村尾嘉陵Click!は、1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)に上落合村大塚にあった落合富士Click!=浅間塚古墳のあたりを散策している。落合富士=浅間塚は、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事の際に玄室や羨道の石材が出土し(おそらく房総半島の房州石Click!製)、小規模な古墳だったことが判明している。「大塚」という小名(字名)は、この小さな古墳があったからではなく、より大規模な古墳の存在からつけられた可能性があることについては、すでに記事Click!にしている。
浅間塚へ向かう途中、先にご紹介した藤稲荷Click!や七曲坂Click!の麓に通う道、薬王院へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)を西へ向かって歩いているのは、村尾嘉陵が藤稲荷へもう一度参詣したくなったからのようだ。そのときの道筋の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「高田村天満宮詣の記 附、上高田村仙元塚(浅間塚)」から引用してみよう。
ちなみに高田天満宮とは、現在では早稲田大学キャンパスに隣接していた富塚古墳Click!から、幕府の高田馬場(たかたのばば)Click!の北側、甘泉園の西側へと遷座した水稲荷社Click!の境内にある北野天神社のことで、もともとは高田八幡社(穴八幡)Click!に隣接していた社だった。また、村尾嘉陵は本文中で目的地の上落合村を訪れている事実を記しているにもかかわらず、タイトルには「上高田村」と誤記している。
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(前略)高田天満宮に詣でてから、未の刻を過ぎる頃に、寺の門を出て、(高田)馬場のそばから砂利場を横切って藤稲荷に詣でる。その後、山裾にある田圃の緑を西に行き、氷川の木立を左に見て、下落合の薬王院の前を過ぎる。さらに、同村の民戸のある所を行き過ぎて、伊草(井草)の用水路に架かっている橋を渡り、畦道を歩く。上落合村の石地蔵のある所から少し爪先上がりの小径を登って、曲がりくねった一筋の本道に出る。この道の北側にある浅間塚に詣でる。(カッコ内引用者註)
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百八塚Click!のひとつとみられる浅間塚(落合富士)だが、村尾嘉陵は藤稲荷に寄りたいがため、幕府練兵場の高田馬場Click!から下落合村を経由して上落合村まで、北側を大きく迂回するルートをたどっていたことがわかる。浅間塚のみをめざすなら、高田馬場からそのまま街道(現・早稲田通り)を西へ向かい、源兵衛村から戸塚村をへて、神田上水の小滝橋Click!をわたれば上落合村なのでよほどの近道となる。文中で「一筋の本道」と書かれているのが、現在の早稲田通りのことだ。
「同村の民戸のある所」は、七曲坂Click!の下から西坂Click!の下あたりまでつづく下落合村の中心だった「本村」Click!のことだ。また、下落合村側から見れば「井草流」、上落合村側からは「北川」Click!と呼ばれた妙正寺川をわたる橋は、泰雲寺の了然尼Click!が建立したといわれる比丘尼橋(西ノ橋)Click!だ。
もうひとつ、上落合村の入り口あたりでも、田圃に引かれた灌漑用水に架かる小さな「もどり橋」Click!をわたったはずで、その橋の近くには文中にもあるとおり石地蔵が奉られていた。この上落合の地蔵尊は、もどり橋跡の近くに現存している。「爪先上がりの小径」と書かれている道は、上落合村でも古い坂である鶏鳴坂Click!のことだろう。
さて、上落合村に拡がる田圃の様子は、先ごろ三宅克己Click!が描いた『落合村』Click!の風景と、大差ない光景だったと思われる。その田圃の畦道から、少しずつ斜面を道なりに上っていくと、「一筋の本道」すなわち現在の早稲田通りにあたる街道へと抜けられる。その「本道」の北側、のちの住所でいうと上落合607番地(現・上落合2丁目29番地あたり)に、浅間塚古墳(落合富士)と浅間社の小さなゃで社殿が建立されていた。もっとも、同地番のほとんどは現在、山手通りの下になってしまっている。
つづけて、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』から引用してみよう。
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この塚は樹木の茂っている中に、やや土を高く盛り上げ、石像の浅間大菩薩を建ててあるものである。台石は、高さ六、七尺で、塚の四面には杉の木が立ち茂っている。/その塚の北側の裾には稲荷の社があり、山の前にも小祠がある。この祠は浅間の祠であろう。鳥居は倒れており、片付ける者もいないとみえ、草むらに転がったままである。その近くに石塔婆が一基あり、「天和四年(1684年)五月、八右衛門何々」などと、四人の名前が彫り付けてある。これは最初に建立した時の供養塔であろう。浅間塚全体の高さは、平地から二丈(約6m強)ほどもあるであろうか。(カッコ内引用者註)
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この時期、富士講の「月三講社」Click!は、浅間塚古墳の山頂に富士山の溶岩を積み上げ落合富士(寛政年間に築造)にしていたはずだが、村尾嘉陵は富士塚Click!について言及はしていない。いくつか記録されている石塔や祠の中には、おそらく室町期に百八塚の昌蓮Click!が設置したものも含まれているのだろう。
村尾嘉陵が訪れた下落合の藤稲荷と同様に、浅間稲荷社の鳥居も倒れていて手入れがなされていない様子がうかがえる。1911年(明治44)に撮影された浅間社と浅間塚古墳(落合富士)の写真が現存しているが、石造りの鳥居や手水舎が写っているので、明治以降に修繕されたか、あるいは新たな鳥居が建立されたものだろう。
また、村尾嘉陵は上落合村の「本道」、すなわち現在の早稲田通り沿いの様子も記録している。つづけて、同書より引用してみよう。
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この本道に面して、所々に家があるけれども、いずれも農家と商家とを兼ねている。家には蔵があり、貧しそうな家はない。通りから引っ込んでいる民家にも貧しそうに見える家はない。大根の漬物を作って、都心に運ぶのであろう。たくさんの樽を積み重ねている家がある。この通りは、高田馬場から西に向かっている下戸塚村の橋通りで、中野通り、青梅街道の裏道である。もっと先で中野の大通りと一つになっている、と地元の人が言っていた。この辺りから下戸塚村の橋までは十二、三丁ほど、高田馬場までは一里という。
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江戸期から、落合大根Click!による沢庵漬けの製造が盛んだった様子がうかがえる。明治期から大正初期のころまで、落合大根の沢庵漬けは“ブランド”商品化し、最盛期には陸軍への大量納品や米国のハワイにまで輸出されていた。
「下戸塚村の橋通り」という、現在では耳慣れない言葉が出てくるけれど、これは下戸塚村ではなく上戸塚村に架かる神田上水の小滝橋Click!のことだ。浅間塚から小滝橋まで、およそ「九、十丁ほど」(約900m~1km)だろうか。また、上落合村の浅間塚から幕府の高田馬場までは、およそ3kmほどで「一里(約4km)」はない。
村尾嘉陵が浅間塚を訪ねるきっかけになったのは、「かつて四谷町のはずれにできた富士見の茶屋から西北の方に見える杉のこずえ」が気になったからだという。ここでいう「四谷町」は、現在の新宿区にある四谷のことではなく、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』Click!で有名になった「お岩さん」の住む高田村の四谷町(四家町)のことだ。そして、「富士見の茶屋」とは、現在は学習院のキャンパス内に跡がある、地元の歌人・清風が建てた「富士見茶家(珍珍亭)」Click!のことで、嘉陵は店にいた女へ遠くに見える小高い杉木立ちはなにかと訊ねている。
富士見茶家にいたのは、「媼」と書いているので歳をとった女性なのだろう、「あれは浅間塚の杉ですよ」と答えている。彼女が30年後の“お藤ちゃん”Click!だったかどうかは定かではないがw、落合富士を眺めながら新井薬師にも詣でてみたくなる村尾嘉陵だった。
<了>
◆写真上:いまは月見岡八幡社の境内に移設された、浅間塚(落合富士)の山頂部。
◆写真中上:上は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した下落合村の散策コース。中は、同様に上落合村の散策コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) 下は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる浅間塚。
◆写真中下:上は、村尾嘉陵が書く“もどり橋”跡の近くに現存する地蔵尊。左の立像は新しく、嘉陵が目にした当時からのものは中の碑と右側の石像だろう。中は、戦後に80mほど遷座している月見岡八幡社の拝殿。下は、同社境内にある落合富士の山頂部。
◆写真下:上は、1911年(明治44)に撮影された浅間塚古墳(落合富士)。中は、戦前に撮影された同塚。下は、左手のビルから山手通りにかけて拡がる浅間塚古墳跡。