下落合1445番地の鎌田家下宿Click!から、渡辺淑子Click!と結婚した松下春雄Click!は、1928年(昭和3)3月に下落合1385番地の借家Click!へと引っ越し、その1室をアトリエにしている。下落合1385番地の一画は、明治末から大正初期に計画された府営住宅Click!の、東側にある落合第二府営住宅の敷地と西側にある落合第三府営住宅にはさまれた、ちょうど中間に位置する三角に近いかたちの区画だ。そして、南側は目白文化村Click!の第一文化村にあった、弁天池Click!の前谷戸Click!沿いに通じる二間道路に接している。
箱根土地Click!の堤康次郎Click!は、妻の姻戚関係をフルに活用して下落合の土地買収を急ピッチで進め、前谷戸から伊勢原一帯の広い土地を安く手に入れている。そして、目白通り沿いの土地を東京府へと寄贈し、目白文化村の造成がはじまる前の「不動園」Click!時代に、府営住宅の誘致活動を行なっている。東京府でも箱根土地の要請をうけ、目白通り沿いの下落合側へ昭和初期までに第一から第四までの府営住宅を建設している。
府営住宅といっても、今日の都営住宅や区営住宅のような概念ではなく、それぞれの住宅および土地は個人所有のものであり、かなり大きな邸宅群を形成していた。ここでいう「府営」とは、東京府が「中流」の勤め人向けに住宅建設資金の積み立て機構を設立し、その貯金をつかって自邸の建設を奨励するというシステムのことで、公営の賃貸住宅のことではない。だから、府営住宅は敷地の広さも住宅のデザインもさまざまで、統一した規格はなかったようだ
堤康次郎は、目白通り沿いに住宅を増やすことでダット乗合自動車(バス)の路線を誘引し、さらに住民向けの商店街が形成されるのを見越してから、目白文化村の造成にかかっている。でも、ここでご紹介した宇田川様Click!もそのおひとりだが、箱根土地による強引であくどい土地買収に反発して応じない地主もたくさんおり、そのような一画は府営住宅にも、また目白文化村のエリアにも含まれなかった。松下春雄が引っ越した先の下落合1385番地も、府営住宅と目白文化村に三方からはさまれた、そんな一画だったのかもしれない。
下落合1385番地には、どうやら洋画家たちが集合していたようで、松下春雄が転居してくる以前には、中出三也Click!と甲斐仁代Click!がいっしょに暮していた。ふたりのアトリエには、甲斐仁代の作品を求めに下落合2108番地の吉屋信子Click!がイヌを連れ、文化村を散歩がてらときどき立ち寄っていたのだけれど、ほんとうの目的Click!は中出三也に逢いたかったからだ。
松下春雄が住んだ同時代には、同じ名古屋の画会「サンサシオン」Click!の仲間である大澤海蔵Click!も同じエリアに住み、近所の下落合1542番地にある第三府営住宅には帝展でいっしょの長野新一Click!が、少し離れた下落合800番地には西坂の徳川邸Click!をいっしょに写生したと思われる同じく帝展仲間の有岡一郎Click!がアトリエをかまえていた。このような環境で、松下春雄は近所の風景を描いた作品を次々に制作している。
山本和男・彩子様ご夫妻Click!の手もとに保存された松下春雄アルバムClick!には、第一文化村に接した下落合1385番地の周辺をとらえた写真が何枚か残されている。おそらく、地主が借家を建てて貸し出していた宅地らしく、和洋折衷らしい住宅が並んでいる様子がとらえられている。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1385番地沿いの敷地に府営住宅からのびた二間道路と、敷地内には“「”型に横切る道路(おそらく私道)が記録されているが、松下邸はいずれかの二間道路沿いにあったとみられる。では、アルバムの写真を詳しく検討してみよう。
写真①②は、下落合1385番地で借りていた家の軒下や縁側で撮影した写真だ。1928年(昭和3)12月3日の撮影で、この家には南側に小庭があったようだ。陽当たりのいい縁側に座る淑子夫人(写真②)は、10日後の12月13日に長女・彩子様を出産している。写真③は、翌1929年(昭和4)2月13日にタライ湯をつかう淑子夫人と生まれたばかりの彩子様。写真④は、同年5月24日に南の中庭で撮影されたものだろう。
さて、家の周囲を撮影した写真を詳しく見てみよう。写真⑤は、下落合1385番地内の道路を撮影したと思われるが、建物の影などから右手が南側だと想定することができる。そして、近くの子どもを入れ、同じ道路を撮影しているのが写真⑥。この道は、おそらく東西にのびた道路であり、突きあたりの別の道路とT字路でぶつかっている様子だ。洗濯物の向こう側、道の入り口には少し大きめな邸が向かい合って立っており、正面の突きあたりには府営住宅の1軒と思われる門構えの大きな邸宅が見えている。下落合1385番地を東西に走り、東側がT字路状になっている道路は1本しか存在していない。この道路は、西側が行き止まりの袋小路となっているのだが、淑子夫人に抱かれた彩子様が写る写真⑦には、まさに道路西側の行き止まりが見えている。建物の影から明らかなように、写真⑦では画面左手が南になる。
そして、行き止まりの道路側にできた日陰に、彩子様を寝かせた乳母車をとめているのが写真⑧だが、そこに南へと下る路地が写されている。この路地を南へ30mほど歩けば、第一文化村北辺の二間道路へと出て、西側には弁天池のある前谷戸の谷間が、いまだ樹木や草原とともに拡がっていた。この写真が撮影される3年前、その二間道路沿いの永井邸敷地前にイーゼルをすえて佐伯祐三Click!が『下落合風景』Click!シリーズの1作を完成させている。すなわち、松下春雄・淑子夫妻が借りて住んでいた家は、下落合1385番地を東西に横切る道路と、T字状に南へ下る路地とが交わる位置の西側に建っていた家・・・と想定することができるのだ。
もう一度、整理してみよう。写真⑤⑥に写る洗濯物のあるあたりが、現在の「やよい児童遊園」の南辺、東西の道路入り口北側に建っているのが下落合1386番地の邸、T字にぶつかったところに見えている門と洋風な屋敷が下落合1391番地の大越邸だと思われる。そして、淑子夫人と彩子様の写真⑦は、左手に見えている家の壁面が松下邸であり、突きあたりに見えている建物と緑が、下落合1384番地に建っていた「明清寮」とその南庭ということになる。写真⑧では、乳母車をとめた日陰をつくる家が松下邸で、上部が第一文化村のある南へと抜ける路地だ。以上の写真⑤⑥⑦⑧は阿佐ヶ谷へと引っ越す直前、1929年(昭和4)5月31日に撮影されている。
さて写真⑨は、とんでもなくめずらしい風景をとらえた1929年(昭和4)5月の1葉。松下春雄が、彩子様を抱っこして近くの草原で散歩をしている様子がとらえられている。草原といっても、背後には左から右へ土手が走り、その土手の高さから推察すると左から右にいくにしたがって土手が低くなる、つまり窪地と思われる手前の草が繁った谷間が浅くなっていく・・・というような地形を想定できる。下落合1385番地の周辺で、このような風情のポイントはたった1ヶ所しか存在していない。第一文化村が展開した前谷戸の、弁天池があった谷戸の谷底だ。
この土手は、目白文化村絵はがきClick!にもとらえられている。でも、絵はがきに写っているのは1923年(大正12)に埋め立てられ、新たな宅地が造成された谷戸の東側だが、松下春雄が立っているのは湧水源に近い西側の谷戸だ。西側は、弁天池が形成され湧水源に近いこともあって、1936年(昭和11)の空中写真を見てもおわかりのように、なかなか家が建たなかったエリアだ。松下春雄が写る画面は、太陽光の具合から正面が南西側だと思われ、松下一家は下落合1385番地の家から南へ抜ける路地を通り、二間道路へと出て階段から谷底へ下りている。
しかも、わたしは写真を拡大したとたん飛びあがってしまった。(冒頭写真) 正面の土手上には、ハレーション気味だが第一文化村の巨大な西洋館が1棟とらえられている。そして、その独特な切妻の様子やフォルムから、すぐに佐伯祐三が描いた『下落合風景』の1作Click!を思い出した。写真の邸は、第一文化村は前谷戸の西、三間道路沿いの南側に建っていた立花邸を、北東側の谷戸からとらえたものだろう。右側の樹間にも、邸が1棟見え隠れしているようなのだが、おそらく西隣りの小松邸だと思われる。1929年(昭和4)現在、立花邸の道路をはさんだ北側は空地のようで、住宅がなかったらしい。7年後に撮影された1936年(昭和11)の空中写真では、土手がひな壇状に整地しなおされたのだろう、住宅が2~3軒建っているのが見える。
松下春雄は、1929年(昭和4)6月に杉並町阿佐ヶ谷520番地へと引っ越す直前、同年5月末に住みなれた下落合1385番地界隈の風景を、淑子夫人と彩子様を入れて撮影している。第一文化村の写真⑨は、おそらく淑子夫人がカメラを手にシャッターを切っているのだろう。先にご紹介した、松下の写生ポイントである第四文化村と落合第一小学校の写真Click!も、同年5月24日に撮られたものだ。松下春雄は前年、水彩画をやめて油彩画家になる決心をかためていた。
◆写真上:第一文化村の谷戸から、南西を向いて撮影されたと思われる写真⑨の拡大。
◆写真中上:上の①②は、1928年(昭和3)12月3日に撮影された下落合1385番地の松下春雄・淑子夫妻。下左の③は、翌1929年(昭和4)2月13日に撮影された生後63日めの長女・彩子様。下右の④は、同年5月24日に撮影された南側の小庭で遊ぶ一画の淑子夫人と彩子様。
◆写真中下:上の⑤⑥⑦⑧は、1924年(昭和9)5月31日に下落合1385番地の東西道路で撮影された風景。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる袋小路の東西道路と撮影ポイント。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1385番地界隈。
◆写真下:上左の⑨は、第一文化村の谷戸から南西方面を向いて撮影されたとみられる松下春雄と彩子様。上右は、目白文化村絵はがきにみる第一文化村の谷戸東側の土手。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイントと立花邸の位置関係。下左は、1926年(大正15)ごろに描かれた佐伯祐三『下落合風景』(部分)の立花邸。下右は、下落合1385番地の現状で松下邸跡は路地奥の左側に見えているベージュに塗られた外壁の家のあたり。