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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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ジッと我慢の劉生とすぐに解放の佐伯。

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 あまり知られていないエピソードだが、便意をひたすら抑えてトイレに駈けこむのをガマンしていた洋画家がいた。娘にあらぬことを口走り、父親の言葉に疑念を抱いた彼女が、しじゅう洋画家を監視しはじめるようになったからだ。娘とは岸田麗子Click!であり、父親の洋画家とは岸田劉生Click!のことだ。
 岸田劉生が、やめとけばいいのに、娘へありえないことを話して聞かせたのは、藤沢の鵠沼で麗子が小学校へ入学する前(1919年前後)のことのようだ。ちょうど、「麗子像」シリーズClick!ではもっとも有名な画面で、東京国立博物館が所蔵し重要文化財に指定されている『麗子微笑 青果持テル』(1921年)を制作する少し前ということになるだろうか。同作は、麗子が鎌倉師範学校付属小学校へ入学したすぐあと、1921年(大正10)10月4日に制作がスタートし10月15日に完成している。
 1921年(大正10)の秋、岸田麗子Click!は学校から帰るとほとんど毎日、父親のいるアトリエのモデル台(本箱)に座らされていた。小学校の友だちが「麗子ちゃん、遊びましょ」と誘いにきても、母親の蓁夫人が玄関先で断ってしまった。麗子が父親のモデルになるのは、これまでにもさんざん繰り返されたことなので、それほど苦ではなかったかもしれない。ただし、何時間も同じポーズでジッとしていなければならないので、ときには不満を口にしただろう。小学校へ入学する前、やはり遊びたくて不服をとなえた麗子に対し、劉生は騙しだまし説得をして制作をつづけていたにちがいない。
 その中に、劉生が自分で自分の首を絞めるような話を、娘に聞かせてしまったエピソードが残っている。2019年に岩波書店から出版された月刊「図書」11月号より、岸田夏子『思い出 麗子あれこれ』から引用してみよう。
  
 学校に上がる前のことですが、あるとき劉生が「お父様はこの世を美しくするために天から遣わされた天使なんだよ」と言い、ここで止めておけば良かったのに劉生らしく続けて、/「だから、天使のお父様はご飯も食べたふりをしているだけ、だから御不浄と言われるものも一切しないんだよ」と続けました。/子供ながらどうもおかしいと思った麗子は、家の外でお父様がお手洗いに入ってくるのを今か今かと待ち構えていたのです。このことは本当に劉生を困らせた出来事の一つでした。父を信じる子供と信じさせたい親心と言っておこうかしら。他愛無い親子の間の事件の一つでしょうか。
  
 この証言から、鵠沼で借りていたアトリエの家は、トイレが母家とは離れた場所に建てられていたのがわかる。農家などでは、庭先に独立したトイレがあるのはめずらしくないが、大正期の藤沢には地主の農家が貸家を建て、避暑・避寒の別荘や東京近郊の住宅として賃貸ししていた家の中には、そのような仕様の家屋があったのだろう。
 このエピソードを、岸田麗子自身はどのようにとらえていたのだろうか。1959年(昭和34)に新潮社から刊行された「芸術新潮」9月号に収録の、岸田麗子『父の遺してくれたもの』では、こんなことになっている。
  
 父は鵠沼に住んでいた頃、よく私にこんなことをいった。/「お父さまはね、本当は天のお使いなのだよ。天の神様が、この世を美しく飾るためにお父さまをおよこしになったのだよ。お父さまは天で虹を描くお仕事をしていたのだけれど、それをほかの天使にたのんできたのだよ。だからお父さまは人間の食べるごはんも食べないし、おツージもしないよ。ごはんは食べているように見せかけているだけだし、うそだと思ったらお便所へお父さまと一緒にきてごらん」/それである時、私は父のうそを見破ってやろうと思い、父の便所へはいるのをみすまして、ソーッと裏へまわって便所の前にしゃがみこんだ。なかから父が人の気配を感じて、/「誰だい、……麗子かい?」/「ウン」/「バカな子だね、あっちへいっておいで」/その父の笑いをこらえた、なんともいえない困った声は今でも忘れられない。子供ながら実に愉快だった。
  
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岸田劉生「麗子微笑(青果持テル)」1921.jpg
 劉生は、ご飯のおかわりをすると、ジッと見つめる娘と目を合わさないようにし、おみおつけを啜る音に耳をそばだてる娘の表情を、かなり気にしていたのかもしれない。だが、トイレの前で張りこみをつづける娘には、弱ったを通りこしてパニックを起こさなかっただろうか。劉生の頑固で意固地な性格からして、あれは冗談だったと笑いにまぎらせながら用を足しにトイレへ駈けこむとは考えられず、また父親の権威失墜はどうしても避けなければならないので、なんらかの工夫をして用を済ませていたとみられる。
 「やっぱり、お父様も人間だったのだわ」と気づくまで、麗子がトイレの前からいなくなる算段を蓁夫人とつけたか、なにかトイレ代わりになるものを身のまわりに用意していたのかもしれない。立ち小便で「壽」文字を書くのが得意だった劉生は、「小」の場合は家の裏へこっそりと抜け出して、そこらに生えるクロマツの根元の砂地で用を足していたのだろうが、「大」の場合はほとほと困りはてたにちがいない。でも、麗子のほうが一枚上手だったようだ。張りこみをやめたと見せかけて、父親がトイレに入るのを待ち伏せし、劉生はその麗子のワナへまんまと引っかかった。
 岸田劉生とは正反対に、便意をもよおせばトイレがあろうがなかろうが、用を足せる繁みさえあれば「大小」かまわず、そして友人知人がいようがかまわずすぐに“解放”してしまうのが、下落合の佐伯祐三Click!だった。国内外の写生場所を問わず、自分の気に入った風景に出あうと、すぐにも「大」がしたくなったようだ。それは、幼児のころに刷りこまれた、乳母からの暗示が大きく作用していたらしい。
 1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。このエピソードは、佐伯も山田もいまだ東京美術学校の学生時代(1918年)のことで、伊豆の網代へ写生旅行に出かけた際の情景だ。ちなみに、ヴラマンクを訪ねた帰りの里見勝蔵Click!をはじめ、佐伯の周辺にいた画家たちは同様の証言を残している。
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岸田劉生・佐伯祐三画集1987.jpg
  
 遠く大島から茫々と伊豆半島の岬の先々まで眺められ、漁船の白帆がちらばる景観と相対するや否や、どうも傍で変な恰好をするので僕が、/「おい、どうしたんや」/と訊くと、/「わし、“ババ”がしとうなったんや」/「ババって、あの大便か?」/「そうなんや」/「そな、どっかその辺にせいやあ」/そこで彼は、数メートル離れた雑木の下へ隠れて、用便をした。しばらくしてイーゼルに戻ったので、/「きみ、みょうな習慣があるんやなあ。なんで写生の前にうんこするんかあ」/と言うと、/「わしはなあ、すごいいい景色みたら、もよおすねん!」/「どうして、そんな変な感覚なのかなあ……」/「わし、小さい時になあ、育ててくれた乳母がなあ、わしに便をさすときになあ、しーこいこい しいこいこい/ほい 富士さん見えるやろ/富士さん見えたるやろ/と唱うのが、癖だったので、そいでまあ、幼い頃のことだし、いいけしきが見えよるのかなあ、と思うているうちに、でたんやなあ。それが今でもつづいとんのや。すごいいい景色見たら出てくんのや」
   
 いい景色や描きたい風景に出あえると、条件反射のように便意をもよおすのは、乳母が唄った大阪の「童謡」(?)とともに植えつけられた幼児体験がベースになっていたのがわかる。ただし、佐伯が育った大阪からは、もちろん富士山が見えるはずもなく、「♪富士さん見えるやろ」でいったい佐伯はなにを見て(想像して)興奮し、乳母の「♪しーこいこい」「♪ばばこいこい」で排便していたのだろうか。
 伊豆の網代ばかりでなく渡仏したときの写生でも、気に入った風景画のモチーフを見つけると、佐伯はあたりかまわず野グソをしている。もちろん、パリの市街地ではさすがにそのようなエピソードは聞かないが(公衆便所をタブローに仕上げているのは、もう済ませたあとかもしれない)、少し郊外に出たとたんに野グソ証言が増加してくる。
 「下落合風景」シリーズClick!を描いた当時、下落合は東京市街地から離れた郊外だったので、いまだ随所に田畑や草原、雑木林が点在するのどかな光景だった。特に開発が進行中で、工事中の箇所が多かった下落合の中・西部には、「雑木の下へ隠れて」用を足すには絶好の場所が、まだ数多くあちこちに残っていただろう。
 拙サイトの記事をご覧になり、ご自宅の近所が「下落合風景」に描かれて残っていると喜ばれる方は下落合に多いのだが、その風景をタブローにして残すほど、とても気に入ったということは、佐伯が興奮して「“ババ”しとうなったんや」「もう、出てくんのや」の場所であったことにも、ちょっと留意する必要があるかもしれない。つまり、描きたくて「下落合風景」の画面に選ばれた風景モチーフのすぐ近くで、佐伯が我慢しきれずに「♪しーこいこい ばばこいこい」と唄いながら、用を足していた可能性が少なからずあることだ。
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 岸田劉生は不用意なことを口にし、かけがえのないモデルのためにトイレを我慢してもだえ、佐伯祐三はお気に入りの風景のために、身もだえしながらあたりかまわずどこでも排便する。この高名な洋画家たちは、ほぼ同時期にふたりしてなにをやっていたのだろう。

◆写真上:1926年(大正15)秋にのちの勝巳商店地所部Click!の所有地から北を向いて描いたとみられる、「宅地造成地は、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上は、1923年(大正12)8月に鵠沼の家の前で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、1921年(大正10)秋に制作された岸田劉生『麗子微笑 青果持テル』。
◆写真中下は、1918年(大正7)にわざわざ銀座へ出かけて写真館「児島」で撮影された5歳の岸田麗子。は、1919年(大正8)に撮影された鵠沼の家の周囲を走りまわる岸田麗子。は、ふたりのカップリングがめずらしい1987年(昭和62)に集英社から出版された『20世紀日本の美術』15巻(岸田劉生・佐伯祐三)。
◆写真下は、1923年(大正12)8月に静養先の信州・渋温泉で撮影された佐伯祐三。は、パリ郊外にあるオニーの古い教会近くで1925年(大正14)に撮影された、右から「古いカテドラルは、もよおすねん!」の佐伯祐三、同行した画家仲間の渡辺浩三、佐伯米子、佐伯彌智子。は、改正道路(山手通り)の建設工事で消滅した「矢田坂」Click!の中腹を描いたとみられる、「坂道も、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』(1926年ごろ)。

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