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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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村尾嘉陵の落合散歩。(2)藤稲荷

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清戸道と練馬街道.JPG
 郊外ハイキングが大好きだった村尾嘉陵Click!は、西北方面を散策するときはよく清戸道(せいどどうClick!/『高田村誌』より)=おおよそ現・目白通り)を通行することがときどきあった。石神井の三宝池Click!界隈へ遊びにいく道すがらも、清戸道から練馬街道へと抜けている。1822年(文政5)9月11日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだ。
 どんよりと曇った早朝に自宅を出た村尾嘉陵は、おそらく前回の記事と同様に江戸川橋Click!から目白坂Click!を一気に登って丘上に出ると、清戸道を西へ歩いていったのだろう。しばらく歩くうちに、雲が切れて空が晴れてきたようだ。季節的にみれば、すっかり秋めいた絶好の観光日和だっただろう。同日の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「石神井の道くさ」から引用してみよう。
  
 椎名町の慶徳屋の少し先に分かれ道があり、北に行くと上板橋に出る。ここから西は、道の両側に楢の木が植えられており、行っても行っても同じ景色の馬道が続く。椎名町から半里ほどは、道の左右はみな畑である。人家が二、三戸あるだけで、すれ違う者はみな馬を索き、糞桶を運んでいる者だけである。少し坂を下ると田圃が少しある。少し行くと登り坂になる。道の両側はみな畑で眺望もない。やや行ってまた小坂を下る。また田圃である。
  
 清戸道(ほぼ目白通り)を西へ進み、椎名町が途切れそうな西寄りのあたりから練馬街道へ入り、北西へと進む様子を書きとめたものだ。「椎名町」についての注釈が、ここでも「豊島区南長崎」となっているが、江戸期にはそれに加え、清戸道沿いの豊島区目白5丁目(旧・長崎村)、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目(以上すべて旧・下落合村)が加わることは、前回の記事でも書いたとおりだ。
 村尾嘉陵が、練馬方面へ向かうために歩いている練馬街道だが、現在の目白通りから二又交番を右へと入る、長崎バス通りClick!(旧・目白バス通りClick!)がほぼそれに相当する。ただし、地元の古老によれば、練馬街道は現在の長崎バス通りよりもやや東側に分岐点があったというお話をうかがっている。『御府内場末往還其外沿革圖書』を確認すると、いまの長崎バス通りとまったく同様に、清戸道から北西へ斜めにつづく練馬街道が描かれているが、江戸期にはやや東寄りに二差路の分岐があったのかもしれない。
 中には、首をかしげてしまう記述もある。神田上水の湧水源である、井之頭の弁天社へ参詣しようと、1816年(文化13)9月15日(太陽暦で10月中・下旬ごろ)に、当時は日本橋浜町にあった官舎(賜家)を出て内藤新宿から高井戸、牟礼(三鷹)方面へと歩き、マムシに注意しながら井之頭池へと到着している。
 同文の最後に、玉川上水と神田上水を比較して次のように書いている。
  
 水源を求めていけば、水の流れを追うだけではあるが、中野、淀橋の辺りで玉川上水の支流と合流し、また高田、下落合村に至って石神井川と合流し、おもかげ橋辺りで流れは一つの川となって勢いを増す。四ツ(午後十時)の鐘が打つ頃、家に帰り着いた。
  
 ここで「高田」とあるのは、訳者の註釈「新宿区高田馬場辺り」ではなく、中野区エリアの上高田村のことだと思われる。妙正寺川(北川Click!)は、上高田村を流れて下落合村で合流しているが、石神井川は落合地域はおろか、神田上水(1966年より神田川)のどことも合流していない。
 下戸塚村の神田上水に架かる「おもかげ橋」あたりでも、2本の河川は合流しておらず、面影橋ではなく上落合に建立された泰雲寺Click!(廃寺)の了然尼Click!が架橋した、下落合の「比丘尼橋(西ノ橋)」Click!のことだろう。江戸期には、比丘尼橋(西ノ橋)の南東200mほどのところに、妙正寺川と神田上水が落ち合う文字どおり落合地域の合流点があった。のちに、妙正寺川の源流をたどって妙正寺へ参詣している嘉陵は、同寺の際にある妙正寺池が同河川の湧水源であることを改めて認知していると思われる。
清戸道(目白通り).JPG
広重「名所雪月花 井の頭の池弁財天の杜雪の景」.jpg
妙正寺池.JPG
 それにしても、村尾嘉陵はよく歩く。たとえば、日本橋浜町から常盤橋を渡って内濠沿いに清水門から入り、勤務先である北ノ丸の徳川清水家屋敷までは5km(往復約10km)ほどなので、わたしでも余裕で歩けるが、武蔵野の井之頭池まで往復するのはかなり疲労困憊するだろう。下落合から井之頭池までさえ、直線距離で12km近くある。往復すれば24kmだが、道路をたどって歩けば軽く30kmは超えるので、近ごろ運動不足のわたしもちょっと自信がない。
 さて、村尾嘉陵が下落合にやってきたのは、1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだった。夫が遊び歩いてばかりいるので、奥さんがブツクサ文句をいう声を背に、聞こえなかったふりをしてそそくさと家を飛びだしている。同書の、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 落合村の七曲がりに、虫の音を聞きに行くのなら、年寄りの世話をしながら一緒になどと、もとの同僚畑秀充が言っていたのは、もう十と五年も昔のことになってしまった。年を取るのは本当に早いもので、まさに一時の暇も、無駄にはできない。若い頃は日を惜しんで勤めに励み、老いてからは今の楽しみで心を養っているのは、すべて人生の最期を全うするためにである。したがって、引っ越しした所の障子や襖さえ張っていないが、「じきに冬が来るのに」と家内が心細げに言うのも聞かないふりをして、今日はことさら日射しもうららかで、とても家でおとなしくしていられるような陽気ではない。これも心を豊かにするためだとかこつけて、出かけることにした。
  
 なにやらすっごく耳が痛い、「かこつけ」が他人事とは思えない文章なのだけれど、村尾嘉陵はなんとか家を抜けだして下落合をめざしている。
御府内沿革圖書(藤稲荷).jpg
藤稲荷1955_1.jpg
藤稲荷1955_2.jpg
 このときのルートは、早稲田の水稲荷Click!(高田富士=富塚古墳Click!)から早稲田田圃を眺めながら、高田馬場(たかたのばば)Click!の南東端へと抜け、おそらく鎌倉街道を北上し面影橋(姿見橋)Click!を渡って、高田氷川社の先から雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)へと抜けて西進しているのだろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 藤稲荷の社にかつて詣でた時のことを思い起こしてみると、遥か四十年も以前のことであった。宮居も木立も昔の面影が残ってはいるものの、なにもかもの寂れた感じがする。もとは石の鳥居などなかったように思うが、今は山の入口と中ほどに二つもある。しかも中ほどにある鳥居は笠石が左に架かっている所から折れて、傍らに置かれている。これはその昔に祀った神の御心にかなわなかったので折れたのだろう、と畏れかしこまる。/ここの主(宮司のこと)はどこに行ったのだろう。女と少女とが隅の方で臼を挽いているのは、明日の月見の準備であろうか。一間の座敷に掛け物をして、机の上に三巻か四巻の文を置いてある。心得があるようだ。近くに住む者はいるのだろうか。雨が降ったり、風が強い夜などはさぞかし不安であろう。(カッコ内引用者註)
  
 このときも、藤稲荷Click!はひどく荒れていたようだ。前年の1823年(文政6)に他界した大田南畝(蜀山人)Click!の時代には、月見や虫聞きの名所として知られ風流人で賑わっていたようだが、おそらくブームが去ったのだろう。「七曲り」(坂とは限らない)へ“虫聴き”に訪れたのも、15年も前のことだと回想していることからも、それはうかがわれる。このあと、幕末には藤稲荷の滝見物や神田上水の落合蛍狩りClick!が流行し、涼を求める江戸市民たちで再びにぎわいを取りもどしている。だが、明治以降になると再び藤稲荷は荒廃しはじめ、敗戦後の1950年代まで廃社のようなありさまだった。
 村尾嘉陵は、藤稲荷が奉られた周囲の丘が、将軍家の鷹狩場である御留山Click!で立入禁止なのを、おそらく知っていただろう。だから、御留山の近くに家などないことを知悉していたので、宮司の見えない荒れた境内の宮居にいる、親子とおぼしきふたりの女性を心配しているのだとみられる。十五夜が間近なこの日、御留山を抜けてくる風は、藤稲荷の境内に立つ嘉陵には清々しかったにちがいない。
 つづいて、村尾嘉陵は薬王院へも立ち寄っているが、それはまた、次の物語……。
藤稲荷の杜.JPG
藤稲荷境内.JPG
藤稲荷太田蜀山人.JPG
 このあと、7年後の1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)にも、村尾嘉陵は上落合村大塚にある浅間社(落合富士Click!)を見物するついでに、再び藤稲荷へと立ち寄り参詣しているのだが、機会があればまた別途ご紹介したいと考えている。
                                <つづく>

◆写真上:清戸道(およそ現・目白通り)と、練馬街道が分岐する二差路の現状。長崎の古老によれば、練馬街道の入口はもう少し東寄りだったとうかがっている。
◆写真中上は、現在の目白通り。は、江戸末期に描かれた安藤広重『名所雪月花』のうち井之頭「池弁財天杜雪の景」。は、妙正寺池の現状。
◆写真中下は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した村尾嘉陵の藤稲荷までをたどる散歩コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) は、1955年(昭和30)に撮影された荒れ放題の藤稲荷社。
◆写真下は、晩秋に丘下から眺めた御留山の斜面にある藤稲荷社の杜。は、同社の境内で二の鳥居と拝殿の現状。は、大田南畝(蜀山人)の彫名がみえる眷属の台座。

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