Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下)

$
0
0
大谷石階段4.JPG
 高田倉庫とみられる大きな建物は、1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、目白駅(地上駅)の駅前右手、塩ノ屋旅館の敷地を含む山手線沿いの道路に面し広く建てられており、島田勝太郎の所有地に加え、線路側の鉄道院(1920年より鉄道省)の敷地も借用して建設されているとみられる。
 『高田村誌』には2棟(100坪)と書かれているが、1/10,000地形図に採取された建物の形状は「コ」の字型をしており、中央の繋がった部分が高田倉庫の事務オフィスで、その両側(東西)に2棟の倉庫が建っているように見える。
 しかし、倉庫の荷は山手線の側から、すなわち目白貨物駅Click!に到着した荷物は目白駅(地上駅)北側の踏み切りをわたり、東側から運搬されて倉入れされ、逆のケースでも東側へ倉出しされて物流ルートに乗せるか、あるいは付近の拠点に向けて配送されるのであって、高田倉庫の裏側、つまり西側に階段を設置する意味がわからない。西側の丘上は、大正半ばにはすでに宅地化が進んでおり、やはり大谷石階段Click!は高田倉庫の建設以前から、既存のものとしてそこに設置されていた……と解釈するほうが合理的だろうか。
 ただひとつ、階段設置の可能性をひねりだすとすれば、高田倉庫には小型クレーンのような物流重機が庫内の設備として設置されており、それを稼働させる高圧電流が必要だったと考えることはできる。それには鉄道(山手線)側、あるいはさらに東側にある東京電燈の高圧線(早稲田変電所Click!)から支線を引きこまなければならず、大谷石階段の上には小型の受変電設備(電源小屋)が設置されていた……という推測も成り立つだろうか。1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、階段の崖上と思われる位置に小屋のような、小さな建築物を確認することができる。大谷石階段は、同受変電設備をメンテナンスするための保守要員が上る階段ということになる。だが、これはあくまで推測にすぎず、なんら裏づけとなる資料も証言も存在していない。
 高田倉庫は大正末になると、元の位置から南へ移転して倉庫の数も増え、庫内面積も飛躍的に増大している。目白駅が橋上駅化Click!された1922年(大正11)以降に移転しているとみられ、元の倉庫があった位置には、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」によると外山運送店と鉄道荷物司護所が、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」によれば内田通運や高田石材店、社宅、個人邸などが建ち並び、鉄道省の用地には鉄道荷物司護所あらため鉄道小荷物預り所が開設されている。
 ただし、1916年(大正5)に高田倉庫が設置されたあとも、目白駅(地上駅)前のすぐ目の前に位置する大谷石階段は、そのまま丘上に出られる近道として使われていたのかもしれない。なぜなら、階段の左手には鉄の手すりを取りつけたとみられる跡が残り、また階段右手の擁壁を大谷石からコンクリートに改築する際(現在のコンクリート擁壁より、一時代前のコンクリート擁壁)、階段の右端の擁壁側をコンクリートで継ぎ足しているからだ。その時点で、大谷石の階段が使用されておらず用済みであったなら、そんなていねいで細かな施工は必要なかっただろう。むしろ、階段ごと撤去されてもおかしくはなかった。
目白駅前1921.jpg
大谷石階段5.JPG
大谷石階段6.JPG
 もうひとつの、「③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため」という仮定はどうだろうか? 先ののテーマとも重なってくるが、宅地開発には近くの高圧線から電力線(変圧して電燈線)Click!用の支線を引いて、目白文化村Click!のような共同溝でもない限り電柱を建てなければならない。下落合(中落合・中井含む)の東部は、目白崖線の通う南側には東京電燈谷村線Click!から引かれた「氷川線」Click!が、同じく北側には椎名町方面の高圧線から引かれた「近衛線」が通っている。(その境界となる七曲坂Click!には、氷川線から引かれたとみられる七曲支線が通う) ところが、金久保沢から丘上にかけては氷川線でも近衛線でもなく、「白鳥支線」が引かれているのだ。
 「白鳥線」とは、その名のとおり早稲田変電所から白鳥池があった江戸川橋や大曲の白鳥橋界隈へとのびる電力線であり、その支線とみられるラインが山手線を越えて、西側の目白駅周辺までとどいていたことになる。ただし、早稲田変電所のある山手線の内側(東側)から、山手線の外側(西側)である目白駅(地上駅)前に電力線を引くには、貨物駅も設置された幅が広い山手線を横断しなければならない。
 ある程度の高度をもった電柱が、たとえば山手線東側の椿坂Click!沿いに連なっていたとすれば、その高度を維持しながら目白貨物駅を経由して山手線西側に引き入れる際には、やはりある程度高度のある場所が必要となりそうだ。地上駅には跨線橋も架かっていたので、駅舎やホームなどの建造物をまたぐには(跨線橋を利用した可能性もある)、西側の高い位置に受変電の設備小屋を設置するのが、都合がいいし効率的かつ合理的だろうか。
 すなわち、丘上の住宅地に供給する電燈線用の受変電設備が、大谷石階段の上に設けられていなかったか?……という想定だ。この階段の上に、小さな建築物が確認できる大正中期と、丘上の住宅が増えていく時期がほぼシンクロしている点にも着目したい。ただし、そのような小屋に収まるほどのコンパクトな高圧線の受変電設備が、はたして大正の初期から中期にかけて存在したのかどうかという疑問は残るが、当時の工場などに引かれる高圧線の設備を考えると、あながち空想の物語ではないような気がするのだ。
 さて、この階段の役割として、先に①~⑤の理由を挙げてみたけれど、いちばんリアルなのは明治末から大正初期あたりに行われた丘上の宅地開発だろうか。そして、目白駅(地上駅)前に高田倉庫が開業してからも、目白駅(地上駅)前から丘上へと抜けられるショートカットとして同階段は利用されていたが、1922年(大正11)以降に目白駅が橋上駅化され、ここが駅前ではなくなり高田倉庫も南へ移転している時点ではどうだったのだろう。
目白駅前1926.jpg
大谷石階段7.JPG
白鳥支線電柱.jpg
 大正末から昭和初期にかけ、いくつかの企業や個人邸が建ち並んでいた時期にも、この大谷石階段はそのエリアに建っていた土屋邸や小笠原邸、岡村邸、梶原邸、そして高田石材店などの人々には利用されていたかもしれないが、すでに丘上にのぼるには豊坂の利用が一般化していたにちがいない。なぜなら、目白駅(橋上駅)の改札は、狭めの駅前広場とともに目白橋の西詰めにあり、下落合方面へ抜けるには住宅や社宅の中にある同階段を利用するよりも、豊坂を上がったほうが効率的だからだ。そしてなによりも、このエリアにあった個人邸や企業は、目白駅や目白通りへ向かう必然性はあっても、逆に西側の丘上にのぼらなければならない用事が頻繁にあったとは思えない。
 さらに、戦前に塩ノ屋旅館が開業した時点で、大谷石階段のある敷地は塩谷家の所有地となり、東側半分にあたる線路沿いの道路に面した鉄道省用地は、鉄道小荷物預り所から国鉄の職員公舎となった。この時点で、大谷石階段は私有地に閉じこめられた存在となり、塩谷家の人々(あるいは宿泊客)以外に誰も利用することができなくなったのだろう。塩ノ屋旅館は空襲でも延焼していないので、同旅館の解体で大谷石階段の全体像が姿を現したのは、おそらく80~90年ぶりぐらいではないだろうか。
 戦後の一時期、大正末には加藤邸だった階段上の敷地(旧・目白町3丁目1138番地)に、塩ノ屋と同じ業種の旅館「花村」が開業している。現在の花ノ山ビルの位置で、栄光ゼミナールが入居している建物だ。この旅館花村と塩ノ屋旅館が、同一の経営者であれば大谷石階段を再利用したのかもしれないが、旅館花村は神林家の敷地内に建てられているように見えるので、両旅館の経営者は別なのだろう。旅館花村の跡地には花ノ山ビルが、神林邸の敷地には低層マンションの「グッドストック目白」が建設されている。
 さて、塩ノ屋旅館が解体された現在、丘上に通う大谷石階段の全体像がよく見えるわけだが、観察しているうちに単純な疑問が湧いてくる。階段の左横に付属していたとみられる、鉄製の手すりは取り外されて久しいとみられるのに、階段自体が撤去されていないことだ。この階段を撤去してしまうとマズイことになる、たとえば土木の構造力学上から擁壁の強度が脆弱になり、丘上にある花ノ山ビルの敷地が崩落する危険性があるのだろうか。
大谷石階段(花村旅館)1967.jpg
目白駅1974.jpg
塩ノ旅館階段Google.jpg
 もし、大谷石階段が豊坂の側面に連なる大谷石製の擁壁(現在は坂下に一部が残るのみで、大部分はコンクリート擁壁に再構築されている)と不可分一体のもとに設計・施工され、その強度を補強し耐久性を高める目的で設置されたのだとすれば、やはり明治末から大正初期に行われた目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発の際に、すなわち豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の遷座(1907年)とシンクロして豊坂を拓いた大谷石擁壁の構築と同時に、大谷石階段も設置された可能性が高いということになるだろう。いまから、110年ほど前の出来事だった。
                                   <了>

◆写真上:側面から眺めた大谷石階段で、いまだ頑丈な石組みはゆがんでいない。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)前の様子。は、大谷石階段のクローズアップ。階段の左手には、鉄柵を設置したと思われる支柱や金具、右手には外灯跡らしい突起物が残っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる橋上駅の下になってしまった同所。は、当初は右手の大谷石擁壁を支える一部だったとみられる大谷石階段。は、豊坂から丘上にかけて引かれた「目白支線」の電柱。
◆写真下は、1967年(昭和42)の「住宅明細図」にみる塩ノ屋と旅館花村の位置関係。は、1974年(昭和49)の空中写真にみる同所。は、Google Mapの空中写真より。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles