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目白駅の脇にある階段を下りた金久保沢Click!に、戦前からつづく「塩ノ屋」旅館という古いビジネス宿があった。豊坂のバッケ(崖地)Click!の陰になっていたせいか、二度にわたる山手空襲による延焼からもまぬがれ、南へ崖沿いに100mほどの細長い区画に建っていた家屋群は、戦後までそのまま焼けずに残っていた。
その塩ノ屋旅館が、今年になって建て替え(あるいは閉業?)のために解体された。建物がなくなったせいで、その裏側のバッケ(崖地)にあった使われなくなって久しい、かなり古い時代に造られたとみられる大谷石の階段が姿を現した。豊坂を歩いていて、空き地になった塩ノ屋跡をふり返って気がついたのだ。当初は、崖上に上がる近道ために、戦前から設置されていたものだろうと気軽に考えていたのだが、その造りの古さが気になり、改めていろいろな角度から観察してみた。
豊坂稲荷(八兵衛稲荷)Click!のある豊坂は、目白駅が橋上駅化Click!される1922年(大正11)以前は、地上駅のちょうど駅前にあたる丘上に通っていた坂道だ。現在は、豊坂の下部に大谷石の擁壁が多少残っているだけで、大谷石階段のある場所も含め、大部分は戦後のコンクリート擁壁に造りかえられている。つまり、当初は諏訪谷Click!の突き当りに築かれた擁壁のように、あるいは目白文化村Click!の第四文化村Click!にみられる擁壁と同様に、崖地全体が最高所で10m前後の大谷石による擁壁で覆われていたとみられる。くだんの大谷石階段は、その構築時と同期で設置された可能性が高い。
さて、地上駅の駅前にあたる金久保沢の崖地が、自然崖の状態から豊坂を含む急斜面の崩落を防止するために、大谷石による擁壁が構築されたのはいつごろだろうか。1/10,000地形図を参照すると、1909年(明治42)の地図では自然の崖地表現のままだが、たとえば1916年(大正5)の大正初期には擁壁が築かれたのか、すでに規則性のある人工崖の表現に変更されている。つまり、豊坂下に残る大谷石の擁壁や、塩ノ屋旅館跡から出現した大谷石階段は、同旅館が開業するはるか以前の明治末ないしは大正初期、目白駅(地上駅)前に構築されたものだと推定することができる。
では、なぜこんな場所に階段が設置されたのだろうか? 明治末から大正初期の状況を踏まえながら、その理由について考察してみたい。目白駅前にあたるこの場所に、大谷石階段のニーズが生じたのには、たとえば次のような理由が考えられるだろうか。
①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地への近道のため。
②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため。
③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため。
④この階段上にあった小祠、私設稲荷、墓地などへ参詣するための参道階段として。
⑤単純に豊坂の中途にある、学習院から移転後の豊坂稲荷への参道階段として。
この中で、④と⑤はかなり考えにくい。江戸期から明治期にかけての金久保沢界隈は、下落合村と高田村の入会地であり、周辺農家の墓地が設置される可能性は低いし、そのような記録は見たことがない。また、大谷石階段の上にあたる地点、すなわち高田村金久保沢1129番地(現・目白3丁目1番地)は、明治期から個人の所有地(地主:島田家)であり、古くからの小祠や勧請された稲荷があったという記録も見えない。さらに、坂の途中にある豊坂稲荷と大谷石階段とは直線距離で30mほど大きくずれており、参道が目的の階段であればもう少し坂下に設置するだろう。大谷石階段は明らかに坂の上へとのぼり、丘上の下落合方面へと抜ける目的で造られたとみられる。
では、「①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地へ近道のため」の可能性はどうだろうか? 中村彝Click!が1916年(大正5)、下落合464番地へアトリエを建設する以前から、豊坂を上がった丘上に熊岡美彦Click!のアトリエが建っていたことを、彝アトリエの竣工直後に訪問した鈴木良三Click!が証言している。つまり、大正の最初期から豊坂の丘上で、すでに宅地開発が行われていた可能性が高いのだ。山手線・目白駅(地上駅)前にあたるこの丘上は、当時としては格好の郊外住宅地だったろう。
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当時、地上駅の改札を出た人が丘上へとのぼるためには、改札の右手(北側)にある豊坂の下までわざわざ大きくまわりこんで、遠まわりをしなければならなかった。地上駅の改札から、豊坂経由でグルリと迂回して丘上に出るまではおよそ130mだが、大谷石階段をあがれば同じ坂上の地点まで半分以下の50m余でたどり着くことができる。大正初期に行われた宅地造成と、ショートカットの大谷石階段とは深い関連がありそうだ。
高田村の金久保沢一帯の土地は、大正初期の時点で東京土地住宅Click!や箱根土地Click!など大手ディベロッパーが入りこむ余地がなく、鉄道院が買収した一部用地を除けば、ほとんどが高田村の有力者たちの所有地だった。少し名前を挙げてみると、こちらの記事でも登場している新倉徳三郎Click!をはじめ、島田勝太郎、島田定吉、島田鎌吉、清水精三郎、島田熊、田嶋三郎、新倉彦太郎などの名前が見える。この中で、豊坂下の塩ノ屋旅館のあった敷地(山手線寄りは鉄道院敷地)を所有していたのは島田勝太郎であり、豊坂の両側は島田定吉、大谷石階段の上は島田鎌吉の所有地となっている。これら高田村の有力者たちの人名は、豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣でも確認することができ、学習院の敷地から遷座してきた同稲荷自体の境内も、島田家が敷地を提供したと思われる。
高田村の大地主だった島田勝太郎について、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社)から引用してみよう。なお、島田勝太郎の自宅は明治期から高田村大原1665番地(現・目白2丁目)の、いまでいえば川村学園の裏あたりにあった。
▼
豊島区会議員 土地賃貸価格調査委員 島田勝太郎 目白町2丁目1665番地
氏は明治十九年土地の名門島田家の嗣子として現住所に生れ、若冠十九歳にして家督を継いだ、大正十年には推されて高田町会議員となり爾来再選せられて昭和七年十月市郡併合まで引続きその職に在つた、昭和七年十月の第一次豊島区会議員選挙にも推されて立候補当選し後ち区学務委員に挙げられた。/昭和十一年十一月の区会議員改選に際しても再び推されて当選し現に保健衛生委員、根津山聖蹟保存委員等を兼ね豊島区内に於て隠然たる声望を有して居る、亦昭和十二年八月には土地賃貸価格調査委員に推されて当選した。
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この島田家が、八兵衛稲荷社の遷座あるいは目白駅(地上駅)前の宅地開発に関連して、豊坂沿いの大谷石による擁壁を構築し、同時に丘上へと抜けられる近道の大谷石階段を設置したと考えるのは、非常にリアルな推測だろう。だが、この大谷石階段は1916年(大正5)になると、駅前の大規模な施設の裏側に隠れてしまうことになる。山手線の目白貨物駅Click!にとどく荷を集積する、物流拠点としての高田倉庫が建設されるからだ。
そこで、「②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため」について考えてみよう。大谷石階段が、目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発ニーズから設置されたものでなく、1916年(大正5)の高田倉庫(収容面積100坪)の建設とシンクロして設置されたと仮定すると、その目的はなんだろうか?
高田倉庫には1921年(大正10)ごろになると、通信の重要性が増したのか自動電話が設置されている。物流拠点としての高田倉庫の建設について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』より、当該箇所を引用してみよう。
▼
高田倉庫株式会社
大正五年十二月二日の開庫に係り、其急転直下の発展は寔に目ざましいものである 即ち之が土地の発展進歩を伴ふて、趨勢の止むべからざるものがあつて茲に設立せ(ママ:ら)れたると、且は之を利用して利徳の多大なるものがあるため、加ふるに高田倉庫を経営発展せしむるのに、適当なる適任人物を得たることによる。/而して此高田倉庫の設立せられた由来を訊ぬるに、土地そのものゝ進歩につれて本村有志、就中高田銀行の株主と其提携を同じうして、二者の関係は頗る密接離るべからざる関係である。(中略) 倉庫としては目白駅前に二棟(百坪)、池袋駅に数棟(百数十坪)とを有し、何れも大倉庫であることは世人の夙に知悉してゐる所である、開庫以来今日に到る、倉庫は常に充満の体である、現在も在荷なほ十数万円の価格に昇り、輻輳として取引怱忙を極めてゐる、寄託物の種類は種々の商品であるが、穀類即ち米雑穀等を其大部分としてゐる。(カッコ内引用者註)
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高田倉庫の役員には、吉倉清太郎や篠房輔、足達安右衛門、一杉平五郎、天田隣八、大塚藤平、新倉徳三郎などの名前があるが、敷地の半分以上を所有する島田勝太郎の名前がない。文中にもあるが、地主系の人脈ではなく高田農商銀行Click!(当時「高田銀行」と表記されることが多い)の頭取や大株主など、高田村の金融系の有力者が名を連ねている。
<つづく>
◆写真上:塩ノ屋旅館の解体で出現した、大正初期の構築とみられる大谷石階段。
◆写真中上:上は、解体される前の塩ノ屋旅館の門前と豊坂。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる二度の山手空襲から焼け残った豊坂沿いの一画。下は、上空から見た解体前の塩ノ屋旅館および塩谷邸と大谷石階段。(Google Earthより)
◆写真中下:上は、1906年(明治39)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)の駅前。学習院の構内から八兵衛稲荷(豊坂稲荷)が遷座する前年の地図で、豊坂も存在せず地形は自然の崖線表現で描かれている。中は、崖地周辺の土地を所有していた島田勝太郎(左)と、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社/右)。下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる豊坂とその周辺。駅前には高田倉庫が建設され、擁壁が築かれたとみられる豊坂沿いの上には遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)の鳥居が採取されている。
◆写真下:上は、ところどころに修復跡が見える豊坂から眺めた大谷石階段。中は、1919年(大正8)に制作された高田倉庫の媒体広告。下は、別角度から見た大谷石階段。
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目白駅の脇にある階段を下りた金久保沢Click!に、戦前からつづく「塩ノ屋」旅館という古いビジネス宿があった。豊坂のバッケ(崖地)Click!の陰になっていたせいか、二度にわたる山手空襲による延焼からもまぬがれ、南へ崖沿いに100mほどの細長い区画に建っていた家屋群は、戦後までそのまま焼けずに残っていた。
その塩ノ屋旅館が、今年になって建て替え(あるいは閉業?)のために解体された。建物がなくなったせいで、その裏側のバッケ(崖地)にあった使われなくなって久しい、かなり古い時代に造られたとみられる大谷石の階段が姿を現した。豊坂を歩いていて、空き地になった塩ノ屋跡をふり返って気がついたのだ。当初は、崖上に上がる近道ために、戦前から設置されていたものだろうと気軽に考えていたのだが、その造りの古さが気になり、改めていろいろな角度から観察してみた。
豊坂稲荷(八兵衛稲荷)Click!のある豊坂は、目白駅が橋上駅化Click!される1922年(大正11)以前は、地上駅のちょうど駅前にあたる丘上に通っていた坂道だ。現在は、豊坂の下部に大谷石の擁壁が多少残っているだけで、大谷石階段のある場所も含め、大部分は戦後のコンクリート擁壁に造りかえられている。つまり、当初は諏訪谷Click!の突き当りに築かれた擁壁のように、あるいは目白文化村Click!の第四文化村Click!にみられる擁壁と同様に、崖地全体が最高所で10m前後の大谷石による擁壁で覆われていたとみられる。くだんの大谷石階段は、その構築時と同期で設置された可能性が高い。
さて、地上駅の駅前にあたる金久保沢の崖地が、自然崖の状態から豊坂を含む急斜面の崩落を防止するために、大谷石による擁壁が構築されたのはいつごろだろうか。1/10,000地形図を参照すると、1909年(明治42)の地図では自然の崖地表現のままだが、たとえば1916年(大正5)の大正初期には擁壁が築かれたのか、すでに規則性のある人工崖の表現に変更されている。つまり、豊坂下に残る大谷石の擁壁や、塩ノ屋旅館跡から出現した大谷石階段は、同旅館が開業するはるか以前の明治末ないしは大正初期、目白駅(地上駅)前に構築されたものだと推定することができる。
では、なぜこんな場所に階段が設置されたのだろうか? 明治末から大正初期の状況を踏まえながら、その理由について考察してみたい。目白駅前にあたるこの場所に、大谷石階段のニーズが生じたのには、たとえば次のような理由が考えられるだろうか。
①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地への近道のため。
②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため。
③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため。
④この階段上にあった小祠、私設稲荷、墓地などへ参詣するための参道階段として。
⑤単純に豊坂の中途にある、学習院から移転後の豊坂稲荷への参道階段として。
この中で、④と⑤はかなり考えにくい。江戸期から明治期にかけての金久保沢界隈は、下落合村と高田村の入会地であり、周辺農家の墓地が設置される可能性は低いし、そのような記録は見たことがない。また、大谷石階段の上にあたる地点、すなわち高田村金久保沢1129番地(現・目白3丁目1番地)は、明治期から個人の所有地(地主:島田家)であり、古くからの小祠や勧請された稲荷があったという記録も見えない。さらに、坂の途中にある豊坂稲荷と大谷石階段とは直線距離で30mほど大きくずれており、参道が目的の階段であればもう少し坂下に設置するだろう。大谷石階段は明らかに坂の上へとのぼり、丘上の下落合方面へと抜ける目的で造られたとみられる。
では、「①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地へ近道のため」の可能性はどうだろうか? 中村彝Click!が1916年(大正5)、下落合464番地へアトリエを建設する以前から、豊坂を上がった丘上に熊岡美彦Click!のアトリエが建っていたことを、彝アトリエの竣工直後に訪問した鈴木良三Click!が証言している。つまり、大正の最初期から豊坂の丘上で、すでに宅地開発が行われていた可能性が高いのだ。山手線・目白駅(地上駅)前にあたるこの丘上は、当時としては格好の郊外住宅地だったろう。
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当時、地上駅の改札を出た人が丘上へとのぼるためには、改札の右手(北側)にある豊坂の下までわざわざ大きくまわりこんで、遠まわりをしなければならなかった。地上駅の改札から、豊坂経由でグルリと迂回して丘上に出るまではおよそ130mだが、大谷石階段をあがれば同じ坂上の地点まで半分以下の50m余でたどり着くことができる。大正初期に行われた宅地造成と、ショートカットの大谷石階段とは深い関連がありそうだ。
高田村の金久保沢一帯の土地は、大正初期の時点で東京土地住宅Click!や箱根土地Click!など大手ディベロッパーが入りこむ余地がなく、鉄道院が買収した一部用地を除けば、ほとんどが高田村の有力者たちの所有地だった。少し名前を挙げてみると、こちらの記事でも登場している新倉徳三郎Click!をはじめ、島田勝太郎、島田定吉、島田鎌吉、清水精三郎、島田熊、田嶋三郎、新倉彦太郎などの名前が見える。この中で、豊坂下の塩ノ屋旅館のあった敷地(山手線寄りは鉄道院敷地)を所有していたのは島田勝太郎であり、豊坂の両側は島田定吉、大谷石階段の上は島田鎌吉の所有地となっている。これら高田村の有力者たちの人名は、豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣でも確認することができ、学習院の敷地から遷座してきた同稲荷自体の境内も、島田家が敷地を提供したと思われる。
高田村の大地主だった島田勝太郎について、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社)から引用してみよう。なお、島田勝太郎の自宅は明治期から高田村大原1665番地(現・目白2丁目)の、いまでいえば川村学園の裏あたりにあった。
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豊島区会議員 土地賃貸価格調査委員 島田勝太郎 目白町2丁目1665番地
氏は明治十九年土地の名門島田家の嗣子として現住所に生れ、若冠十九歳にして家督を継いだ、大正十年には推されて高田町会議員となり爾来再選せられて昭和七年十月市郡併合まで引続きその職に在つた、昭和七年十月の第一次豊島区会議員選挙にも推されて立候補当選し後ち区学務委員に挙げられた。/昭和十一年十一月の区会議員改選に際しても再び推されて当選し現に保健衛生委員、根津山聖蹟保存委員等を兼ね豊島区内に於て隠然たる声望を有して居る、亦昭和十二年八月には土地賃貸価格調査委員に推されて当選した。
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この島田家が、八兵衛稲荷社の遷座あるいは目白駅(地上駅)前の宅地開発に関連して、豊坂沿いの大谷石による擁壁を構築し、同時に丘上へと抜けられる近道の大谷石階段を設置したと考えるのは、非常にリアルな推測だろう。だが、この大谷石階段は1916年(大正5)になると、駅前の大規模な施設の裏側に隠れてしまうことになる。山手線の目白貨物駅Click!にとどく荷を集積する、物流拠点としての高田倉庫が建設されるからだ。
そこで、「②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため」について考えてみよう。大谷石階段が、目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発ニーズから設置されたものでなく、1916年(大正5)の高田倉庫(収容面積100坪)の建設とシンクロして設置されたと仮定すると、その目的はなんだろうか?
高田倉庫には1921年(大正10)ごろになると、通信の重要性が増したのか自動電話が設置されている。物流拠点としての高田倉庫の建設について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』より、当該箇所を引用してみよう。
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高田倉庫株式会社
大正五年十二月二日の開庫に係り、其急転直下の発展は寔に目ざましいものである 即ち之が土地の発展進歩を伴ふて、趨勢の止むべからざるものがあつて茲に設立せ(ママ:ら)れたると、且は之を利用して利徳の多大なるものがあるため、加ふるに高田倉庫を経営発展せしむるのに、適当なる適任人物を得たることによる。/而して此高田倉庫の設立せられた由来を訊ぬるに、土地そのものゝ進歩につれて本村有志、就中高田銀行の株主と其提携を同じうして、二者の関係は頗る密接離るべからざる関係である。(中略) 倉庫としては目白駅前に二棟(百坪)、池袋駅に数棟(百数十坪)とを有し、何れも大倉庫であることは世人の夙に知悉してゐる所である、開庫以来今日に到る、倉庫は常に充満の体である、現在も在荷なほ十数万円の価格に昇り、輻輳として取引怱忙を極めてゐる、寄託物の種類は種々の商品であるが、穀類即ち米雑穀等を其大部分としてゐる。(カッコ内引用者註)
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高田倉庫の役員には、吉倉清太郎や篠房輔、足達安右衛門、一杉平五郎、天田隣八、大塚藤平、新倉徳三郎などの名前があるが、敷地の半分以上を所有する島田勝太郎の名前がない。文中にもあるが、地主系の人脈ではなく高田農商銀行Click!(当時「高田銀行」と表記されることが多い)の頭取や大株主など、高田村の金融系の有力者が名を連ねている。
<つづく>
◆写真上:塩ノ屋旅館の解体で出現した、大正初期の構築とみられる大谷石階段。
◆写真中上:上は、解体される前の塩ノ屋旅館の門前と豊坂。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる二度の山手空襲から焼け残った豊坂沿いの一画。下は、上空から見た解体前の塩ノ屋旅館および塩谷邸と大谷石階段。(Google Earthより)
◆写真中下:上は、1906年(明治39)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)の駅前。学習院の構内から八兵衛稲荷(豊坂稲荷)が遷座する前年の地図で、豊坂も存在せず地形は自然の崖線表現で描かれている。中は、崖地周辺の土地を所有していた島田勝太郎(左)と、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社/右)。下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる豊坂とその周辺。駅前には高田倉庫が建設され、擁壁が築かれたとみられる豊坂沿いの上には遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)の鳥居が採取されている。
◆写真下:上は、ところどころに修復跡が見える豊坂から眺めた大谷石階段。中は、1919年(大正8)に制作された高田倉庫の媒体広告。下は、別角度から見た大谷石階段。