「そいや・せいや」じゃなく「わっしょい」だろ。
地名の小塚原のことを「こずかっぱら」Click!、前原のことを「まえっぱら」、尾久のことを「おぐ」と読めない東京在住者が増えても、日暮里(旧・新堀)のことを「にっぽり」と読めない人はいないだろう。その日暮里の道灌山から諏訪台にある、諏方社(諏訪社Click!の表記ではないが、主柱は同じ出雲のタケミナカタ)の祭礼に繰りだす神輿のかけ声が、ちゃんと本来の「わっしょい」であるのを最近知ってうれしかった。...
View Article大火災のときは手ぶらで逃げろ。
大火災が発生しているとき、その周囲にいる人々の毛髪や衣服、荷物などが極度に乾燥し、火の粉がひとつぶ飛んできても発火して、たちどころに全身が火だるまClick!になってしまう現象は、関東大震災Click!でも東京大空襲Click!でも目撃された事実だ。「大火事の周辺には近づくな」という教訓は、火事が多かった江戸期からの伝承なのだろう。...
View Article目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(上)
目白駅の脇にある階段を下りた金久保沢Click!に、戦前からつづく「塩ノ屋」旅館という古いビジネス宿があった。豊坂のバッケ(崖地)Click!の陰になっていたせいか、二度にわたる山手空襲による延焼からもまぬがれ、南へ崖沿いに100mほどの細長い区画に建っていた家屋群は、戦後までそのまま焼けずに残っていた。...
View Article目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下)
高田倉庫とみられる大きな建物は、1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、目白駅(地上駅)の駅前右手、塩ノ屋旅館の敷地を含む山手線沿いの道路に面し広く建てられており、島田勝太郎の所有地に加え、線路側の鉄道院(1920年より鉄道省)の敷地も借用して建設されているとみられる。...
View Article外交官宅で行儀見習いをした女性の話。
この春から、自由学園Click!に通っていた大正期ではもっとも“進んだ”女子たちClick!のことを書いてきたが、では、当時の一般的な家庭における女子は尋常小学校を卒業すると、どのようにすごしていたのだろうか。下落合に生まれて、目白の外交官の家へ行儀見習いに入り、ほどなく商家に嫁いでいる女性の話をご紹介してみよう。...
View Article村尾嘉陵の落合散歩。(1)椎名町
遅くなってしまったが、2020年夏休みの「自由研究」は、大江戸時代(江戸後期)の落合地域がテーマだ。なぜ彼を取りあげないのかな?……と思われていた方もおられるかもしれないが、郊外散策の達人・村尾嘉陵の「落合散歩」について、まとめて記事にしてみたい。 ★...
View Article村尾嘉陵の落合散歩。(2)藤稲荷
郊外ハイキングが大好きだった村尾嘉陵Click!は、西北方面を散策するときはよく清戸道(せいどどうClick!/『高田村誌』より)=おおよそ現・目白通り)を通行することがときどきあった。石神井の三宝池Click!界隈へ遊びにいく道すがらも、清戸道から練馬街道へと抜けている。1822年(文政5)9月11日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだ。...
View Article村尾嘉陵の落合散歩。(3)薬王院
村尾嘉陵Click!が下落合の藤稲荷Click!を訪れたとき、土人(江戸期は地元民の意)の面白い声をひろっている。御留山の中腹にあたる藤稲荷社より、南側に拡がる戸塚(現・高田馬場)から、戸山、角筈(現・新宿)方面の眺望をしばらく楽しんでいたときだ。...
View Article頭にきている目白中学校の同窓会委員会。
1929年(昭和4)11月10日、目白中学校Click!の第19回同窓会総会が午前9時から「豊島園」で開かれた。当時の豊島園は、先ごろ閉園した乗り物や遊具だらけの遊園地「としまえん」とは大きく異なり、西洋館の宴会場やレストラン、プール、花壇、野外音楽堂、スポーツ施設なども備えた自然公園のような趣きだった。...
View Article「よいとまけ」が響く大正期の下落合。
下落合のモダンな住宅街が語られるとき、その多くは開発したディベロッパーの箱根土地Click!や東京土地住宅Click!、あるいは住宅を設計した遠藤新Click!や河野伝Click!、吉武東里Click!、大熊喜邦Click!などの建築家や、住宅メーカーのあめりか屋Click!などにスポットが当てられやすいが、それ以前の土木工事について語られることがほとんどない。...
View Article女優の卒業生は出禁の女子学習院。
現代ならば、卒業した母校のクラスメートに高名な人気女優がいたら、「ぜひ、同窓生が集まる会には出席してね!」となるのではないだろうか。だが、わずか100年ほど前の社会では、クラスメートから「役者ふぜい」が輩出したことを「恥辱」だとする、封建時代そのままの頑迷な偏見がつづいている学校があった。...
View Articleジッと我慢の劉生とすぐに解放の佐伯。
あまり知られていないエピソードだが、便意をひたすら抑えてトイレに駈けこむのをガマンしていた洋画家がいた。娘にあらぬことを口走り、父親の言葉に疑念を抱いた彼女が、しじゅう洋画家を監視しはじめるようになったからだ。娘とは岸田麗子Click!であり、父親の洋画家とは岸田劉生Click!のことだ。...
View Article佐伯米子アトリエを拝見する。
佐伯米子Click!が存命中で、静物画を描いてる最中に撮影したとみられる、彼女のアトリエの記録写真が残されている。その細かな情景を観察すると、佐伯祐三Click!が死去したあと、彼女の生活の一端がうかがわれて興味深い。アトリエには、静物画用のモチーフとともに、佐伯米子の愛用品がサイドテーブルや棚などに置かれており、戦後、彼女をアトリエでとらえた写真ではおなじみの品物も見えている。...
View Article下落合に住んだ国際平和運動家・上代タノ。
上代(じょうだい)タノの名は、旧・小石川区(現・文京区の一部)側の目白界隈にお住まいの方ならご存じだろう。昭和初期から、日本女子大学Click!の英文学部を牽引し、戦後は1956年(昭和31)から1965年(昭和40)まで同大学の学長をつとめた人物だ。日本で初めて、アメリカ文学の講義を行なったことでも知られている。...
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