現代ならば、卒業した母校のクラスメートに高名な人気女優がいたら、「ぜひ、同窓生が集まる会には出席してね!」となるのではないだろうか。だが、わずか100年ほど前の社会では、クラスメートから「役者ふぜい」が輩出したことを「恥辱」だとする、封建時代そのままの頑迷な偏見がつづいている学校があった。
明治末からデモクラシーの大正期を迎えても、そのように時代遅れなことをいっていたのは、華族女学校(1906年より女子学習院Click!)だ。明治後期には、すでに舞台における重要な芸術表現のひとつになっていたはずの新劇俳優たちを、学習院Click!と女子学習院Click!の院長を兼務していた乃木希典Click!は、ことさら「河原乞食」と呼んで蔑んだ。
欧米戯曲の積極的な翻訳をはじめ、シェークスピアやイプセンなど坪内逍遥Click!を筆頭に日本における新劇表現の研究や可能性、舞台における演劇全般の近代化を推進し、新たな芸術分野の開拓と確立へ積極的に取り組んでいた、学習院から南東へ1.3kmほどのところにある大学の大隈重信Click!がそれを聞いたら、乃木のいる院長室へ「きさま、なんばいうか!」と怒鳴りこんでいたかもしれない。
卒業した母校の女子学習院から、正式な同窓会の集まり以外はキャンパスへいっさいの出入り禁止をいいわたされたのは、当時の新劇界では人気女優のひとりだった山川浦路だ。彼女は、1885年(明治18)に旗本の旧家に生まれ、1911年(明治44)に女子学習院を卒業すると、夫で早稲田大学の学生だった上山草人(のち新劇俳優)と結婚し(女子学習院に在学中、長女を出産している)、坪内逍遥が設立した文芸協会に参加している。その後、夫婦で文芸協会を脱会して近代劇協会を創立した。
おそらく、乃木希典Click!が「河原乞食」と蔑視した背景には、在学中に学生結婚をして子どもを生んだことも含め、当時の言葉でいうならば、彼女の「貞淑」とは正反対だった「新しい女」の自由な生き方そのものが、気に入らなかったのではないだろうか。まるで、現代女優のように身長が170cmほどあった山川浦路は、乃木院長を見下ろしていたのもシャクに触わったのかもしれない。また、女学生の中でもスラリとひときわ目立っていた彼女の容姿に、嫉妬していた同級生も少なくなかったのではないか。
正式な同窓会の集まり(それにも条件が付与された)以外の親睦会や茶話会、講演会、旧友会などは、すべて出禁になってしまった当時の様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』収録の、山川浦路「同級会の圧迫」から引用してみよう。『今の女』は、明治末から大正初期にかけ、さまざまな領域で活躍している女性たちに取材した、20世紀初頭のフロントランナー・インタビュー集といった内容だ。
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『最近の事ですが、華族女学校同級会の幹事から、二尋もある御手紙が来ましたから、何の事かと、開いて見ると、マー聞いて下さい。/今回、同級会の決議に由り、今後、同級会以外の会合には、御出席御断り申候。/ですって、私は、初めつから、御姫様方の心を、知つて居りますから、何の会、この催しと、度々、御通知があつても、わざと、遠慮して、出席は見合せて居りましたのです。それだのに、今更、麗々しく、御断りが無くつても、宜いぢやありませんかね。其次に曰くですよ。/若し、同級会に御出席の節は、必ず、普通の髪に願ひたく候。/ですって、日本人の普通の髪つたら、何でしやう。日本髪の事でせう。廂髪だつて、結ひ初めは、変に見えたぢやありませんか。ねえ髪の結ひ振りに、法則でもあるぢやなし。』/と、力を入れて、感情に激した。/有楽座のヘツダを、見る心地して、浦路子の顔をさし覗けば、前髪を分けて、スーッと、襟筋の上に落した束髪、物馴れぬお姫様達を驚かしたのも、無理ではないと思はれた。
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普段から、母校の集まりへは遠慮して顔を出さない山川浦路へ、ことさら出入り禁止の手紙を送って寄こすのは、明らかに嫌がらせでイジメに近い行為だろう。
彼女が髪型を日本髪風に結わず、前髪を分けてうしろでひとつ結びにし、そのまま長髪を背中へたらすようにするか、あるいは簡易に結んでまとめ髪にする、現代に限らず大正期以降の女子ならしごくありふれた髪型が、女子学習院の「御姫様(おひいさま)」たちには気に入らなかったのだろう。山川浦路の髪型は、下落合で九条武子Click!がよくしていた髪型とまったく同じスタイルだ。
この文章から10年余ののち、都市部では山川浦路のような髪型が「普通の髪」になり、日本髪のほうがむしろ仰々しく時代遅れで、さまざまな封建的な呪縛を脱ぎ棄てて自由を追求する、「デモクラシー」を理解しない野暮な女性と見られるようになっていく。つづけて、山川浦路のインタビューを引用してみよう。
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浦路子は、稍々興奮の眼を、輝かして/『私には、私だけの希望がありますから、後日、必ず嘲罵した、あの人達を、私の立つステーヂの前に、引付ける様に、努めますわ。』/両の手に、火箸を握りつめて(ママ)、身を震はす。/『境遇の変化は、恐ろしいもので、初めは、遊ばせ言葉が、口癖になつてゐて、女優の使ふべき言葉でない、と、いはれたものが、今日では、窮屈でソンな、言葉が、出なくなりました。』/と吐息をつく。
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同級生たちからの嫌がらせの手紙が、よほど口惜しかったとみえて、「御姫様」たちが話す「遊ばせ」言葉をつかっていたのが“恥”とまでいわんばかりの勢いだ。おそらく「ごきげんよう」も、彼女の語彙から早々に廃棄されたのだろう。
山川浦路の予言どおり、明治末に日本橋三越Click!が打ちだした「今日は三越、明日は帝劇」のキャッチフレーズが大正期には大流行となり、彼女が帝国劇場で出演していたシェークスピア劇の舞台は、大正期を代表するモダンで洗練された演劇エンターテインメントになっていく。当然、女子学習院を卒業した「御姫様」たちも時代の流れには逆らえず、否応なく「ステーヂの前に、引付け」られたのではないだろうか。
同じ『今の女』の中に、当時は芝居(歌舞伎)の戯作者をしていた、まだ若い長谷川時雨Click!のインタビューも掲載されている。そこでは新派Click!を痛烈に批判し、新劇(近代劇)を高く評価しているのが面白い。同書から、再び引用してみよう。
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『で厶(ござ)いますが、現在の処、チヨツト妙な物になつて居るのは、アノ新派劇で厶いませうね。旧劇(歌舞伎のこと)の衰へかゝつた時代に、芽を出して、一時は、非常な勢で、歓迎されたものでしたが、つまりは、我々、今日の現在の儘を、芝居に見せる丈のもので、ソレが、然も、舞台の上から、妙テケレンな声色を発して、女といへば、何れを見ても、浪子(『不如帰』のヒロイン)といつた型、男は相も変らず、英雄とか豪傑のきまりもの計りを、出し物にして、何の其間に、趣味とか、優雅といふ点が、ありませうかと、マー疑はれますね。』/と熱心に、上気した白粉の面、ホンノリと紅らむ。『こんな事を申すと、生意気だと、仰しやるかも知れませんが、近頃の近代劇などが、驚く程、人気を取つて居るのを見ましても、確かに、其劇中の人物を、真面目に研究して、出して見せると云ふ、熱心が現はれて、居るからだと思ひます。(後略)』(カッコ内引用者註)
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長谷川時雨が思わず口にした新派劇評は、わたしが子どものころの新派劇Click!に、そっくりそのまま当てはまるだろうか。
さすがに、「英雄とか豪傑のきまりもの」の上演は減っていたけれど、男や周囲の環境、時代に翻弄され流されていく哀れでか弱い女が、「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」とか「今の妾(わたし)には死ねといって下さい」とか、70歳も近い水谷八重子(初代)に舞台上から「妙テケレンな声色」でいわれても、20世紀後半に生まれたわたしは、ただ午睡するしかなかったのだ。歌舞伎に比べ、新派の衰退ははるか以前からはじまっていたのだろう。
その後、山川浦路の女子学習院への出入り禁止が、いつごろまでつづいていたのかはさだかでないが、彼女も懲りごりだったらしい陰湿で底意地の悪い、「御姫様」たち同級生の性悪な性格を勘案すれば、たとえ帝劇の高名な女優へ改めて招待状がとどいたとしても、地付きの女性らしく「おとついおいで遊ばせ」と、出席お断りだったのではないだろうか。
◆写真上:帝国劇場のビルから眺める、千代田城Click!は桜田門Click!方面の内濠。
◆写真中上:上は、磯村春子がインタビュー時の山川浦路(左)と、彼女が出演していた帝劇のシェークスピア劇『マクベス』のポスター(右)。中は、当初は青山にあった女子学習院(華族女学校)の全景。下は、女子学習院の青山キャンパス玄関。
◆写真中下:上は、青山にあった女子学習院の大講堂。中は、青山の女子学習院で行われた卒業式の様子。下は、青山の女子学習院正門の門柱にあった笠石で、戸山に移転した現在の学習院女子大学のキャンパス内に保存されている。
◆写真下:上・中は、戦後に戸山ヶ原の近衛騎兵連隊Click!跡に移転してきた学習院女子大学(旧・女子学習院)の校舎。キャンパスでは近衛騎兵連隊のレンガ造り兵舎が、そのまま解体されずに活用されている。下は、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』(左)と、明治末に撮影された磯村春子のポートレート(右)。