位置関係。はスサノオ、はクシナダヒメが主柱の氷川社。


『住宅』1935年2月号にみる三岸アトリエ。

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三岸アトリエ1.JPG

 先日、上鷺宮の三岸アトリエClick!で「まちかどの近代建築写真展 in 三岸アトリエ」が開かれたので、さっそく美術関連の友人を誘って出かけてみた。早めに着きすぎてしまい、スタッフのみなさんはいまだ準備中だったので、妨げにならないように拝見する。今回のテーマは、全国各地に残る学校建築だった。小道さんClick!が、せっせと準備をされているので邪魔をしないように気をつけて、あまり長居をしないようにした。
 今回の展覧会には、中野区の田中区長が「可能ならうかがう」との返事だったようなのだが、時間の都合がつかなかったものだろうか、残念ながらみえなかったらしい。新宿区の中山区長Click!や、お隣り豊島区の高野区長Click!のように、区内の歴史的建造物や文化財の保護・保存には敏感で積極的な姿勢を見せてほしいものだが、中野区は両区とはまた事情が大きく異なるのだろうか? ぜひ、行政の責任者には、文化庁の登録有形文化財である三岸アトリエを実際に見てほしいものだ。そして、これからの街づくりには不可欠なテーマである、人が集まる街、人が住みたくなる街をめざして、歴史的な資源や文化財のインフラ整備を推進・充実してほしい。
 さて、小道さんは三岸アトリエの手作り“アンパン”と交換で、三岸アトリエが掲載された『住宅』Click!を同アトリエに寄贈されたらしい。ww 住宅改良会Click!が発行する『住宅』は、下落合に建てられた西洋館を中心に、こちらでも繰り返し取り上げてきているが、三岸アトリエが載る貴重な号は1935年(昭和10)発行の『住宅』2月号(特集:食事室の研究)だ。三岸アトリエの外・内観はもちろん、山脇巌が組み立てたアトリエ模型や、1階・2階の平面図、三岸好太郎自身による設計段階におけるアトリエのイメージ図、そしてアトリエ各所のカラーリングや素材など、同アトリエが竣工した当初の姿を詳細に伝える貴重な内容となっている。この資料さえあれば、初期型の三岸アトリエを再現するのは、それほど困難ではないだろう。
 東側から見た外観写真に、「軸部は木骨、外観は木骨ラス張り、モルタル下地に白色ネールクリート吹付け、金属部分はホワイトブロンズ、又はアルミナペイント仕上げ。玄関入口は暗赤色ペイント塗り。」というキャプションが添えられており、いままでモノクロ写真の濃淡調でしか知りえなかったったアトリエの色彩を、具体的に想像することができる。三岸好太郎の死後、1934年(昭和9)10月末に竣工したアトリエだが、『住宅』の取材記者(桑澤千代)は節子夫人Click!の言葉もまじえ、アトリエのデザインや“趣味”を次のように記述している。同誌から引用してみよう。
  
 故三岸好太郎氏の最近の作品は、殊にかうした造形的なロマンスに満ちたものであつて、独立美術誕生の頃の作品と較べて色々な事をおしへられる。当時の代表作と見られるピエロと、此頃の貝殻や蝶の姿をかりてカンバスにあらはれた、立体的な夢幻的なフオルムと色への接近をくらべて見ると面白い。/三岸夫人の言葉をかりると、『ジヤンネレ(コルビユジエー)やオザンフアンの影響をうれた』さうだが、さうでなくとも氏の日常あらはれた服飾や、立体的なものへの恐ろしいまでの執着を見れば、此頃の傾向がよくわかる。氏が色の濃いネクタイを神経質に取変へていつた気持、アルコールづけの美しい心臓や、軍艦の模型を愛好しはじめた気持も亦わかる様だ。それはパウルシエールバートが詩によんだ様な、光と(硝子と)色との建築ではなかつたらうか。/バウハウスから帰朝されて、はつきりした建築の仕事を始められたばかりの山脇巌氏が、かうした友人と久しぶりでめぐり合つて、『絵と建築の間を真直にどこまでも続いてゆく』話の中から、色々な共鳴をお互の仕事のうちに見出した事は事実だつたらうと思ふ。
  
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 文中のカナ文字は「ジヤンネレ」=ピェレ・ジャンネレ、「コルビュジェー」=ル・コルビュジエ、「オザンフアン」=アメデエ・オザンファン、「パウルシエールバート」=パウル・シェールバートのことだが、三岸好太郎が当時の先端を走る“建築デザイン”へ、並々ならぬ関心を抱いていたことがうかがわれる。換言すれば、「蝶と貝殻」からもう“次のこと”を考えていた……といえるかもしれない。
 また、掲載されている取材者が作成したとみられるスケッチメモは、山脇巌や三岸節子への聞き取り調査を通じての情報をもとに起こしているらしく、最初期に想定されていた調度品の用途やカラーリングなど、三岸好太郎の“こだわり”が随所に感じられて面白い。やはり螺旋階段は、アトリエ内にあえてバルコニーを設置しない代わりに、大きなサイズのキャンバスを上から見下ろすためと、同時に中二階の書庫兼書斎へ上がるための兼用として設置されたようだ。でも、三岸好太郎の作品には、300号キャンバスを超えるような、制作過程で上から見下ろさなければならない作品は存在せず、将来的な仕事を夢想しての設置だったのかもしれない。
 さらに、北面の様子がよくわかる写真も掲載されている。現在は、北側からアトリエ2階の書庫兼書斎の部屋やアトリエ西北隅にある天袋のような物置きへと上がる、新しい時代の階段が設置されているが、当初はアトリエの壁面に埋めこまれた鉄製のハシゴ段を壁づたいに垂直に登って、高い位置にある物置きへと登り降りしていたことがわかる。これでは、足の悪い節子夫人が利用しづらく、アトリエの竣工からそれほど間をおかずに、北側の階段部屋が増築されているのではないかと思われる。
 節子夫人が、南側に大きく口を開けた、射光の角度が刻々と移り変わる巨大な窓からできるだけ遠ざかり、この物置の下あたりで仕事をしていた理由もよくわかる。物置やトイレの横には、天井へ少し切れこんだ北側の採光窓が穿たれていたからであり、このアトリエ内では唯一、安定した光線を得られるスペースでもあったからだろう。三岸好太郎は、北側からの安定した光を必要とする、モチーフを観たまま写生するような仕事は、これからは減りこそすれ増えはしないだろう……と考えていたものだろうか。事実、晩年には夜間に仕事をすることが多くなっていたようだ。
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 山脇巌が記憶していた、三岸好太郎の言葉も取材者は採取している。
  
 『決定までに三回程図面をひきなほした。』 そして、『三岸さんが旅行から帰ると、その度に三岸さんらしい新しい夢を持つて帰つた。』と山脇氏も云つてゐる。/三岸氏の夢を文字にして見よう。『北は一面の壁で、三方全部を開け放つた硝子建築』 『黒と白ばかりの部屋、そして色々な絵をかける壁のある―色のある絵によつて、尚引立つてくる色のある部屋(色と明暗に対する鋭い感覚は、氏の最近の作品がはつきり物語つてゐる。細かいペンを用ひたデツサンやガツシユにあらはれた黒と白のつかひわけ、或ひは紫、赤の特殊な色のつかひわけ等。)――画室の壁はグレイがいゝ、今迄の画室は白の系統が多いが、灰色の中で素晴しい製作がして見たい』 『画室には、くるくると天井にまで延びてゆくスパイラル(渦巻)の銀色の階段――こゝから絵を見下すのも面白い。』 『冬は東南の暖かい陽を浴びて、光の中で夢の様な暖かい製作をする』 『アトリエの前にはキラキラと陽に光る池を、水蓮の花がぽつかりと咲いた池を、そして水面で曲折した陽の光が、白いアトリエの天井でくねくねと躍つてゐる』………
  
 アトリエに付属した応接室が、独立した部屋でないのも面白い。以前、下落合の遠藤新Click!が設計した小林邸Click!でもご紹介したが、昭和期に入ると住宅の中で居間や食堂、応接室といった個々に独立した部屋が少なくなり、応接室や食堂を居間つづきのスペースにし、間を簡便な引き戸やカーテンで仕切る建築例が増えてくる。これは、邸内でいちばん快適な南向きの部屋を来客用の応接室にあてるという、従来の設計思想を否定する流れとともに、各部屋を用途によって拡げたり仕切ったりという、フレキシブルな間取りが可能な新しい考え方によるものだ。居間に大勢の人々が集まるときは、食堂との間仕切りを開放して広いスペースを確保する……というような、新しいライフスタイルの必要性もあっただろう。三岸アトリエでは、画室と応接室の間を簡易な引き戸にし、必要なときはできるだけ広い仕事場を確保できるように設計されている。
 三岸アトリエは、カラーリングがしぶく全体的にシンプルな設計なのだが、いわゆる使いやすくて機能的という方向性のアトリエとは、かなり異なる印象を抱く。機能的であるなら、物置きを天井近くに設置して鉄梯子で登ったり(大きな荷物は運びにくい)、2階への階段をわざわざ螺旋にしたり、あるいはそもそも職業がら南側に大窓など設置しないほうが、よほど機能的で効率的だと思われるからだ。三岸アトリエは、三岸好太郎の趣味や美意識、デザイン性をふんだんに反映した、キャンバスの平面ではなく初の“立体作品”としてとらえたほうが、むしろ適切なのかもしれない。おそらく、三岸は壁面を飾る自身の作品Click!(大画面?)をさえ、すでに構想していたのではないだろうか。
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 ちょうど三岸アトリエと同時期に、下落合1丁目404番地の近衛町にある旧・岡田虎二郎Click!邸跡地には、山口蚊象の設計による安井曾太郎アトリエClick!が竣工している。安井曾太郎Click!は、それまで下落合に建てられたあまたのアトリエとは異なり、装飾や見栄えのよさを排除し、徹底した機能性を備えた“仕事場”としてのアトリエを追求している。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:2階の書庫兼書斎へと上がる、螺旋階段を真下から。
◆写真中上上左は、「まちかどの近代建築写真展 in 三岸アトリエ」入口。上右は、スタッフが準備中だった写真展会場。は、竣工直後に撮影された三岸アトリエの南東側からの外観。は、同じく西側からの外観で、いまだヒマラヤスギは植えられていない。
◆写真中下は、三岸アトリエの平面図。は、山脇巌による建築模型。は、三岸好太郎のイメージスケッチ。いずれも、1935年(昭和10)発行の『住宅』2月号より。
◆写真下は、北側に設置された当初の採光窓()と北窓の現状()。中左は、初期のテラスと「児島のおじちゃんClick!が落っこった」水蓮池。w 中右は、『住宅』1935年(昭和10)2月号の表紙。は、同誌が制作した初期のアトリエ内のイラスト。

豊島区が記録したプロレタリア美術学校。

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 長崎町大和田1983番地(のち豊島区長崎南町3丁目)にあったプロレタリア美術研究所Click!(旧・造形美術研究所)では、どのような美術に関連する講義が開講されていたのか、あるいは講師陣には八島太郎(岩松淳)Click!のほか、どのような人々が教えていたのかが気になっていた。さっそく、豊島区にお住まいの地域史に詳しい方からご教示いただいたので、改めて詳細をご紹介したい。
 造形美術研究所Click!が、初めて美術講座を開いたのは長崎町へ引っ越してきた1929年(昭和4)6月15日の直後、同年8月に第1回の受講希望者を募集している。翌1930年(昭和5)にプロレタリア美術研究所Click!に改称し、さらに特高Click!憲兵隊Click!の弾圧が激しくなった1932年(昭和7)には、東京プロレタリア美術学校と改めて学校名に変更している。この間、プロレタリア美術の画家やマンガ家を育てる講義は、ずっとつづけられていた。
 さて、プロレタリア美術研究所の詳細で生々しい資料が掲載されていたのは、プロレタリア美術史に関連した書籍ではなく、また当時の左翼関連の史的資料でもなく、すぐにも参照することが可能だった『豊島区史』なのだ。しかも、元資料をもとに同美術研究所のことを解説的に記述しているのではなく、『豊島区史・資料編四』へ当時の警察が押収した資料そのもの、つまり特高警察の「禁止新聞・パンフレット・ビラ類」資料のマイクロフィルムからの写しを、そのまま掲載してくれている。
 1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』は、何分冊にもわたる膨大なボリュームの労作なのだが、街で起きた歴史や事件、住民たちの細かな出来事や生活までを、できるだけすくい取って網羅しようとした、都内の自治体が編纂した区史の中でも優れた屈指の仕事だ。かんじんの区民の姿がよく見えない、あるいは行政の事業ばかりを強調する他の自治体の区史に比べると、学術的な側面からも抜きん出た存在のように思える。
 『豊島区史・資料編四』に収録された特高資料から、1933年(昭和8)7月に東京プロレタリア美術学校で開催された夏期講習の学生募集ビラより、冒頭の部分を引用してみよう。
  
 プロレタリア美術夏季講習会に際して
 美術を愛好する労働者並に進歩的美術家諸君!/我がプロレタリア美術学校は来る七月十五日より、プロレタリア美術夏季講習会を行ふことに決定した。/諸君も知っている如く資本主義諸国に於ては、その政治的、経済的危機と共に、美術も又袋小路にはいった。反動支配は美術家大衆の憤激と反抗にもかゝはらず、美術家の創作展覧の自由を奪ひ、生活の根底を根こそぎにし、美術家大衆を隷属し貧困にさらす事によって、びっこをひき尻尾をひきずりながらも、一握りのブルヂォアヂーの特権地位を守るために、死にもの狂ひになっている。/ナチスの文化破壊政策は美術界に於ても、ゲオルグ・グロッスやケーテ・コルウィッツ並に自由主義的美術家をも、その弾圧のやり玉に揚(ママ)げている。
  
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 まさに、日本がすべての自由な言論を圧殺し、軍国主義への道、そしてやがては国家の破滅という未曽有の「亡国」状況へと歩を進めている様子が記録されている。当時の東京プロレタリア美術学校(前年まではプロレタリア美術研究所)の授業料は、夏期講習に限っていえばわずか2円だったことがわかる。これは、月に10~15円も出せばこぎれいな6畳間の下宿が借りられた、当時の物価を考えてもかなり安い受講料であり、貧しい庶民にもなんとか賄えそうな金額だったのだろう。
 そして、この「プロレタリア美術夏季講習会参加よびかけ」ビラには、各学科の講師陣が紹介されている。その中には、「ポスターと漫画に就いて」という講義名で、八島太郎(岩松淳)講師の名前も掲載されている。以下、講師陣を一覧表にまとめてみた。
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 また、夏に集中して実施した期間限定の講習会とは別に、東京プロレタリア美術学校が通常の新学期の学生を募集するパンフレットも、1933年(昭和8)7月に制作されている。通常の学期講義は毎日夜間に行われ、おそらく講師陣もほぼ同様の人たちだったのだろう。毎日の講義なので、授業料は夏期講習に比べてわずかに高く、月謝は3円だった。
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 以下、『豊島区史・資料編四』に収録された特高の押収資料、「東京プロレタリア美術学校、新学期開始に際して青年美術家への訴へ」パンフレットから引用してみよう。
  
 プロレタリア美術学校新学期開始に際し青年美術家諸君に訴ふ
 親愛なる青年美術家諸君!/諸君が身を以って経験して居る通り、未曽有の深刻な経済恐慌が今日本を襲って居る。そして恐慌からの出口を戦争に求めて居る資本家・地主と軍事的警察的絶対主義政府の野蕃(ママ)極まりない弾圧にもかゝはらず、革命的出口を求めて果敢に闘争して居る労働者・農民との階級闘争が先鋭化し、労働者・農民の革命的昂揚の波が到る所に高まって居る。
  ▲
 1933年(昭和8)の当時、こんなパンフレットを作って街中でまいたら、特高から即座に検束されただろう。このパンフも、東京プロレタリア美術学校の家宅捜査で押収されたか、あるいはパンフを所持している講師か学生を検束して押収したものなのだろう。このあと、東京プロレタリア美術学校は憲兵隊に包囲され、物理的に校舎ごと破壊されるのだが、ギリギリまで政府に抵抗して講義をつづけていた様子がうかがえる。その徹底した破壊ぶりは、まるで今日の中国における「自由美術」の研究機関への弾圧のようなありさまだ。
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 夏期講習や通常の学期講義の授業料を考えると、講師たちはその給料で借家の家賃さえ払えたとはとても思えない。戸塚町上戸塚593番地の窪川稲子(佐多稲子Click!)宅のごく近く、早稲田通り沿いの借家に家族とともに住んでいた八島太郎(岩松淳)Click!は、毎日、下落合を通り抜けプロレタリア美術研究所(のち東京プロレタリア美術学校)へ講師として通いながら、別のアルバイト的な仕事をこなさなければならなかったろう。そのあい間、毎年開かれるプロレタリア美術展へ出品するために、ヒマを見つけては佐多稲子が目撃したようなタブローを仕上げていたと思われる。

◆写真上:長崎町大和田1983番地にあった、東京プロレタリア美術学校跡の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和5)ごろに制作されたプロレタリア美術研究所の研究生募集ポスター。は、プロレタリア美術展の岩松淳こと八島太郎(2列め左端)。
◆写真中下は、東京美術学校時代の岩松淳こと八島太郎(右)。は、1930年(昭和5)に同じ洋画家・新井光子と結婚式を挙げた際の記念写真。
◆写真下は、新井光子と岩松信(マコ岩松Click!)。は、渡米直前の岩松夫妻。

『長崎町誌』に感じてしまう違和感。

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 落合地域とその周辺、戸塚町(現・高田馬場/早稲田界隈)や高田町(現・目白/雑司ヶ谷界隈)では、35区制の大東京時代Click!を迎える直前、各地で町誌(町史:それ以前には村誌)が制作されている。これまで、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の古い『高田村誌』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、そして中野区の上高田Click!側の資料類をご紹介してきた。目白通りをはさんで隣接し、落合地域との関係が深い地域として残るのは、1929年(昭和4)に出版された長崎地域の町誌のみとなっていた。
 『長崎町誌』は、もともと発行部数が少なかったものか古書店ではほとんど見かけない。『戸塚町誌』も稀少本のようであまり見かけず、またとても高価で手がとどかなかったのだが、先年、一時期の半値以下になっていたので入手することができた。でも『長崎町誌』は、そもそも古書市場には存在しないほど数が少ないようだ。そこで、同書が保存されている新宿歴史博物館Click!の資料室へ出かけ、同書の全ページをコピーさせていただくことにした。
 同館の『長崎町誌』は保存状態もよく、手持ちの『落合町誌』と比べても傷みが少ない。それで安心してコピーさせていただいたのだが、中身を読みはじめたとたんに大きな違和感を感じた。このような町誌の場合、巻頭のグラビア写真は街の名所や旧跡、古地図、古文書、昔の風景図、ときに街に住んだ史的“有名人”たちの肖像などではじまるのが常で、『落合町誌』や『高田村誌』、『高田町史』、『戸塚町誌』のいずれもが、そのような構成になっている。
 ところが、『長崎町誌』は荒木十畝の軸画のあと長崎町役場の写真と、いきなり当時の町長の大きな肖像写真からはじまっている。イヤな予感がしつつページをめくっていくと、町役場の役員、町会議員、郵便局長、小学校長、国粋会代表、はては「本町名士」の日本橋区議会議員と霊岸小学校長(まったくの場ちがいだ)と、ひとりで1ページ見開き、あるいは数人で1ページ見開きを占有し、“肖像写真大会”が繰り広げられていく。そして、おまけに著者・壚田忠敬のポートレートまでが、ちゃっかり巻頭のグラビアを大きくかざっているのだ。
 かんじんの、昭和初期の街の様子や風情、名所・旧跡・記念物を撮影した当時の写真が、巻頭グラビアにただの1枚も存在しない。すべて長崎町の役人や議員、“顔役”、職員、先生、よその地域の「名士」たちの広報宣伝パンフレットと化していて、周辺の落合や高田、戸塚、上高田(野方)各地域の町誌史や資料を読んできたわたしには、異様な感じをおぼえると同時に、心底ガッカリしてしまった。
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 イヤな予感はそのあとも的中し、「長崎町名士録」ではグラビアをかざった人物たちが重複して登場し、再び顔面を拡大した写真入りで美辞麗句とともに、ひとりひとりの詳細が紹介されている。おまけに、巻末には「長崎町職員録」までが掲載され長崎町役場の全職員が15ページにわたって収録されていた。これでは『長崎町誌』ではなく、「長崎町全役職員・議員・顔役名簿」とでもしたほうが適切ではないだろうか。こういう町誌の“私物化”を、なんと表現したらいいのだろう? 「出たがり自己顕示欲充足私誌」、あるいは「町誌」と銘打っているにもかかわらず、街をあまり紹介しない「役人&議員&地域ボス記録誌」とでもいうべきなのだろうか?
 さて、お寒い中身を読んでいくと、長崎地域の一般的な歴史から記述されるのは、周辺の他の町誌史と同じなのだが、名所・旧跡・記念物が長崎神社Click!金剛院Click!長崎富士Click!のたったの3ヶ所しか収録されていないのはどういうことだろう? あまたの寺社や旧跡は、どこへ消えてしまったのだろうか? このような町誌史が貴重なのは、当時まで受け継がれた街の多彩な伝説・伝承、フォークロアなどの物語、あるいは消えてしまった旧跡や地名が詳細に収録されている点なのだが、『長崎町誌』は他の町誌史に比べそのボリュームも相対的に少ない。
 おそらく、長崎町の役人や議員、「名士」たちの紹介にページをあまた費やしすぎて、かんじんの街の様子を細かく収録するのに必要なページ数が、まったく足りなくなってしまったのではないだろうか。
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 また、長崎地域で暮らしていた一般的な町民の姿や企業などの事業者も、「名士」紹介に隠れてあまり目立たずに影が薄く、当時の街の風情や暮らしの実態がなかなか透けて見えてこない。目立って詠われているのは、「名士」たちの功労と町役場、町議会、その他“顔役”たちの「業績」であって、あまり人々の生活が見えてこないのだ。あえて書いてしまうが、『長崎町誌』はその周辺域の町誌史の中で、もっとも街や住民に関する記述が貧弱だ。これでは、江戸期の「町方(村方)書上」Click!のほうが、地域の暮らしや住民の様子をもう少し詳しく収録している。
 本文に収録された街の写真も「椎名町通り」、「長崎神社」、「金剛院」、「椎名町郵便局」、「尋常高等小学校」、「第二尋常小学校」、「長崎青年団」のたった7点にすぎない。巻末の「長崎町名士録」に掲載された「安達牧場」Click!の事業所写真を加えても、わずか8点だ。これは、周辺の町誌史に掲載されている街風景の写真点数に比べると、3分の1から5分の1という少なさだ。どうして、こんな編集や構成になってしまったものか、たいへん残念な内容になっている。
 1929年(昭和4)の『長崎町誌』は、周辺域で発行された町誌史に比べて、もっとも早い時期に出版されている。(ただし『高田村誌』を除く) したがって、「町誌」というものが街の全体像を紹介する「地誌本」ないしは「風土記」的な存在である……というような定義がいまだ明確化しておらず、単なる町役場や町議会、「名士」たちが寄ってたかって自己PR+選挙等を意識した宣伝パンフレットを作ればいいのだ……と誤解して、制作されたのではないかとも考えた。しかし、当時は東京の市街地でも町誌史はあまた作られており、それらの中には『戸塚町誌』や『高田町史(村誌)』、『落合町誌』と同様の編集方針のもと、できるだけ街の全貌や町民の暮らしを紹介しようとする意図の作品も多くみられる。だから、よけいに『長崎町誌』の編集方針や構成が異様で奇異に見えるのだ。
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 『長崎町誌』が、他の町誌史に比べ古書店で見かける機会が少ないのが、なんとなくわかったような気がした。つまり今日まで保存され、ていねいに読み継がれるほど内容が「濃く」ないのだ。ひょっとすると「まるっきし役人や顔役の宣伝誌じゃねえか」と、長崎の地元でも手にする人たちが少なかったのではないだろうか? 戦前戦後を通じた長い時間経過の中で、内容の質的な課題とともに、周辺の町誌史に比べ“自然淘汰”されていってしまった可能性があるようにも感じるのだ。

◆写真上:『長崎町誌』の表紙と、目次前の「長崎町歌」。町歌が記された町誌史も初めてだが、町歌や短歌にページを裂くなら街の様子をもっと記録してほしいのだ。
◆写真中上は、掲載された希少な街の写真「椎名町通り」。1929年(昭和4)現在、椎名町通りには交番が1ヶ所(大正期は2ヶ所)に絞られるので、この情景は左手の大和田駐在所(長崎町大和田2037番地)前から椎名町駅方面を眺めた風景だと思われる。下左は、『長崎町誌』と同年に開局した椎名町郵便局。下右は、富士浅間社の通称「長崎富士」。
◆写真中下は、本文では唯一掲載の事業所「安達牧場」。は、安達牧場跡の現状。
◆写真下:長崎町西向2883番地にあった長崎町役場()と、同町役場跡の現状()。長崎町役場の背後に見えている大きな建物は、長崎尋常高等小学校の校舎。

久七坂筋を描いた佐伯祐三「散歩道」。

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 海外のオークションサイトを見ていたら、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!と思われる作品を見つけた。サイズがそれほど大きくない画像なので、細かなマチエールやタッチなどは仔細に観察できないのだが、色づかいといいデッサンの特徴といい、モチーフの選び方や表現法といい、おそらく佐伯作品にまちがいないだろう。佐伯はアトリエ周辺を頻繁に散策して、下落合を仔細に観察し街並みや地形を知悉して描いているので、実際に現場へ立つことなく適当に似せて描いた贋作の風景画は、その不自然さから案外ピンとくるものがあってすぐにわかる。
 もともと、東京美術倶楽部の鑑定を受けたあと海外へ流出しているようで、15号サイズのキャンバス裏面には、制作年月日である1926年(大正15)9月20日という書きこみがあったか、あるいは「散歩道」という走り書きでもあったものか、1990年3月に同倶楽部で鑑定され「散歩道」というサブタイトルの規定がなされているようだ。確かに、佐伯の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月20日に、『下落合風景』シリーズの「曾宮さんの前」(20号)と「散歩道」(15号)の2テーマを制作している。ただし、これは2作を描いたということではなく、現在わかっているだけで「曾宮さんの前」Click!と思われる諏訪谷Click!を描いた画面が、画角をやや変えて2種類確認できており、制作メモのタイトルはあくまでモチーフやテーマの“くくりタイトル”として記載された可能性が高い。佐伯は、同一の風景を1日でキャンバスに4~5枚描くこともめずらしくなかったので、1タイトル1作品とはまったく限らないのだ。
 この作品が現在、なぜ海外の市場に存在するのかは不明だが、少なくとも1990年以降に流出したとすれば、投機対象として絵画を収集していた個人の所有者が、バブル崩壊と同時にあっさり手放したものだろうか。あるいは、戦後すぐのころから国外にあり、どこかの国の所有者が東京美術倶楽部に鑑定してもらうため、一度日本へ里帰りしている作品ということだろうか。2001年には、米国の大手オークション「クリスティーズ」にかけられているが、現在はヨーロッパ(イタリア?)の市場にあるようだ。いずれにせよ、朝日新聞社の『佐伯祐三全画集』(1979年)にも、また過去の佐伯展とその図録にも出品・掲載されたことのない、めずらしい画面だ。
 さて、画面を詳しく観察してみよう。手前から奥へと向かう二間道路を描く、佐伯らしいパースのきいた画面には、原っぱないしは宅地造成を終えた敷地の向こうに、垣根をめぐらした生垣のある日本家屋が3棟並んでいる。道路は、突きあたりでT字路になっているか、あるいは左右どちらかへ屈曲しており、遠景には比較的広い敷地に建っていると思われる家々が描かれている。道路の右手も、宅地として整備されているのだろう、垣根や縁石のようなものが見えるので、住宅が建っていると想定できる。「散歩道」は、「曾宮さんの前」と同日に描かれているので、素直に考えればこの風景は曾宮一念アトリエClick!からほど近い情景ではないか?……と仮定することができる。
 また、「散歩道」というタイトルからは、佐伯がいつも歩き馴れている道筋であり、その道の周辺には他の『下落合風景』に関わる描画ポイントが存在している……と仮定しても、あながち的外れではないだろう。佐伯がよく歩きまわっている道筋は、自身のアトリエにほど近い西側の「八島さんの前通り」Click!や、目白文化村Click!の東西南北に通う二間道路や三間道路のコース、目白崖線から丘下へと通う坂道のいくつかと、丘下を横断する鎌倉街道=中ノ道Click!(雑司ヶ谷道Click!)、そして佐伯アトリエの東側に位置する「曾宮さんの前」=諏訪谷から、薬王院墓地Click!方面へと抜ける久七坂筋Click!とその周辺域いうことになる。この中で、「散歩道」に見あう描画ポイントは発見できるだろうか?
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 射光は手前、すなわち佐伯の背後あるいはほぼ真上から当たっているように見え、家々の庭が母家の手前にあることを考慮すれば、佐伯の背後は南側、すなわち佐伯は北側に向かってイーゼルを立てているように見える。木々の緑はいまだ色濃く繁っており、9月下旬の情景としては矛盾していない。地面はほぼ平坦であり、遠景に丘や崖を想起させるような隆起が見られないので、下落合の丘上の風景と想定してもいいだろうか。
 実は、この画面には大きな特徴がみられるのだ。下落合に建てられた住宅の多くは、華族やおカネ持ちの大屋敷、目白文化村や近衛町Click!アビラ村Click!などの邸宅群を除けば、たいがい100坪前後のお宅が多い。東京府住宅協会の住宅資金積立て制度を利用して建てられた、一戸建ての府営住宅Click!も80~100坪ほどの敷地で、今日に比べれば建物と建物との間がそれほど窮屈にならないほどの間隔で建設されている。ところが、画面左手に建ち並んだ同一規格と思われる住宅群は、軒と軒とが接するほどきわめて近接して横並びに、すなわち東西方向と思われる向きで建てられている。このような住宅は、旧・下落合(中落合・中井含む)広しといえども、ほとんど存在していない。
 すなわち、以下のような条件をクリアする場所が、佐伯の描画ポイントだ。
 ①同一規格の住宅が3軒(以上)連続して、横方向(おそらく東西)に並んでいる。
 ②その家と家との軒先が、下落合では稀有なほど非常に近接している。
 ③家々の手前は宅地造成地か原っぱ、あるいは畑の名残りがある空き地状態。
 ④道路の先が左右どちらかへクランクしているるか、またはT字路の形状。
 ⑤佐伯がよく歩く、つまりほかにも近くに描画ポイントのあると思われる道筋。
 ⑥1926年(大正15)に建っている住宅で、「下落合事情明細図」にも記載がある。

 実は画面を見たとたん、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」と1936年(昭和11)の空中写真をいつも見比べているわたしには、どこを描いたのかがピンときた。空中写真を細かに観察していて、実は不思議に感じていたエリアがあったのだ。先述のように、下落合に建つ住宅群は敷地が比較的広いせいか、一般住宅でも家々の間には、現代の住宅街のように軒が接するようなことはなく、少なからず“すき間”が開いている。でも、空中写真を観察していて、まるで現代の新築一戸建ての販売現地のような場所を見つけて、「大正期なのにめずらしいな」……と感じていた一画があったのだ。
 おそらく、地主が建設した統一規格の借家群ではないかと思われるのだが、興味深いポイントとしてわたしの印象に強く残っていた。このような街角は、ほぼ10年後の1936年(昭和11)現在の空中写真でさえ、落合地域すべてを仔細に観察しても、ほんの数ヶ所しか発見できない。ましてや、1926年(大正15)現在ともなると、周辺の風情も含めて1ヶ所に絞りこむことが容易だった。本作は佐伯アトリエの南東側、青柳ヶ原Click!を越えた久七坂筋の路上から、北の諏訪谷のある方角を向いて描いた作品だと思われる。すなわち、画面左手の住宅の地番が下落合739番地になる敷地一帯だ。
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 現在の街並みでいうなら、F.L.ライトの弟子である遠藤新Click!が設計した小林邸Click!(1934年築)の真ん前から、北へ向けて左(西側)へとクランクする道を描いている。しかも、現在でさえ東京電燈(現・東京電力)の電柱Click!が、当時とほとんど変わらない位置に建っている。ちなみに、このあたり一帯はかろうじて空襲をまぬがれており、戦後まで古い家々がそのまま残っていたエリアで、わたしも1970年代に往年の街並みを観察している。現在でも、先の小林邸をはじめ、その昔、聖母坂のマンションに住んでいたころ毎日眺めていた、青い屋根のそびえる大きな西洋館、黒瓦に外壁がこげ茶に塗られた昔ながらのしぶい和館、佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に描かれた高嶺邸Click!……と、狭いエリアのあちこちで近代建築を鑑賞することができる楽しい街角でもある。
 近くには、「セメントの坪(ヘイ)」=曾宮一念アトリエ前Click!(1926年10月23日)をはじめ「曾宮さんの前」=諏訪谷(9月20日)、「浅川ヘイ」Click!=浅川秀次邸(10月23日)、「墓のある風景」Click!=薬王院旧墓地(9月22日)、「見下シ(?)」Click!=久七坂池田邸(10月1日)……などの風景が密集する、佐伯が早い時期に描いた『下落合風景』の描画ポイントだらけの場所なのだ。新たに発見した「散歩道」(9月20日)=下落合739番地は、これら描画ポイントのほぼ中央に位置する作品ということになる。
 さらに面白いのは、佐伯祐三アトリエから東へ向かって歩いた場合の、佐伯の“いつもの散歩道”をおよそ想定できる点だ。佐伯は、青柳ヶ原(現・聖母病院)を越えて東京美術学校の恩師である森田亀之助Click!(のち隣家が里見勝蔵邸Click!)や二科仲間の曾宮一念邸、その南に拡がる諏訪谷Click!などを通りすぎると、浅川邸の塀沿いに子育地蔵のある下落合を斜めに横切る通りへとは抜けず、手前で薬王院のほうへ右折(南下)している。そして薬王院の森(現・新墓地)から旧墓地をセメントの塀沿いに歩き、目白崖線の淵へと出て新宿方面を眺めたのだろう。すぐ下(南斜面)にある池田邸の、鯱の載った大きな赤い屋根を左手(南)に見つつ広い空き地を西へ歩き久七坂の途中に出ると、今度は同道筋を北へとたどり、再び曾宮アトリエ前の諏訪谷へもどってくるという散歩コースだ。佐伯はこのコース上に展開する風景を、「森たさんのトナリ」Click!や「雪景色」も含めると、判明しているだけで10点以上も制作していることになる。(実数はもっと多いだろう)
 では、描かれている家々を特定してみよう。まず、1926年(大正15)現在で3棟つながった家の右側は竹山邸で、真ん中が清水邸だ。左端に3分の1ほど見えている家は、同年の「下落合事情明細図」が記録した時点では空き家となっている。また、道路をはさんだ右手は大きな山崎邸の生垣だ。のち、1934年(昭和9)に遠藤新設計の小林邸が竣工することになる、下落合805番地の敷地だ。また、山崎邸の敷地の先が途切れているように見えるのは、薬王院の森Click!(現・新墓地)へと向かう東西の道路があるからだ。
 久七坂筋の道路はこの先、やや左(西側)に向けて屈曲している。正面奥に見えている、グレーの屋根で比較的大きな2階家は、以前こちらでもご紹介した高橋五山Click!の父親である大正期の高橋五三郎邸だ。その右手にちらりと上部が見えている屋根は、リニューアル前の船越邸ではないかと思われる。また、船越邸の手前に見えている、傾斜角の急な屋根をもつ平屋らしい住宅は、西側に広めの庭を設定した大正期の小室邸だろう。
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下落合739界隈05.JPG

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下落合739界隈07.JPG

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佐伯の散歩道1936.jpg

 画面左側の宅地には、なにやら白っぽい描きこみが見えている。わたしは、空が反射している水たまりだと想定したのだが、案のじょう、この絵が描かれた9月20日(火)は晴れているものの、9月18日(日)・19日(月)は2日連続して小雨が降っていた。(それでも佐伯はスケッチしに外出してるが) 佐伯は、ようやく太陽が顔を出した日に喜んで散歩に出かけ、前日までの雨でぬかるんだ道を歩きにくそうに靴を泥だらけにしながら、久七坂筋のほぼ中ほどにイーゼルを据えて本作を描いている。

◆写真上:1926年9月20日制作の、海外にある佐伯祐三『下落合風景(散歩道)』。
◆写真中上は、空襲をまぬがれたエリアなので現在でもあちこちに大正末から昭和初期の近代建築を見ることができる。下左は、庭木として流行したらしい画面のサワラ?(スギ科)の樹も巨大化して残る。下右は、道を歩く人物の拡大。ジャケット姿で帽子をかぶり、スケッチブックのようなものを手にしているので画家を連想させる。下落合をスケッチして歩く笠原吉太郎Click!、あるいは佐伯の仕事をのぞきにきた曾宮一念Click!だろうか。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」()と、1938年(昭和13)の「火保図」()にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)の空中写真()と、1947年(昭和22)の米軍写真()にみる描画ポイントの家々。は、画面にみる家々の規定。
◆写真下は、描画ポイントからほぼ同じ画角で眺めた現状で、画面に描かれた3本の電柱はいまもほぼ同じ位置に建っている。中左は、道路の屈曲部分で右折すると薬王院の森(現・新墓地)へと抜ける。中右は、卒塔婆がよく見えるように上から撮影した薬王院旧墓地の塀。は、1936年(昭和11)の写真にみる佐伯祐三の散歩コース。

近衛町の安井曾太郎アトリエを拝見する。

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安井アトリエ01.jpg

 1920年(大正9)10月に岡田虎二郎Click!が死去したあと、娘の岡田禮子邸Click!となっていた下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の敷地に、安井曾太郎Click!が自邸+アトリエClick!を建てたのは1934年(昭和9)ごろのことだ。東を藤田邸Click!、南を酒井邸Click!にはさまれた近衛町の一画で、林泉園からつづく深い谷戸に面した敷地だった。このアトリエ建設は、ちょうど上鷺宮の三岸アトリエClick!の建設とほぼ同時期に進行している。
 建築家の山口蚊象(のち山口文象と改名)は、アトリエを設計するにあたって安井曾太郎から5つの条件を提示されている。すなわち、建物の構造は可及的堅実に、北側から採光し西陽は絶対に避けること、夏は涼しく冬は温かくすること、制作に際して光は右から採ること(制作者は西側の壁に向かう)、天井は13尺(約4m)以上はほしい……の5条件だ。でも、この中での西壁に向かう制作態勢のテーマは当初の予定とは異なり、アトリエ内で仕事をする安井曾太郎は、残されている写真類を検証する限り、いつも反対の東側を向いて制作している。つまり、採光(北窓)が常に左手にくるようにイーゼルを据え、画家は東の壁面(出入口側)に向かって仕事をしているのだ。
 また、上記の5条件をクリアしたうえで、建築家ならではの個性的な設計デザイン、つまりシャレた意匠や当時流行していた建物内外の装飾、室内における用途のない無駄な“遊び”の空間はすべて禁止という、当時の画家としてはあまり例を見ない注文を出していた。そのときの様子を、1935年(昭和10)発行の『新建築』第2号に掲載された、当の設計者である山口蚊象の証言から引用してみよう。
  
 それに建築家のお道楽、意識的な洒落と気取りを謹しみ純粋な工房として造られたしと云ふ、甚だ痛ひところを一本刺されてゐる。第一()は敷地が斜面になつてゐるので鉄筋コンクリートの土台を作り、筋違ひ其他を十分に用ひ第二()の問題は何処でも今日までやかましく云はれて来た程には、巧く解決されて居なかつた。と云つて私の試みがそれ程革命的な立派なものではない、只平面図の様に窓の両側へ夏の朝と入陽をさえぎる壁を突き出したに過ぎない。また天光は測光と同じく一重窓では投射が強過ぎるおそれがあるので、断面図の如く二重ガラスとし、両側の面を反射面にする。こうする事に依つて天光と測光との光度を平均し、内部を軟かい光で包む事に成功した。それに今までの天光の方法では夏、陽の高くなつた時などガラス面へ直射するので、カーテン等で光度を調節しなければならないし、雨漏りの心配もあるが、此設計ではその事も考慮に入れてある。(カッコ内引用者註)
  
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安井アトリエ02.jpg

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 中村彝Click!が住んだアトリエClick!前の、林泉園からつづく谷戸地形の谷間は、今日では地下鉄・丸ノ内線の工事で出た土砂でかなり埋め立てられ、その深さはだいぶ浅くなっているけれど、当時は敷地の西側がほとんど断崖のような急傾斜地であり、安井邸の建設予定地も盛り土はなされただろうが、西側に向かって少なからず傾斜していたと思われる。谷間の急峻さは、安井邸の南隣りにお住いの酒井様からお借りした邸内の記念写真からも、またモデルになった大内兵衛の証言からもうかがい知ることができる。
 安井アトリエは、北側の採光窓の形状がめずらしくて面白い。決して直射日光が入らないよう、天窓には深い庇を、また壁面の窓には左右に壁を張りださせて、まるで窓全体をガードするような造りになっている。天窓は、直接天井に穿つのではなく、まるで出窓のように北側へ斜めに突きだした形状をしている。そのため、ガラス面へ陽光が直射することがなく、また安定した光線を室内に投射できるように工夫されている。これに似た仕様のアトリエは、下落合では他に林芙美子記念館にある手塚禄敏アトリエClick!に見ることができる。そう、林芙美子・手塚禄敏邸もまた山口蚊象(山口文象)の設計だ。
 安井曾太郎がことさら西陽を嫌ったのは、おそらくキャンバスに描いている絵の具の色が、オレンジ色の夕陽が混じると変色して見えてしまうからで、常に正確な色彩を目にして仕事をしたい画家にとっては切実な問題だったのだろう。中村彝が、採光窓の西側に納戸を3尺(1m)ほど張りださせたのも、西陽の射しこみが気になっていたのかもしれない。山口蚊象の証言を、引きつづき同誌から引用してみよう。
  
 第三()の条件を満足させるには窓を南に採らなければならないが、普通の窓では折角の一方光線の効果が失はれてしまふし、カーテンを降るす(ママ)にしても風にあふられる事も考へなければならない。そこで光りを嫌つて風だけを入れる工夫をして見た。これに依ると冬期は只の板壁であり、夏は大きな風窓になる、云つて見れば開閉自由な大きいガラリ窓である。第四()は平面図を見ても判る様に押入、出入口、テーブルその他、目をさへぎるもの凡てを東側へ備へ、西側を大きいブランクな壁にした。第五()の条件に概当(ママ)させるためには桁行にトラスを用ひ其の他の工夫をした。壁と天井は白、建具や木部はペンキ塗りでグレーである。(カッコ内引用者註)
  
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安井アトリエ平面図.jpg

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安井アトリエ05.jpg

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 当時の建築家は、冬と夏をどう過ごしやすくするかが大きなテーマであり、特にそこが1日のうちで大半をすごす建築主の仕事場ともなれば、創造性や生産性を落とさないための効率的な仕組みづくりが求められただろう。安井曾太郎が西向きで制作するとの条件をつけたため(ここにも安井の夕陽嫌いを想定することができる)、山口は西側を画家の気が散らないよう「ブランクな壁」にし、目につきやすい家具調度類や出入口はすべて東側へ集めたにもかかわらず、安井はかえって落ち着かなかったものか、あるいは西陽の心配がまったく不要な設計に満足したものか、よく東側を向いて制作している。
 画室のカラーリングはシンプルで、ホワイトとグレーのモノトーン2色しか使われていない。これも余計な色彩で気を散らせたくない、画家のオーダーだったのだろう。このアトリエの注文内容から推察すると、安井曾太郎はよくいえば質実かつ堅実でマジメな性格のように思えるが、かなり神経質で周囲の環境や音などにもうるさい人物像を想像してしまう。採光窓が真北を向いてなくてもほとんど気にせず、かなり大雑把で「ズボ」というあだ名をつけられていた10歳ほど年下の佐伯祐三Click!とは、およそ正反対の性格だったのではないだろうか。
 安井アトリエは、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!でも、また5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも焼け残り、東隣りの藤田邸とともに戦後を迎えた。邸周辺の濃い緑が、周囲からの延焼をくい止めたと思われるのだが、南隣りの酒井邸は残念ながら全焼し、下落合を写した貴重なアルバム類が多数失われている。
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安井曾太郎邸跡.JPG

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 安井曾太郎は、昭和10年代から戦後に死去するまで、このアトリエでさまざまな人物像や静物画を制作しているが、他の画家たちのように絵道具を携えて、アトリエの周辺をスケッチしてまわることはしなかったようだ。安井の作品に、落合に住む人物を描いた絵は観るが、落合の風景を描いたとみられる画面を、わたしはまだ一度も観たことがない。

◆写真上:安井曾太郎アトリエの、北側の採光窓と東側の収納のある壁面。
◆写真中上は、安井曾太郎邸のエントランスと玄関。現在は、この右手に近衛篤麿の記念碑が建立されている。下左は、北側から眺めた安井曾太郎アトリエの全体像。下右は、アトリエ北側の採光窓と北東隅に設置された出入口。
◆写真中下は、安井アトリエの側面図と平面図。は、アトリエの採光窓と白一色に塗られた西壁。は、アトリエの南壁に設置された射光を遮断できる通風窓。
◆写真下上左は、南壁に穿たれた通風窓の構造。上右は、安井邸跡の現状。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井邸。下左は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる安井邸。下右は、1945年(昭和20)4月2日撮影のB29偵察写真にみる安井邸。

復刻されない外山卯三郎『前田寛治研究』。

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外山卯三郎邸跡.JPG

 井荻の自邸Click!が全焼し、下落合2丁目1146番地の実家Click!へもどった外山卯三郎Click!は、1948年(昭和23)に『前田寛治研究』を執筆し、翌年に建設社から出版している。戦後すぐのため物資が不足していたのだろう、粗末な用紙にソフトカバー仕様の本書は、今日まで古書市場に残っているものは傷みが激しい。そんな中で、比較的傷みの少ない同書を古本屋で見つけたので、さっそく入手した。
 外山卯三郎は本書で、下落合の実家を「下落合1146番地」と記しているが、大正末から昭和初期の落合町時代には下落合(2丁目)1147番地、淀橋区の時代には下落合2丁目1138番地、そして新宿区が成立した1947年(昭和22)からは下落合2丁目1146番地となっている。ちなみに、現在は中落合1丁目2番地に相当するのだが、外山邸の敷地北側の大半は、十三間通り(新目白通り)の下になってしまっている。
 この本が現在、なぜ復刻されて単行本化されていないのか、あるいはどこか出版社の文庫に入っていないのかが不明だ。前田寛治Click!についてまとめた伝記本、あるいは作品についての評論本としては、たいへんまとまりのある充実した内容となっている。外山は、前田の故郷である鳥取まで出かけ、前田の幼年時代から1930年(昭和5)に死去するまで、その足跡をていねいにたどっている。残された愛子夫人と息子への聞き取り調査や、前田の絵画作品はもちろん、彼の詩作や日記も含めその生涯を全的にとらえた労作だ。おそらく、1930年協会Click!の画家たちの中では、戦後、外山卯三郎がその紹介にもっとも力を入れた画家ではないだろうか。
 外山卯三郎の『前田寛治研究』に挿入された序文から、引用してみよう。
  
 昨年は二十年がかりで資料を集めて書いてゐた「日本洋画史」をまとめるために暮してしまつた。その仕事をしてゐる間にも、前田の芸術が日本洋画史に極めて重要な位置を占めてゐるので、もう一度再認識をしなければならないと考へてゐた。ことにその代表的な作品が、前田未亡人の郷里に保存されてゐるために、殆んど見ることができず、美術文化に寄与する点でも、極めて残念なことである。さうしたことを美術研究所でも話しあつたことであつた。/偶然にも昨秋十一月の初めに、前田君の一人息子の棟一郎君が来訪された。
  
 この序文によれば同書執筆のきっかけは、前田寛治の遺児である前田棟一郎が1948年(昭和23)11月の初めに、下落合の外山邸を訪問したときからスタートしているようだ。外見が父親にそっくりな前田棟一郎に、外山卯三郎は時間が20年ほど逆もどりしたような不思議な感覚にとらわれたらしい。その訪問の直後、外山はすぐに鳥取へと旅立っている。同書の脱稿は翌1949年(昭和24)1月25日なので、速筆の外山はわずか3ヶ月弱で『前田寛治研究』を執筆したことになる。
 もっとも、『日本洋画史』を執筆する準備のため、かなり詳細なノートをつくっていたので、きわめてスピーディに筆が起こせたのかもしれない。すばやい『前田寛治研究』の出版に対して、『日本洋画史』全4巻が日貿出版社から刊行されたのは、30年後の1978~1979年(昭和53~54)にかけてだった。つづけて、鳥取へと向かう第1章「前田寛治の生涯」の冒頭から引用しよう。
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 東海道線から山陰線にのりかへると、急に車が悪くなるだけでなく、自然が急激に陰気になつて、物さびしい風景が展開しはじめる。山かげが多くなり、しとしと雨が降つて、窓外に点在してゐる農家も、人影のすくない寒さうな風情が感じられはじめた。私は十数年もまへに、一度この山陰地方にきたことがあつたが、それは夏のことで、山あり水ありするこの地方が、涼しさうで、それほど物さびしくは感じなかつた。それが今度は冬のためか、光線もくらいし、乗客もまばらで、すべてがもの悲しい感じにみたされた。/鳥取県に入ると海岸に砂丘(デューン)が多くなり、泥沢地が多くなつて、風景の性格が変つてくる。
  
 まるで、記録文学を読むような書き出しとともに、外山卯三郎は敗戦から間もない時期に、前田寛治の生誕からその死までの軌跡をていねいに追いつづけている。
 同書には、前田家に保存されていた習作やデッサン類、貴重な写真なども、戦後すぐの拙い印刷ながら掲載されている。その中で、まず目を惹くのは荻窪駅近くの杉並町天沼287番地に建設された前田寛治アトリエ、すなわち前田写実研究所の内部の様子だ。前田寛治と弟子たちがいっしょに撮影された記念写真や、ひとり息子の棟一郎とともに『棟梁の家族』(1928年)のキャンバスが写る、前田アトリエ内の様子がわかる。長崎と下落合を転々とした前田寛治だが、1928年(昭和3)7月に杉並町天沼へ沼沢忠雄の「湯島自由画室」を移築し、初めて自分のアトリエをもつことになった。『棟梁の家族』は、おそらく移築作業にかかわった大工一家の肖像を描いたものだろう。
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外山卯三郎邸(井荻)2.jpg
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外山卯三郎(独立美術時代).jpg

 また、1930年協会が1928年(昭和3)5月に代々木の山谷小学校で開催した、同協会の第1回美術講演会の記念写真がめずらしい。当時、代々木山谷160番地には、前年の1927年(昭和2)春に開設された1930年協会洋画研究所があり、洋画家の工藤信太郎が常駐していた。講演会の記念写真は、小学校の風情には見えないので代々木山谷160番地にあった、1930年協会洋画研究所の可能性もありそうだ。いっしょに写っている人々の中には、同研究所の研究生も混じっているにちがいない。
 カメラにとらえられた人物たちを見ると、中央に小島善太郎Click!が、その右隣りはいつものポーズで腕を組む林武Click!の姿が見え、小島の真うしろには外山卯三郎が顔をのぞかせている。また、小島善太郎の左隣りのモダンな断髪でスマートな女性は、娘を連れて講演会を聞きにきた藤川栄子Click!だろうか。小島のうしろ左手には、里見勝蔵Click!前田寛治Click!が少し間をあけて立っている。里見勝蔵の前にいる丸顔の帽子をかぶった男は、おそらく木下孝則Click!だろう。また、林武の右並びには野口彌太郎Click!と鈴木亜夫が、また小島善太郎の左並びには清水登之の姿が見える。佐伯祐三Click!木下義謙Click!は、渡仏中で不在のため姿が見えない。
 このメンバーに両者を加えれば、1930年協会のほぼ全員がそろったことになる。また、このメンバーから前田に木下、野口を除き三岸好太郎Click!を加えると、とたんに独立美術協会Click!の記念写真のような風情になる。もうひとつ、わたしがひっかかったのは清水登之の左側に立つ、帽子をかぶりメガネをかけて髭をはやした人物だ。清水の陰になって表情がよく見えないが、背格好から1930年協会に出品していた笠原吉太郎Click!のように思える。
 ちなみに、当日の講演会の演題は外山卯三郎「西洋美術史講座」、里見勝蔵「構図の研究」、小島善太郎「巴里画家生活」、前田寛治「写実美について」という内容だった。小島善太郎は、パリでの恋愛やフェニックスClick!を演じたことまで講演したのだろうか。w 話すのが得意でない佐伯祐三がいたら、「あのな~……」といったいなにを講演していたのだろう。
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代々木第1回美術講演会192805.jpg

 外山卯三郎の『前田寛治研究』は、なかなか外部からはうかがい知れない、1930年協会や独立美術協会の内情までを伝えていて貴重な情報源だ。歴史に「もしも」は禁句だが、最後に前田の死に関連した外山の「もしも」の一文を引用しておこう。
  
 もちろん前田が生きてゐたならば、今日の「独立美術協会」と形のちがつた強力な団体ができてゐたことだらう。前田はもちろん帝展をやめる決心をしてゐた。しかし木下兄弟は里見の野心を非常に危険視してゐたから、前田がその調節弁になつてゐた。帝展系の鈴木千久馬、中野和高、伊原宇三郎たちも前田といふ関節で結ばれてゐた。だから前田が生きてゐれば、全日本洋画界の最優秀作家を一団とするすばらしいグループが、はなばなしい大運動を展開したことだらう。しかし前田の急死によつて、この雄大な構想は画餅に帰した。
  
 どうやら、井荻に仲よく田上義也の設計で自邸を新築した外山卯三郎と里見勝蔵だが、その後、独立美術協会の内紛をめぐり仲たがいをしていたものか。

◆写真上:下落合1147番地(のち下落合2丁目1146番地)に建っていた外山卯三郎邸の敷地西側で、写っているのは赤塚不二夫のフジオプロダクションClick!
◆写真中上は、1949年(昭和24)に出版された外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)の表紙()と中扉()。は、杉並町天沼287番地の前田写実研究所の内部。
◆写真中下:外山卯三郎のご子孫である次作様よりお送りいただいた写真類で、は井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)に建つ外山邸前での家族写真。下左は、同じく井荻の外山邸前の家族写真で外山卯三郎の右側に立つ学生服の男子2人は台湾からの留学生。下右は、独立美術協会時代の記念写真に写る外山卯三郎と一二三夫人。外山卯三郎の左側が児島善三郎で、右側が川口軌外。
◆写真下:1928年(昭和3)5月に代々木の山谷小学校で開かれた、1930年協会の第1回美術講演会の記念写真。背後の建物は、1930年協会洋画研究所かもしれない。

下落合を描いた画家たち・刑部人。(2)

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刑部人「我庭(冬)」別バージョン.jpg

 先日、刑部人Click!の段ボールに入れられた未整理資料の中から、1944年(昭和19)8月20日に林芙美子Click!が疎開先の長野県下高井郡戸穏村より、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の刑部人Click!に宛てた原稿用紙の手紙や、1956年(昭和31)10月23日および1938年(昭和33)9月19日に金山平三Click!が旅先から刑部人へ宛てたハガキが見つかったとのご連絡をいただいた。また、川端龍子から刑部人へ宛てためずらしいハガキなども入手されたとのこと。
 お知らせいただいたのは、いつもこのサイトの記事や取材ではお世話になっている炭谷太郎様Click!と、刑部人の二女・中島若子様Click!のお嬢様である中島香菜様だ。そして、もうひとつビックリするようなニュースをうかがった。目白駅前に「目白美術館」Click!が設立され、オープン記念の展覧会には「刑部人展」が企画されており、50点余の展示作品の中に「下落合風景」が1点あるとのこと。さっそく、美術家の方をお誘いして画面を拝見しに、いそいそと開館準備中の目白美術館へお邪魔した。
 このニュースが、ことのほかうれしかったのは、豊島区が解体された元・平和小学校Click!跡地に建設を計画していた西部地域複合施設(美術館機能含む)が、東京オリンピック前の入札不調で2020年以降に延期されてしまった経緯があるからだ。つまり、豊島区に収蔵されているさまざまな美術作品や資料類の多くを展示するスペースが、2020年以降でなければ本格的に確保できない……ということで、実はガッカリしていた矢先だった。施設の完成まで、長崎アトリエ村Click!などの画家たちの作品や資料は、およそ10年以上にわたり保管施設で“死蔵”されてしまう可能性が高いのではないかとも考えていた。でも、豊島区内に目白美術館のようなスペースができれば、少なくとも少しずつ企画展として公開可能なのではないか……と感じたからだ。
 落合出身で館長の高島穣様は、私費を投じて美術館を設置されている。もともと、子どものころから絵画には親しく接していて、お父様に連れられて展覧会などにはよく出かけたそうだ。50点余の刑部人作品も、すべて自身で蒐集されたものばかりだ。ほかにも、数多くの作家の作品をお持ちで、たとえば長崎アトリエ村のひとつ「さくらヶ丘パルテノン」Click!に住んでいた、桐野江節雄も数多く所有されているとか。もちろん、ご自身の蒐集品を展示する展覧会がメインだが、館全体をレンタルギャラリーとして開放する予定もあるとうかがった。目白美術館は、和菓子の「寛永堂」が入る目白寛永堂ビル8階の全フロアにオープンを予定しており、駅前にある横断歩道の信号をスムーズにわたれれば、目白駅の改札から徒歩1分以内で着ける好アクセスの立地だ。
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刑部人「我庭(冬)」.jpg
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 落合地域と長崎地域、池袋地域との中間点に位置する目白駅界隈は、このような美術施設の立地にはもってこいのように感じる。この地域で暮らしてきた画家たちは、史的な町村制の区画や行政区の境界線などまったく意識せず、好きなときに好きな場所へ住み、仕事をしている。長崎から落合へ、また落合から長崎へ、池袋から落合へと、画家たちは気ままに往来しては次々と作品を仕上げていった。だから、彼らには落合町も長崎町も、池袋町も高田町もあまり関係なく、芸術家たちが数多く参集した東京市街地の西北部……という、漠然とした“面”としてのとらえ方があっただけだろう。山手線の目白駅界隈は、旧・淀橋区の落合町と旧・豊島区の高田町がちょうど接する位置にあり、駅近くのビルによっては新宿区と豊島区の境界が現在でも敷地の中を横切っているような場所だ。また、長崎町や池袋町からもほど近いのがいい。
 さて、さっそく刑部人の「下落合風景」(冒頭写真)を拝見する。同作は、新宿歴史博物館に収蔵されている『我庭(冬)』(1970年代)のバリエーション作品であり、『我庭(冬)』とほぼ同一の描画ポイントから描いているのが、樹木の配置や枝ぶりから想定することができる。すなわち、刑部アトリエの北側に面したバッケ(崖地)Click!島津邸Click!の丘を、採光窓の下あたりから仰ぎ見たような構図だ。ただし、新宿歴博の『我庭(冬)』よりも画面サイズが小さく、より風景の中央部へフォーカスしたような描写、つまり画家の眼をやや望遠気味にしたようなとらえ方をしており、画角も『我庭(冬)』よりは狭い。
 そして面白いことに、目白美術館の画面のほうが積雪が多く、新宿歴博の『我庭(冬)』のほうが同じ地点なのに土面の見えている比率が大きい。つまり、両作の空が青く晴れあがっていることを考慮すれば、刑部人は大雪のあとの晴れた日に、まず目白美術館の『我庭(冬)』のバリエーション作品を描き、少し雪が溶けはじめた同日の午後、ないしは翌日に新宿歴博の『我庭(冬)』を描いたと想定することができる。
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 途中から中島香菜様も合流して、貴重な資料類を拝見することができた。まず、林芙美子の手紙は、久楽堂の400字詰め原稿用紙へ2枚にわたって書かれており、疎開先である長野の様子や刑部家の子どもたちを気遣う内容となっている。また、金山平三のハガキは、1956年(昭和31)のほうは青森県の十和田湖へ写生旅行中のものであり、金山は山形県の大石田から十和田への旅に出ている。もう1枚の、1958年(昭和33)のものは神戸から投函されており、奈良に出かけたがモチーフが見つからず、1枚も描けなかったと報告している。奈良や京都は「絵にならない」と忌避していた、金山平三らしい文面だ。
 ちょうど、富士山の山麓に住みながらほとんど富士を描かず、富士山をモチーフにするのは売り絵を描くようで「卑怯」な気がすると語っていた、曾宮一念Click!のような感覚が金山平三にもあったのだろうか? このハガキでも、再び「十和田辺」へ出かけたいと考えていたようだ。
 中島様が整理され発見された資料類から、とびきり興味深い写真類もお見せいただいた。刑部人関連では、1929年(昭和4)に東京美術学校を卒業した同窓会写真に、上屋敷(あがりやしき:現・西池袋)に住んでいた斎田捷三Click!や、三岸好太郎Click!の親友だった久保守Click!が写っている。久保守もまた、目白駅の近くに住んでいた。さらに、刑部人が制作中のめずらしい写真や、同級生だった福井謙三が死去した1938年(昭和13)に開かれたとみられる追悼会の様子など、これまでわたしが目にしたことのない写真ばかりだ。
 同様に、一度も見たことがない金山平三のスナップ写真もたいへん貴重だ。金山アトリエClick!のテラスで撮られた画家たちの記念写真をはじめ、各地で制作中の金山平三の姿が、いい表情とともにとらえられている。妙にすましたところがなく、かまえずに普段着のままの金山平三Click!をかいま見ることができる。きわめつけは、アトリエの前庭で「佐渡おけさ」を真剣に踊るClick!金山じいちゃんClick!だ。もう、これらの貴重な資料だけで3~4本の記事がかけそうなのだが、それはまた、別の物語……。
 貴重な写真類をお貸しいただき、スキャニングさせていただいたので、これからは刑部人や金山平三などのスナップ写真を、「刑部家資料」としてご紹介していきたい。
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 展覧会場には、1964年(昭和39)3月に刑部人から、下落合1丁目540番地(現・下落合3丁目)の大久保作次郎Click!あてに書かれた手紙もあった。これらの貴重な手紙やハガキ類は、「刑部人展」で展示予定だとうかがっている。それぞれ初公開のものがほとんどなので、研究者の方には見逃せない資料類だろう。いずれも詳しい文面は、ぜひ会場でご覧いただきたい。目白美術館の「刑部人展」は、7月28日(月)から8月15日(金)まで。

◆写真上:目白美術館収蔵の、刑部人『我庭(冬)』(1970年代)のバリエーション作品。
◆写真中上上左は、新宿歴史博物館の刑部人『我庭(冬)』。上右は、2010年(平成22)に日動画廊の「刑部人展-片雲の旅人-」に展示された刑部人のパレット。は、2006年(平成18)撮影の刑部アトリエ裏のバッケ。は、1955年10月に森で制作中の刑部人。
◆写真中下は、林芙美子からの手紙。は、金山平三からのハガキ。
◆写真下:目白美術館のオープン記念「刑部人展」(7/28~8/15)のリーフレット。


携帯電話の文学初出はおそらく片岡鉄兵。

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 小説に初めて「携帯電話」が登場したのは、おそらく1930年(昭和5)4月に書かれた片岡鉄兵の作品『通信工手』が嚆矢だろう。それ以前の作品で、わたしは「携帯電話」という用語を見かけたことがない。片岡の『通信工手』は、未来小説でもSF小説でもなく、同年の『戦旗』5月号に掲載されたプロレタリア文学だ。また、片岡鉄兵は落合地域をあちこち転居した、地元では馴染み深い作家でもある。
 この作品が、わたしの今日的な視点から興味深いのは、「空中に、地下に、また海底に、地球の上をクモの巣のように張っている針金のことを考えて見よう。/電信だ。電話だ」ではじまる、「プロレタリアート」を支配する道具として通信環境をとらえた片岡鉄兵の階級観ないしは社会観ではない。今日の通信環境は、むしろ政治革命や社会変革を推進し拡大する“道具”として世界各地で作用しており、むしろ抑圧的な国家はその管理や統制に四苦八苦しているようにさえ見てとれる。
 わたしが“面白く”感じるのは、当時のアナログ通信ケーブルと電信柱(電信電話ケーブルの支柱)は、どのように保守メンテナンスが行われていたのかが、本作品を通じてリアルにうかがい知ることができるからだ。下落合に建てられた電柱について、また佐伯祐三Click!が連作『下落合風景』Click!の画面に描いた電柱類について、変圧器が載る電力線柱とそこから分岐した電燈線柱のちがいや、電信電話ケーブル専用で白木のままが多かった電信柱について、かなり以前に記事Click!を書いていた。だから、それらの電柱・電線を管理していた作業員=工手の、具体的な仕事の中身を知りたかったのだ。佐伯祐三の画面には描かれていないが、当時、下落合のあちこちでは工具を手に電柱へ取りつく作業員の姿が目撃されていただろう。
 今日のデジタル通信ケーブルは、シャーシやボックスなどタイプの別なくネットワークスイッチやルータ、VoIPサーバ、デジタルPBXなどを経由しているため、万が一どこかで障害が起きても高度な運用管理システムによる自動検証で、障害箇所の切り分け・特定が短時間で可能になっている。つまり、どこかの通信ケーブルで異常が発生すれば、「ここだよ! ××がおかしいよ!」とシステム側が自動的にアラートで、しかも障害理由まで想定して教えてくれるので、それが部品やケーブルの破損による物理的な障害であれば、メンテナンス要員は即座にピンポイントで障害箇所へ駆けつけることができる。
 だが、片岡鉄兵が『通信工手』を書いた昭和初期は、まったく事情がちがっていた。通信ケーブル=電信電話線が不通になると、どこが故障しているのかがまったく不明なので、電信柱を順番に1本1本たどりながら、歩いて調査・検証しなければならない。しかも、通信線が不通になるのは、たいがい台風のような嵐や、豪雪、集中豪雨、強風、雷などの悪天候の日であって、おだやかな日に事故が起きることはきわめて少ない。すなわち、「通信工手」たちは低賃金で常に過酷な作業を強いられるのであり、片岡がこのテーマを取り上げたのもそこに着目したからだろう。道路や宅地造成の工事人夫などは、悪天候なら仕事にならず“休業”となってしまうが、「通信工手」は悪天候になると常に命がけの出動準備を強いられることになる。
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 では、片岡鉄兵の『通信工手』から「携帯電話」も含めて引用してみよう。種本は、1984年(昭和59)に新日本出版社から刊行された『日本プロレタリア文学集・第15巻/「戦旗」「ナップ」の作家集2』に所収のものだ。
  
 夕暮れ、大都会の郊外だ。電柱は黒々と立っていた。針金が、風にうなっていた。/郵便局の近くに、大きな、特殊な電柱が立っていた。試験柱という奴だ。柱の上の、腕木に近い所に、小さな足場が拵えてある。この足場をプラットフォームと云うのだ。電話線の故障個所をしらべるために、通信工夫の時本が、試験柱をのぼり、足場まで辿りついた。/足場に乗ると、彼は携帯電話器(ママ)を腕木の電線にむすび付けた。受話器を、耳にあてた。/故障個所を調べるのだ。故障個所は、この電柱からカミの方か、シモの方か?/彼は先ず、上部(カミの方)に向って試験して見るのだ。「モシ、モシ」と呼んでみた。
  
 ここで登場する「携帯電話」は、通信ケーブルに音声信号(電流)が流れているか、あるいは不通かを確認するための「テスター」のような役割りを果たす、工手たちが持ち歩いた小型電話機だったことがわかる。この「携帯電話」なら、わたしが子どものころにもよく見かけており、電柱に登ったまま受話器を耳にあて、どこかへ電話をかけている作業員の姿は別にめずらしくなかった。つまり、電信電話ケーブルが敷設されると同時に、この種の「携帯電話」は登場していたことになる。
 街中には、「試験柱」と呼ばれるプラットフォームを備えた電信柱が用意されており、そこに登って障害箇所が「試験柱」の上手か下手かをいちいち調べて歩くことになる。電信柱から見て、東京の市街地に近い方角を「カミ」、遠い方角を「シモ」と表現している。また、各地域には24時間365日、ミッションクリティカルで営業をつづける通信工手たちの拠点があり、それを「本居」と呼んでいた。
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 試験柱から東京の方へ近い線を上部と云い、それと反対の方向にのびる電線を下部というのだ。で、東京××線の故障個所は、試験柱係りの報告によって、下部にあることが分ったのだ。(中略) 十里さきに、隣りの本居がある。隣りの本居でも、非常招集をやっているのに違いないのだ。隣りの本居の試験柱で、もし故障個所が上部と云うのなら、其所から此方の本居の方角を指して、工夫が繰り出されて居るだろう。もしそうだったら、二つの巡回隊は、途中の何所かの地点でバッタリ出会うはずだ。
  
 つまり、電話線づたいに点検しながら歩きつづけ、隣りの拠点から出動してきた通信工手たちとバッタリ出会うところが、なんらかの障害箇所である可能性が高いということになる。出会ったときは、どちらかのチームがすでに復旧作業に取りかかっていることもあっただろう。この小説では、大雪で風が強い吹雪の中の作業であり、断線の怖れがある電線に付着した重たい雪を、先にカギ型の金具を備えた長い竹ざおを使って削り落としながら歩いていく。
  
 竹竿、携帯電話機、スリープ・バインド(電柱の腕木にある瀬戸物のガイ子に、線を結びつけるために用いる銅線のこと)、梯子、それらが、一行の携帯品だった。(中略) こんな日には、あらゆる、故障が起るのだ。混線、地気、断線――風で線と線とが、コンガラかると、混線が起きる。電柱が倒れると、混線ばかりでなく、線がちぎれる事もある。断線だ、(ママ)凧の糸が引っかかったり、針金の上にひどく雪がつもったりすると、電流が土地の上に流れて行って、通話が出来なくなる。これが地気なのだ。
  
 通信線のシールドが強固でなかった当時、少し強風が吹いて電線がこんがらがり接触すると、ある線の信号(電流)が別の線へと流れこみ、混線を起こすことがめずらしくなかっただろう。電話をかけた相手が、通話の途中で入れかわっていたなどという笑い話があった時代だ。通信工手たちは、電線の雪を落としながら、線が絡まらずにまっすぐ伸びているかまで点検しながら、障害箇所の特定に10km以上を歩きつづける。防寒具や外套を着ていると、電信柱に登るのに不自由なので、たいがいはハッピ姿か、セーターを着た上にハッピをはおっただけの軽装だった。
 片岡鉄兵の小説は、その多くがフワフワと綿菓子のような「新感覚派」的な作品も多いのだが、事実にもとづいて描くルポルタージュ風の作品になると、俄然、輝きを増してくるようだ。片岡は、1944年(昭和19)に50歳で急死するのだが、戦後も仕事をしていたとすれば、報告書を読むような硬質の吉村昭とも、ユーモラスだが生真面目な杉浦明平ともまたちがった、少しラフだが押しつけがましくなく、説得力を減らすほど妙に深刻ぶらない、類例のない記録文学者になっていたかもしれない。それを想うと、少なからず残念な気がする。
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 片岡鉄兵は、大正末か昭和の最初期のころ第二文化村Click!のすぐ北側にあたる落合町葛ヶ谷15番地、つづいて第二文化村内の宮本恒平アトリエClick!の並びである下落合4丁目1712番地、さらに再び旧・葛ヶ谷の西落合1丁目115番地に住んでいる。落合地域を転々としているのだが、第二文化村ではおそらく姻戚と思われる日毛印南工場長だった片岡元彌邸に寄宿しているのではないかと思われる。「プロレタリア文学」といっても、彼の作品は思想性を押しつけるような表現や臭みは少なく、当時の人々の姿や記録を淡々と読むような自然さが備わっているので、また機会があればぜひ取り上げてみたい。

◆写真上:下落合の権兵衛坂(大倉坂)にある、近衛線Click!七曲支線の電柱(右端)とデジタル通信回線(光ファイバー)を配線する新しい支柱(中央)。
◆写真中上は、近衛篤麿邸が建設された旧・下落合の東部に多い近衛線の電柱。は、1929年(昭和4)に撮影された片岡鉄兵。
◆写真中下は、下落合の近衛線と氷川線が交叉する七曲坂に見られる近衛線七曲支線()と氷川線七曲支線()。下左は、佐伯祐三の『下落合風景』に描かれた近衛線電柱。下右は、落合第四小学校の南側を通る1941年(昭和16)撮影の氷川線電柱。
◆写真下は、1929年(昭和4)出版の『新進傑作小説全集・第5巻/片岡鉄兵集』(平凡社)。は、1984年(昭和59)刊行の『日本プロレタリア文学集・第15巻/「戦旗」「ナップ」の作家集2』(新日本出版社)。

下落合でちょっとウワの空物語。

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  わたしは、なにか考えごとをしたりモノ想いに沈んでいたりすると、周囲の状況がまったく目や耳に入らないことがある。家の中でなら別にかまわないのだけれど、道を歩いているときや喫茶店など人が大勢集まるところでは、ちょっと困った状況になることがある。知り合いが隣りに座っても、なかなか気づかないことがあるのだ。
 先日も、下落合の街角で信号待ちをしているとき、なにかに気をとられて考えごとにふけっていたのだろう、声をかけられたのにまったく気づかなかったようなのだ。声をかけてくださったのは、昔住んでいた聖母坂にあるマンションにお住まいの美しい奥様なのだが、わたしはおそらく目白通りの建物疎開Click!とか、ますます動向が怪しい補助73号線Click!とか、なにかのテーマに強く気をとられ、あれこれ枝葉を拡げて考えごとをしていたのだろう、クルマの騒音もうるさかったのかもしれないが、その声がぜんぜん耳に入らなかった。あとで、「引っ越されたら、知らん顔ですのよ、まったく、もう!」と道で会った連れ合いが代わりに怒られて、わたしは初めて声をかけられたのを知ったという始末だ。
 同じようなことが、喫茶店でも起きている。隣りに知り合いが座っているのに、モノ想いと資料の読みこみと原稿書きに夢中で、PCを閉じるまで気づかないことがあった。また、“深度2,000m”ぐらいwのところで考えごとをしていて、急に隣りから声をかけられ、なかなか“浮上”できずに受け答えがシドロモドロになったこともある。要するに、なにかのテーマに入りこんでアタマが別の世界へ「いっちゃってる」状態のときは、周囲の存在や音がまったく目や耳に入らなくなる性格をしているようだ。ほんとに、困ったものだ。わたしの性格をよくご存じの方は、「あ、またあちら側へいっちゃってるね」と気の毒そうな表情をして苦笑するだけだが、そうでない方にはたいへん失礼な態度をとっていることになる。
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 昔から、仕事の面でも同じことがいえるだろうか。だいじな原稿や大急ぎの企画書を書いているとき、ほかの業務や電話などにわずらわされるのがイヤで、外出して喫茶店で仕事をすることがたびたびあった。あるいは、社員たちが退社し電話もほとんどかかってこない、9時以降の深夜に仕事のはかどることが多かった。ただし、道を歩いていて知り合いに気づかないことはときどきあったが、人に声をかけられて耳に入らないということはなかったように思う。(実は、自分が気づかないだけかもしれないのだが……^^;) なにかに集中していると、周囲の状況が非常に見えにくくなるのは、ときに本を読んでいたり映画鑑賞をしているときにも、まま起きるようだ。
 会社の原稿や企画書を仕上げるときもそうだが、このサイトの原稿を書くときも、わたしは昔からアウトラインプロセッサを使わない。いまのOfficeツールやエディタには、たいがい装備されている機能なのたが、だいたいの構成をアタマの中で想定して決めたあと、わたしはじかに最初から書きはじめてしまう。書く予定のテーマや項目を、あらかじめアウトラインプロセッサで整理して、全体の構成や流れをつかんでから書けば、かなり効率的で楽なのはわかるのだけれど、どうもそのやり方がつまらなく感じ、わたしの性には合わないらしい。最初にカッチリと構成や流れを決め、確固とした枠組みや囲いを設定してしまうと、そこから派生する別の枝葉的なテーマが逆に抑制され、どこか活きいきとしたふくらみや余裕のない、痩せて味気ない文章になってしまうように感じられるからだと思う。
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 アタマの中で、だいたいの文章構成や文脈の流れを想定したら、一気に書き落としていくというやり方が、わたしの性には合っているようだ。だから、そのような作業中は必然的に精神や思考の集中を要求されるので、とたんに周囲の状況が見えにくく、あるいは聞こえにくくなってしまうのだろう。また、同時に人から邪魔されることをどこかで強く拒否したいものか、無意識のうちに目や耳をふさいでいるのかもしれない。アタマの中で組みあがった思考や文脈が、外からの力で瓦解・霧散してしまうのを怖れる不器用なわたしは、無意識のうちに視覚や聴覚をことさら鈍化させているのかもしれない。
 昔は、30分ほどで仕上げていたここの記事が、原稿量の増加や盛りこむ要素の拡大、さらに多彩なテーマが錯綜してくるとともに、いまでは書くのにたっぷり1時間はかかるようになってしまった。つまり、アタマが現実の世界から“別の世界”へ「いっちゃってる」状況が、だんだん長くなってきている……ということなのだろう。これは、原稿を書くという作業に限らず、なにかを考え想像するという行為の最中にも起きている現象のようだ。それは多くの場合、ひとりで道を歩いているとき、乗り物を利用しているとき、喫茶店でコーヒーを飲みながら資料に目を通しているときなど、とりあえずはなにかに気を散らせる必要のない、自分にとっての“自由時間”に発症しているらしい。
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 下落合に住む大勢の友人・知人のみなさま、路上でわたしに出会い、笑顔を見せたのになぜか知らん顔された…、「きょうは、どちらへ?」と声をかけたのに無視された…、せっかくすれ違いざま投げキスをしたのに気づかれなかった(爆!)…、暗闇から化けて出たのに見向きもされなかった(猛爆!)…というような経験を、もしお持ちの方がいらっしゃるとすれば、それは深い水底に沈んで考えごとをしていたせいなので、どうかご容赦いただきたい。そういうときは、「ああ、完全にあっち側へいっちゃってるね」と、憐みの表情を浮かべて静かに見送っていただければ幸いだ。

◆写真:わたしのアタマの中を巡っているのは、たとえばこんなテーマたち。
写真下:K建設のビルが解体され、旧・新宿中央図書館のコンクリート建築も同時に解体中だ。そろそろなんとかしないと、補助73号線計画により鎌倉期に拓かれた七曲坂から目白通りまでの家々が消える日Click!も、そう遠くないかもしれない。また、昨年は目白通りのイチョウ並木の一部伐採が問題になったが、水道工事のため新目白通りに45年越しに育った、スズカケの街路樹北側を伐採すると聞いた。なお、伐採後の具体的な再植樹の計画は当面ないという。温暖化による気象の不安定化が深刻な課題となっている、21世紀の都市とは思えない無神経な仕事だ。

飯野農夫也の“なめくぢ横丁”生活。

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 少し前に、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくぢ横丁”Click!に住んでいた尾崎一雄Click!について書いたけれど、きょうは尾崎や檀一雄が住んでいた長屋の向かい側、尾崎にもたまに原稿を発注していたナップClick!の機関誌『戦旗』Click!や『プロレタリア文学』、『人物評論』などの編集者・上野壮夫宅に寄宿していた、ひとりの画家についてご紹介したい。のちに、現代版画家として活躍する飯野農夫也だ。
 茨城県生まれの飯野農夫也は、1931年(昭和6)に栃木県の真岡中学を卒業すると東京へやってきている。中学時代の飯野は友人と絵画部を結成し、しばしば栃木県が地元だった独立美術協会Click!のメンバー清水登之を訪ねているようだ。東京へとやってきた飯野は、すぐにプロレタリア美術研究所Click!へ通いはじめているので、その思想形成は真岡中学時代なのだろう。翌1932年(昭和7)には、文学雑誌『プロレタリア文学』の編集を手伝うために、上落合の上野宅へ寄宿している。飯野は寄宿早々、同誌の美術記者のような役割りで記事を書いていたようだ。
 飯野農夫也は、上落合の“なめくぢ横丁”から西武線・中井駅の踏み切りをこえ、下落合の丘を上り目白文化村Click!片岡鉄兵Click!が住む第二文化村界隈を通り抜けて、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所Click!(1932年12月以降は東京プロレタリア美術学校)まで通っていた。飯野が師事したのは、東京プロレタリア美術学校の開設名義人であり、当時は長崎南町3丁目4168番地(現・南長崎4丁目)に住んでいた吉原義彦だ。ちょうど、現在の豊島区立南長崎幼稚園の北側、南長崎スポーツ公園に接するあたりだ。だが、1933年(昭和8)に飯野は脚気にかかり、療養と徴兵検査のために茨城県へ一時帰郷している。1934年(昭和9)に、上野壮夫と大宅壮一が雑誌『人物批評』を発刊するにあたり、上野は茨城で療養中の飯野に声をかけ、彼は再び上落合の上野宅へともどっている。
 すでに東京プロレタリア美術学校(旧・プロレタリア美術研究所)は、前年の憲兵隊による襲撃で破壊されおり、飯野農夫也が東京へともどった同年には特高Click!の徹底した弾圧により、プロレタリア美術家同盟もすでに解散していた。このとき、飯野は“なめくぢ横丁”に住む尾崎一雄などの作家たちとも急速に親しくなっている。また、長崎南町3丁目に住む吉原義彦のもとへ絵を習いに通うのも、以前と同様の生活だった。その様子を、1994年(平成6)に創風社から出版された、『1930年代-青春の画家たち』(創風社編集部・編)に所収の、飯野農夫也「吉原義彦」から引用してみよう。
  
 私はその年は上野壮夫が大宅壮一、石川正雄と一緒にやっていた月刊総合誌「人物評論」を手伝うことを条件に上野壮夫方に再び同居した。しかしその雑誌がつぶれて失業者の詩人である上野夫妻に大迷惑をかける。尾崎一雄のいう「なめくぢ横町」で私は朝晩隣家の尾崎さんと顔を合わせて昼間は西武線中井駅の踏切を越えて毎日長崎南町の吉原宅へ歩いた。途中に堀田昇一の家があってそこへ寄ると必ず平林彪吾がいた。平林は本庄睦男と共にプロレタリア作家同盟の農民文学委員であって、私はナップの農民芸術委員会(委員長は黒島伝治)の書記でもあったから、本庄や平林とは昭和六年秋以来の付き合いであった。
  
 この中に登場する小説家・堀田昇一は、上落合2丁目791番地(現・上落合3丁目)に平林彪吾とともに住んでおり、上落合2丁目829番地の“なめくぢ横丁”から東北東へ150mほどの距離にあたる。堀田昇一はのち、1937年(昭和12)から1939年(昭和14)にかけて、長崎アトリエ村Click!をイメージした小説『自由ヶ丘パルテノン』を「人民文庫」に連載しているが、当時から運動を通じて美術家たちとの交流が深かったと思われる。
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 飯野農夫也の記述から、長崎南町3丁目の吉原義彦アトリエへと通う彼の道筋を想定すると、寄宿している上野宅を出た彼は、堀田昇一や平林彪吾の住む上落合2丁目791番地前の道路を北上する。ほどなく妙正寺川の手前で右折(東進)し、落合第二小学校Click!最勝寺Click!との間の道を抜けて、寺斉橋筋の道路へ出ると再び北上して、中井駅東側の踏み切りをわたり中ノ道(現・中井通り)へとさしかかる。通りのやや左手(西寄り)に口をあけている、一ノ坂から一気に第二文化村へとのぼっていくと、ちょうど目の前に片岡鉄兵が住んでいた片岡邸(姻戚邸だと思われる)が建つ「文化村前通り」Click!に突きあたる。その道を右折して、宮本恒平アトリエClick!の先を左折し、第二文化村のメインストリートを北上すると、佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景(タンク)』Click!あたりをすぎて300mほどで、目白通りへと出ることができる。現在の、大江戸線・落合南長崎駅のすぐ東側の地点だ。そこから、目白通りを横断して道筋のつづきを北上すると、250mほどで長崎南町3丁目4168番地の吉原アトリエに到着する。
 吉原義彦は、おそらくアトリエに通ってくる弟子の飯野農夫也を介して、上落合の“なめくぢ横丁”あるいは落合地域の作家や画家たち、編集者などと親しくなっていったのだろう。その様子を、先の飯野農夫也「吉原義彦」から引用してみよう。
  
 あるとき尾崎一雄さんがこんなことを言った。「重雄君が湯河原で海の家と言っても氷屋をやろうと誘われて行ったよ。いよいよ始めようとしたら、重雄君のお父さんの代議士(田川大吉郎、蔵原惟廓らと少数派の)が来て、ビール一ダース置いていってくりたっけ」というほどだったから吉原さんはほどなくなめくじ横町(ママ)の仲間になった。本庄が「人民文庫」の編集に移ったときに表紙を三号ほど吉原さんが描いている。これだけの前置きがないとはなしが通じないことが出て来るかも知れない。さて本庄睦男が保田与重郎・亀井勝一郎らと第一次「現実」を作った時、吉原さんは本庄をモデルに油で三十号の半身像を描いた。本庄は椅子に腰かけてうつむいてアルバイトの受験雑誌(橘書店)校正をしている。定った時刻に一週間休まずに来てポーズをとった。
  
 ちなみに、「重雄君」というのは吉原義彦の弟であり詩人の吉原重雄のことで、「お父さんの代議士」とは吉原義彦の父親である吉原義雄のことだ。このあたり、飯野の記述がかなり省略されてわかりにくいのだが、本庄睦男がやってきてポーズをとったのは上落合の“なめくぢ横丁”ではなく、長崎南町3丁目4168番地の吉原アトリエだ。吉原義彦が、「なめくぢ横町の仲間になった」のは人間関係のつきあいにおいてであり、吉原が上落合へ転居してきたわけではない。
 この時期、吉原義彦は人物画を多く手がけていたようで、本庄睦男像の次は小熊秀雄Click!の肖像を描いている。また、原泉Click!を描いた作品『オルガに扮せる原泉子』を独立美術協会第5回展へ出品しており、それに対する小熊秀雄の展評も残されている。1991年(平成3)に創樹社から出版された、『小熊秀雄全集』第5巻から引用してみよう。
  
 リアリスト吉原の作画態度や、今度の独立への出品画に就いては、もつと採りあげて問題にしていゝ。殊に若い画家達の間には、リアリズムに就いてかなり関心を深めてその方向に画風を進めてゐる人が少くないだけに、吉原の仕事の進め方の検討は意義がある。絵画上のリアリズム論は茲では措いて、私は『オルガに扮せる原泉子』では、まだまだ手も足もでないリアリズムを感ずる。ブルジョア的写実主義者の作画上の自由性と新しい写実主義者殊に何等か仕事の上に社会性を附与しようと企てゝゐる、画家の作画上の自由性とは、それぞれ制約するものがちがつてゐる。吉原の場合ブルジョア的な自由は欲しないだらう。だが見給へ。ブルジョア的な自由主義画家がいかに勝手にふるまつてゐるかといふことを。その意味に於いて吉原はもつと大いに勝手にふるまつて良い。吉原の絵を見ると建設的要素は多いが、破壊的要素が少ない。然もこれらの要素を吉原は絵の上では個人的立場に解決してゐる。もつとリアリズムの守り手として、旧来の絵画上の諸秩序の打ちこはし手として吉原の創造性を発揮してもらひたいし、若い後進のためにリアリズムの基本的方向を示してやるべきだ。
  
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上落合1936.jpg

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下落合1936.jpg

 ちなみに、1935年(昭和10)3月に東京府美術館で開催された独立美術協会第5回展は、前年の7月に急死した三岸好太郎Click!の遺作展をも兼ねていた。ついでに、小熊秀夫が書いた三岸好太郎の作品評も、同全集から引用しておこう。
  
 この室には三岸の遺作が列んでゐる。『貝がら』とか『海と射光』とか『海洋を渡る蝶』といつたシュールリアリズムとしての彼の題材のものに矢張り好感がもてる『立てる道化』といつたクラシック張りは三岸でなくても誰でもやれる仕事である。/クラシックとモダニズムとの矛盾の児と彼を呼ぶことに異議があるまい。もう少し彼を永生きさせてをいたら相当面白い仕事をしてくれたと思ふが、中途半端な仕事で夭折したことは惜しい。彼は好んで蝶を海の上に飛ばせる。それは彼の近代人としての不安感の表現である。/ダリの頭にヱルンストの尻尾をくつつけて自己の物と主張してゐる風な画家が少くない折柄、三岸のものは人柄がでゝ気が置けなく見れて良い、やうやく少しばかり彼の独創性が加はりかけてきたのに惜しいことをした。私は彼の絵は好きでない。才能が好きである。
  
 飯野農夫也は、吉原義彦がアトリエで小熊秀雄の肖像画を描く現場にも立ちあっている。小熊は、やはり1週間ほど吉原アトリエへ通ってきてはポーズをとっている。『1930年代-青春の画家たち』所収の、飯野農夫也「吉原義彦」から再び引用してみよう。
  
 本庄が終わるとつぎは小熊秀雄を吉原さんは描いた。椅子に腰を下したものゝ兵隊オーバーのようなものを着て昂然と肩をそびやかした長髪の小熊も、毎日三時間モデルをやりに一週間ほど通ってポーズを続けた。それも三十号の油絵に吉原さんはした。小熊を描くときには、原稿用紙の枠をはみ出て躍るような大文字の「飛ぶ橇」の原稿を小熊に持って来させてそれを画室の鴨居に画鋲で一カ所だけ留めてひらひらさせ「詩人の字はいいなあ」と言いながら、創作意欲をたぎらせ、小熊のおしゃべり「ドオミエの≪スカパンとクリスパン≫はいい。絵は世界中であれ一つ」「詩・絵・音楽、この三つが芸術であって、小説なんてくだらんもの、芸術でもなんでもない」に対抗する姿は壮観であった。
  
 このとき、小熊秀雄と吉原義彦との間で、「小説」表現をめぐる文学の激しい議論があったと思われるのだが、飯野農夫也はその内容を書き残してはいない。
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吉原義彦旧居跡.jpg
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堀田昇一・平林彪吾旧居跡.jpg

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吉原義彦「今夜の計画」1930.jpg
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吉原義彦「獄へ送る」1931.jpg

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飯野農夫也年賀状.jpg

 飯野農夫也は、その後も吉原義彦に同行して、下落合2丁目1912番地(現・中落合4丁目)の第二文化村に住んでいた片岡鉄兵(おそらく姻戚邸への寄宿)を訪問し、吉原が片岡の娘の肖像画を仕上げるのをサポートしたりしている。また、飯野は吉原アトリエから東へ800mほど、長崎南町2丁目2027番地に住む独立美術協会の伊藤廉Click!のもとへ、頻繁に出かけていく吉原の姿を目撃している。吉原は1936年(昭和11)になると、長崎アトリエ村のひとつで椎名町駅にも近い“さくらヶ丘パルテノン”Click!へ引っ越してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合2丁目829番地にあった、“なめくぢ横丁”界隈の現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真()と、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮られた空中写真()にみる“なめくぢ横丁”。敗戦直前の写真では、無住の住宅が防護団Click!や警察によって取り壊されたのか東側に空き地が見えている。下左は、1994年(平成6)に出版された、『1930年代-青春の画家たち』(創風社)。下右は、昭和初期の飯野農夫也。
◆写真中下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、飯野農夫也が上落合の“なめくぢ横丁”から長崎南町の吉原義彦アトリエへと通っていた想定ルート。
◆写真下上左は、長崎南町3丁目4168番地にあった吉原アトリエ界隈の現状。上右は、上落合2丁目791番地にあった堀田昇一・平林彪吾旧居跡の現状。は、いずれも吉原義彦の作品で『今夜の計画』(1930年:)と『獄へ送る』(1931年:)。は、山田みほ子様Click!のお手もとに残る飯野農夫也からの年賀状。

夏らしく人魂と雪女の怪談話など。

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桜ヶ池.JPG

 最近、西武新宿線に乗っていると、緊急停車をすることが多いそうだ。わたしは山手線のどちらかの駅まで歩いてしまうので、西武線の情報には案外うとかったりするのだが、同線を利用する方によれば、線路に入りこんだ人影を見た運転士が急ブレーキをかけるらしい。遮断機が下りている踏み切りで、電車の通過が待ちきれずにバーをくぐってわたってしまうのだろう、「危ないねえ」といったら、「それが、ちがうんだな」というのだ。
 どうやら踏み切りのないところでも、線路内で人影を見かけては急停車するらしい。昭和初期ではないので、遊んでいた子供が線路内に入りこむClick!わけがないし、酔っぱらったオジサンが線路へフラフラと立ち入るには、線路沿いに柵がめぐらしてあるのでむずかしいだろう。また、作業をしている保線要員の人影であれば、あらかじめ運転士にその情報が伝わっているはずで、徐行はするかもしれないが緊急停車はしないと思われる。さらに、誰かが自殺目的Click!で線路内へ侵入したのなら、もっと騒ぎClick!が大きくなっているはずだ。入りこんだ人物を保護して線路外へ退去させない限り、電車は長時間ストップしたままになるだろう。でも、運転士が見た人影は一過性のものらしく、停車はほんのわずかな時間だけで、再びすぐに発車するらしい。でも、これって考えようによっては、ちょっと怖い話だ。
 「線路」が気になり、大正期から昭和初期にかけて語られていた鉄道沿いの怪談を探してみたのだが、落合地域における線路や鉄道に関連した伝承は発見できなかった。そのかわり、落合地域がらみで中央線の東中野あたりをめぐる、怪(あやかし)が記録されていたのでご紹介したい。時代は、おそらく大正期と昭和初期ではないかと思われるのだが、上落合のすぐ南側に住んでいた男性ふたりによる人魂(ひとだま)の証言だ。1989年(平成元)に中野区教育委員会から発行された、『口承文芸調査報告書 続中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。ちなみに、語っているのは古くからの地付きの方と、関東大震災Click!後に東中野へ転居してきた方のふたりで、ともに明治生まれの男性だ。
  
 A:あたしは、一回(人魂が飛んだのを)味わっています。それはね、そこの火葬場があるでしょ、落合の火葬場、ねっ、あすこの裏に雑木林が。そこを右からね、こっちからいうとね、右から左へ、すうーっと、ね、あれは気持ち悪いですなあ。青白い。
 B:いや青でない、黄色い、黄色いですよ。黄色っぽくてね、ふわふわふわふらーっと、こう行くのね。一ぺん見たんですよ、東中野の駅の上で。東中野の駅の南。見たのは、そうですねぇ、あすこへ来てからだから、かなり前ですね。川添町に長くいてね、関東大震災後に来たんですから、震災から十年ぐらい経ってからですね。/線路来て、向こっ側(かわ)に、東から西へ飛んできたんですよ。先は丸いですよ、ずっと後ろ、尾をひいてますね。ふわふわふわふわっと、こう行く、こいつは気持ち悪かったな。とにかくね……。
 A:青っぽい、なんというかね、とにかくね……。
 B:こうなって、尾をひいてるでしょう。まるでね、ラッキョウの頭ぁ通るのと同(おんな)しようなんで、あれがね、ふわふわふわふわっと。
 A:飛んだあと、だれか死んだことは聞かない。とにかく、雑木林にね、ぶつかると、ふわっとなくなっちゃったの。
 B:あたしのは、どこへ飛んで行ったんだか知らない。お寺さんかなにか訪ねて行ったんだろうと思うけどね。東から来てね、西へ、飛んで、先がこんなんで、こうなんですよ、尾をひいてんのが、そうすると、ふわふわふわっと、こう来るんですよ。
 A:そう、ちょうどおたまじゃくしみたいの、ねっ。/「人魂が飛ぶと人が死ぬ」と、それはよく言うね、魂が脱けるって。
 B:魂が脱けてくんだとかなんとかってね。それじゃ、みんなね、今の時期になって、そんな飛んだら、人間が多いんだから一面飛んでるって。
 A:結局、そういうふうに、結びつけるのね。人魂が飛んだから人が死んだということは言わない。/全く、あれ見たときは、実際、足がすくんじゃったよ。八つ。その時分だったろうなあ。
  
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落合火葬場1941.jpg
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落合斎場.JPG

 少し重複が多くくどい会話で、どこか相手のいってることを聞いているようで聞いておらず、話がかみ合っていないじいちゃんたちの証言なのだが、Aさんは1910年(明治43)生まれで大正時代に落合地域で目撃した怪談を、Bさんは1892年(明治25)生まれで大震災後に東中野へ転居し、昭和初期の駅周辺で目撃した怪異現象を語っている。
 火葬場は、上落合842番地に住んだ尾崎翠Click!が『地下室のアントン』で、「火葬場の煙突の背後は、ただちに星につらなっている」と書いた、江戸期からつづく落合火葬場Click!のことだが、その周辺で人魂とカネ玉Click!の伝承や目撃証言がきわめて多い。また、大正期以降は寺々も増え、墓地なども多くなっているので、このような人魂はなんらかの物理的な発光現象Click!だと思われる。ただし、リンの燃焼Click!やプラズマなどの物理現象を想定してもよくわからない、玄関先の火柱や狐火Click!、墓地の怪火のたぐいは原因が不明で、そのような怪(あやかし)はこの近くに住んでいるらしい稲川淳二Click!の領域だ。そういえば、彼の怪談に「落合のアパート」Click!というのがあった。
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東中野駅1936.jpg
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東中野駅東側.JPG

 また、落合地域の西隣りにあたる上高田に、つい最近まで「雪女郎」の伝承があるのには驚いた。大雪が降った夜、「雪女郎」に誘い出されて外出し、そのまま道に迷って凍死するという怪談だ。それは、大人への戒めではなく、子どもへの教育話として語られていたようだ。炭焼き小屋があるような、どこかの山中に残る伝説ではなく、東京郊外にも「雪女」伝説が語り継がれてきている。確かに、大久保村西大久保265番地へ住んだ小泉八雲が採集した怪談『雪女』(1904年)は、「武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた」ではじまっているので、案外、旧・豊多摩郡(新宿区・中野区・渋谷区・杉並区)のこのあたりの話なのかもしれない。同資料から、1913年(大正2)生まれの上高田に住む男性が語る、「雪女郎」の一節を引用してみよう。
  
 それでねぇ、今から考えてみますとねぇ、なるほどそうかなと思うんですけれども、こういう木がねぇ、こういわゆる、もっと大きいですけれどもね。みんな雪のその、あれを真っ白にかぶって、そいで、人間が立っているようなね、感じのあれが非常にねぇ、みんな木々はそうなってるでしょ。/で、外へ出ると雪女郎に連れてかれて、そいであのぅ、帰れなくなってしまう。自分の家へ帰る道、わかんなくなってしまう。そいで朝んなってね、よく冷たくなって、子どもが死んでることがあるから、夜は、雪の降った夜は、決して外へ出ちゃいけないって、いうことはねぇ、雪女郎の話としてね。/これはね、やはり、子どものねぇ、子どもは寝ぼけが多いんですって。寝ぼけが多いですからねぇ、ですから、中味は雪の降ったようすを見ようなんてんで、それで、寝ぼけて外へ出て、それでそのまま凍死しちゃう子が、おそらくいたんだそうですね。/で、そういうことの戒めとして、雪女郎がいて、おいでおいでをしてね、そいで、それに招かれて行って、そうすっと、翌日の朝まで帰れなくって、朝、捜してみたらですね、冷たくなって死んでたと。
  
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藤村志保雪女.jpg

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原泉巫女.jpg

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 現在の新宿や渋谷の街中へ、まちがって雪女郎さんが迷いこんでしまったら、その透き通るような白い肌からタレントかキャバクラのスカウトに目をつけられ、さっそく事務所へ連れこまれてギャランティーの交渉でもはじまってしまいそうだ。雪の森で迷った若い木こりでも死へ誘(いざな)おうと、久しぶりにやってきた角筈村や渋谷村のあまりの変わりように、雪女郎さんは驚愕してその場で凍りついてしまうのではないだろうか。

◆写真上:上高田の桜ヶ池不動堂に残る、かなり小さくなってしまった桜ヶ池。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に斜めフカンでとらえられた落合火葬場で、尾崎翠が眺めた白い煙突が見えている。は、当時の面影が皆無な現在の落合斎場。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された東中野駅。は、東中野駅の東側に残る「柏木駅」時代からと思われる線路擁壁。
◆写真下は、1968年(昭和43)に公開された鎌倉期が舞台の『怪談雪女郎』(大映)で、藤村志保の雪女と原泉Click!の社(やしろ)の巫女との対決が怖いのだ。は、最近の雪女さんのお仕事でアブラムシ退治の派遣フマキラー家政婦で稼いでいるらしい。

陸上の游泳演習にこだわる陸軍戸山学校。

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湘南海岸.jpg

 わたしは泳げるようになった瞬間を、ハッキリとは憶えていない。もの心つくころには、すでにプールでも海でも泳いでいたので、幼いころから水に馴染んでいて知らず知らずに習得したのだろう。夏休みになると、雨が降るか台風Click!でもこない限りほぼ毎日、海岸沿いの市営プールや隣り町の海水浴場で泳いでいた。
 ただ、湘南Click!は海辺のせいか天候がすぐに変わりやすいので、夕方近くになると雷雲が近づいてきて、雨になることも少なくなかった。そんな夕立のさなか、浜辺の焼けた砂に驟雨がそそぐと、まるで金属臭のような独特の生ぬるい匂い(おそらく砂浜に混じる、真夏の陽に熱せられた砂鉄の匂いだろう)が漂い、沖の海面へ落ちるピンクやブルー、イエローの稲妻を飽きずに眺めていたのが懐かしい。
 夕立は1時間ほどでやむことが多かったが、松林をわたる風は涼しくなるものの、相変わらず潮風が素肌にまとわりついてベタつき、プールならもうひと泳ぎしてから帰宅したものだ。海で泳いだときは、小遣いが慢性的に足りない子どもたちなので「海の家」など利用できるはずもなく、そのまま急いで帰宅して風呂場へ直行した。もちろん、すぐに湯船へ飛びこんだりしたら、身体じゅうの日焼けが沁みて絶叫してしまうので、ほとんど水だけ浴びて出てくるだけだったけれど……。こうして、夏休みが終わるころには、小学2年生のときの担任だった高橋先生にいわせれば、「(顔が)前だか後ろだかわからないわよ」というような、真っ黒な顔をして登校したものだ。
 そんな環境で育ったわたしだから、体育で「水泳の授業」という感覚がよくわからなかった。おそらく、他の友だちも同様だったのだろう。プールは、「授業」ではなくほとんど遊びの場のような感覚だったのを憶えている。でも、クラスのお勉強ができる優等生の中には、ほんとうに泳げない子もいたので、教師はその子たちを中心に「授業」をして、事故が起きないように注意していたような気がする。夏休みは、親が設定する塾や講習会、習いごとなどで満足にプールや海へ行かせてもらえず、泳ぎをおぼえることができなかったかわいそうな子たちだ。そういう子たちは、夏休みが終わっても生っ白い(なまっちろい)顔をして登校してくるので、教師たちもすぐに見分けがついただろう。
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大川水練場.jpg

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游泳教育参考書表紙.jpg
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游泳教育参考書奥付.jpg

 日本橋で育った親父は、もちろん大川(隅田川)Click!で泳いでいる。大橋(両国橋)Click!をわたった向こうの本所側、橋をはさんで百本杭とは反対側に水練場(すいれんば)があって、日本橋と本所の子どもたちが多く集まっていた。水練場Click!とは、大川の岸辺に流れをせき止めて囲いを造り、四角くプール状にした遊泳施設だ。だから、海辺ではないものの、下町の子たちの多くは泳ぎが達者だったらしい。わたしも、隅田川で泳いでみたかったのだが、わたしが子どものころの隅田川は汚濁と臭気がひどく、入ればすぐに病気になりそうな川になっていたので、とても泳ぐどころではなかった。いまなら、サケやアユ(ときにイルカ)なども遡上しているようなので、再び泳げる川にもどっただろうか。神田川の川遊びClick!と同様、機会があれば隅田川でも泳いでみたい。
 下落合の南東側にあたる広大な戸山ヶ原Click!には、1874年(明治7)から陸軍戸山学校Click!が設立されていた。そこでは、さまざまな学習や操練が行なわれたが、游泳(水泳)の教練も重要な課題だった。そう、陸軍戸山学校の生徒たちは、海軍とは異なり水泳がかなり苦手だったようなのだ。おそらく明治期からだろう、「游泳教育参考書」なるものが繰り返し戸山学校で出版されている。国立国会図書館に保存されているのは、1917年(大正6)7月に出版された利根政喜『游泳教育参考書』(発行・陸軍戸山学校将校集会所)で、戸山学校の校長が山田良之助だった時代だ。50ページを超える游泳訓練の参考書なのだが、このような書籍のみならず、戸山学校では同様の簡易パンフレットを制作して、教員または生徒たちに配布している。
 陸軍戸山学校には、游泳訓練用のプールがあったかどうかは不明だが、『游泳教育参考書』や1922年(大正11)6月に発行された校長が菱刈隆時代の「游泳短期教育案」パンフレットを参照する限り、大正期の同校には設置されていなかったように思える。それは、游泳訓練を行う場所(海や川の環境)まで、こと細かに規定していることからうかがい知れるのだが、もうひとつ、実地訓練以前に陸上で行なう「游泳訓練」がやたらに多いのも特徴的だ。そこは「陸」軍なので、陸上での水泳訓練を重視したのだろう。w
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教育案1.jpg

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ふんどしの締め方.jpg

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 わたしなど、泳げる泳げないにかかわらず、とにかく水の中に入らなければはじまらないだろうに……と思うのだが、「陸」軍は陸上での水練を重視しているようだ。前述の「游泳短期教育案」パンフレットでは、遊泳に適したふんどしの正しい締め方まで、教習の課題に挙げられている。同パンフレットから、緒言を引用してみよう。
  
 泳游不能者ノ短期教育ニ於テ初メヨリ水中演習ノミニ依リテ所望ノ目的ヲ達セントスルハ蓋シ至難ノコトナリ 況ンヤ游泳場並設備等ノ完全ヲ期シ得サルニ於テヲヤ 茲(ここ)ニ於テ游泳期ニ先タチ豫(あらかじ)メ陸上ニ於テ其動作ノ要領ヲ会得セシムルト共ニ之ニ要スル神経及筋肉ノ両系統ヲ訓練シ以テ水中演習ニ連携シ之ヲ直接ニ準備シ置クトキハ大ニ游泳場ニ於ケル教育ヲ単簡ナラシメ得ルモノトス/如上(うえのごとく)陸上ニ於ケル準備ト単簡ニシテ良好ナル水中演習ノ指導ト相待ツテ始メテ所謂(いわゆる)短期教育ノ実績ヲ挙ケ得ルコトハ倍シテ疑ハサル所ナリ (カッコ内引用者註)
  
 準備体操を陸上で行なうのはしごく当然としても、泳ぎの「演習」を陸上でやるのはいかがなものだろう。いくら、講堂あるいは校庭で平泳ぎや横泳ぎ、背泳ぎの「演習」を重ねても、カナヅチで「泳游不能者」なる生徒が泳げるようになったり遊泳が上達するとは考えられず、あまり意味があるとは思えないのだが……。ましてや、陸上で飛びこみの教練などしたら、「游泳演習」が実施される日は顔を腫らした生徒たちで、医務室がいっぱいになったのではないだろうか。
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陸軍戸山学校1936.jpg

 陸上でいくら水泳のマネごとをしても、具体的に水の抵抗や水圧、波、流れ、たゆたいのある水面あるいは水中でなければ、泳ぎの実際はなかなか体得できない。とにかく、生徒を水に入れてしまうことがスタート地点(水点)だと思うのだが、陸軍戸山学校は“岡上”の「演習」にこだわり、なかなか“型”にうるさくてまだるっこしいのだ。でも、大勢の生徒たちがいっせいに寝ころび、平泳ぎや横泳ぎ、背泳などをしている姿を見たら、周辺の住民は「さすが陸軍さんだわな、地面を泳いでら」と苦笑したのではないだろうか。

◆写真上:よく泳いだ大磯の北浜海岸からの眺めで、平塚沖の潮流観測所と烏帽子岩、江ノ島がほぼ一直線に重なるポイントがある。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された大橋(両国橋)東詰めの本所側にあった水練場。は、1917年(大正6)に出版された利根政喜『游泳教育参考書』(発行・陸軍戸山学校将校集会所)の表紙()と奥付()。
◆写真中下は、1922年(大正11)発行の「游泳短期教育案」パンフに掲載された「陸上演習」における平泳ぎの教練図。は、游泳向きの褌(ふんどし)の締め方の解説。は、陸軍士官学校Click!の海岸における游泳演習記念写真。
◆写真下は、同パンフの「陸上演習」における横泳ぎ()と背泳ぎ()の教練図。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる陸軍戸山学校。

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