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上落合1丁目328番地のアトリエで暮らした、吉岡憲Click!が描く画角の広い風景画にはひとつのパターンがある。手前の小高い位置にイーゼルをすえ、手前に拡がる街や村を見下ろしながら、向かいに見える丘あるいは山を描くという構図だ。それは、東京の風景でも九州・長崎や東北の風景でもどこか共通している。
以前にご紹介している、旧・神田上水(1966年より神田川)の南岸にあたる高田南町3丁目から、下落合は近衛町Click!の南端に建つ学習院昭和寮Click!を描いた『高田馬場風景』Click!(1950年ごろ)や、旧・神田上水北岸の同町から下落合の同寮を描いた『目白風景』Click!(1950年ごろ)がそうだった。また、旧・神田上水の大滝橋(大洗堰Click!跡)の北岸、江戸川公園のバッケ(崖地)Click!中腹から早稲田南町のピークである正法寺の丘を描いた、『江戸川風景』(1950年ごろ)についても詳しくご紹介している。
ほかにも、九州・長崎の風景を写した『南山手風景』や『山手風景』、『大波止』、『おらんだ坂あたり』(1952~53年ごろ)、千葉の布良Click!や御宿の風景とみられる『房州の漁村』や『外房』(1952年ごろ)、福島の冬景色を描いたとみられる『春雪』や『早春の朝』(1952~1954年ごろ)と、近似した構図の作品を見いだすことができる。
この構図について、2003年(平成15)刊行の『追憶の彼方から―吉岡憲の画業展―』図録収録の、尾崎眞人「聖なる位置をずらした男-吉岡憲」から引用してみよう。
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長崎市の「どんの山」中腹の海星学園を描いた<おらんだ坂あたり>(図録ページ略)そして長崎グラバー邸方向を描いたと考えられる<南山手風景>(略)などにも、<高田馬場風景>と同様な画面構図がみられる。/これらの作品は、単に下方から丘の上を描いたものではなく、高い位置から作者の視点は描いている。そのため作品は高見の位置から一度見下ろした視点で前景が描かれ、さらに仰ぎ見る視点で遠景を描くという二重の視点が特徴となっている。私たちの視線は、近景に人影など町の景観から入り、丘の上の建造物へと視線が登り、やがて天空の空へ消失していく。画面のなかを私たちの視線は移動する。
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著者が書いているとおり、確かに画面の中を観賞者の視線は徐々に移動していくのだが、わたしはその移動のしかたが逆ではないかと考えてしまう。まず、遠景の丘や山などのかたちを観察して全体の風景を把握し、それから徐々に近景に拡がる街や村の情景に目をとめていく……という順序だ。
これは、登山やハイキング、あるいは起伏の多い地形の郊外を散策される方なら馴れ親しんだ、よりピンとくる感覚ではないかと思うが、広い視野(絵なら画角)の風景を見るとき、まずは視野全体の地形や地勢を、半ば無意識のうちに読みとろうとする本能が働く。そして、自分がどのような位置にいるのか、どこからその風景を眺めているのかを、まずは把握し認識しようとするだろう。そこで重要なのは、手前に見える街や建物ではなく、遠景に見える土地(山や丘)の起伏形状だ。その把握を前提に、自分の立ち位置を意識しながら、眼前に拡がる街や村を観察しようとする。
吉岡憲が、上落合のアトリエから西武線に乗り高田馬場駅で下車していた1950年(昭和25)前後、空襲で焼け野原になった東京の街々には、関東大震災Click!の教訓で建てられた焼け残りで、炎をくぐって傷んだコンクリート製の防火建築のほか、建物の多くが急ごしらえで建てたバラックの平家住宅が多く、今日のような高い建造物はほとんどなかった。換言すれば、東京の山手に拡がる丘陵地帯の起伏が、非常によく観察できた時期だったのだ。そもそも起伏に富んだ世田谷育ちの吉岡憲は、子どもの時分からそのような風景観察、あるいは風景のとらえ方に親しみ、好んでいたのかもしれない。
敗戦から間もないころは、旧・神田上水の両岸にU字ときにはV字で起立する、いまでは高いビルやマンションに隠れて見えにくい河岸段丘Click!やバッケ(崖地)から、対岸に見える丘や段丘斜面を容易に見わたすことができた時代だ。だから、そのような構図を好んだとみられる吉岡憲は、旧・神田上水の南にある急斜面から(『高田馬場風景』)、高田南町3丁目にある焼け残りのビルの屋上から(『目白風景』)、あるいは江戸川公園の傾斜角60度ほどもある崖地の中腹に通う公園の小径から(『江戸川暮色』)、正面の丘上に見える白亜のビル群(学習院昭和寮)や、尾根道を走る早稲田通りのピークの丘Click!(正法寺~早大喜久井町キャンパスあたり)を容易にとらえることができたのだ。
余談だが、『江戸川暮色』の画面に描かれた早稲田南町の丘の崖地にも、またイーゼルをすえた江戸川公園の崖地にも、戦時中には大型防空壕Click!がいくつか掘られ、吉岡憲が仕事をするわずか5年ほど前には、空襲で避難してきた数百人の人々が焼夷弾による大火災の炎にあおられ、急激に酸素を奪われて窒息死Click!している。
1951年(昭和26)12月20日に書かれた、吉岡憲の散文詩(無題)に次のような作品がある。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された、窪島誠一郎・監修『手練のフォルム―吉岡憲全資料集―』から引用してみよう。
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一匹の野良犬が丘の端に佇み夕映に染っていた。丘の一角には小学校が建ち、眼下には家並が議事堂の尖塔を焦点に続いていた。炊煙が棚引き外燈の光が目にはいりはじめる頃の静かで温い風景が、強盗殺人汚職売淫の街とは信じ度くなかった。暮色があたりに立ちこめ黝(あおぐろ)く立つ学校からピアノの音がもれて来た。何百回かきいた曲、そして何時も心温る調べ、モツアルトのトルコ行進曲か、野良犬は憤怒をやわらげ、この丘へ通う楽しみに気づいた。(カッコ内引用者註)
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「野良犬」とは、もちろん吉岡憲自身のやや自虐をともなう喩えだと思われるが、この「丘」とはどこのことだろう? 夕映えの「暮色」からすると旧・神田上水沿いの『江戸川暮色』が浮かび、「野良犬」がいる地点は江戸川公園の崖地中腹(標高25m前後)ということになる。戦災で焼け野原の痕跡が残る当時は、そこから永田町の国会議事堂Click!が容易に見えただろう。丘の一角にある「小学校」とは、「野良犬」がたたずむ江戸川公園の背後(北側の丘上)にある関口台町小学校Click!ということになる。
しかし、敗戦後5年ほどなら、下落合の丘上からでも国会議事堂の議場大屋根はなんとか見えていたかもしれない。吉岡憲が、『目白風景』や『高田馬場風景』に描く学習院昭和寮Click!の左手、御留山Click!のピーク近く(標高36m前後)に立てば、さらに遠くまで見わたせただろう。(ちなみに当時の御留山は公園化されておらず、戦前からつづく東邦生命の所有地だった) これらの作品を描いているとき、吉岡憲はモチーフとなった丘に興味をおぼえ、下落合の坂や斜面を上っていてもなんら不思議ではない。また、御留山のピークのすぐ西側には、相馬坂を隔てて落合第四小学校Click!が建っている。
『江戸川暮色』の描画ポイント、江戸川公園の急峻な崖地から国会議事堂までは直線距離で約4km強、下落合の御留山ピークから議事堂までは同じく約6kmと、どちらの丘からも遠望の可能性がありそうだ。『江戸川暮色』の作品を中心に想像すれば江戸川公園が有利だが、アトリエのある上落合1丁目328番地から下落合の御留山までは直線距離で1,000mしか離れておらず、当時の道筋で歩いても15分前後でいき着ける(アトリエへ帰れる)ことを考慮すれば、地元のほうが有利だろうか。
この時期、東邦生命の所有地だった広大な御留山は、夫婦の管理人がふたりしかおらず、竹田助雄Click!は半ば自由に出入りして写真撮影をしていたし、近所の子どもたちはどこからでも入りこんで、沢ガニや昆虫を捕まえていた。
同書の中で、窪島誠一郎は暮れなずむ上落合の街並みを歩きながら、「吉岡憲の風景」を感じる場面がある。同書の、「吉岡憲の軌跡」から引用してみよう。
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菊夫人の家へいそぐ私の前方に、あるいは逆に中井駅の商店街にむかってあるく私の背後に、あたかも無数の黒い塔婆でもならべたみたいな薄暮色の風景がひろがっていた。それは東京という大都会の片隅に息づく、パリかローマの裏街でも思わせるようなエキゾチックな夕景色だった。私は、あゝこゝにはまさしく吉岡憲の風景がある、色彩があると思った。(中略) 吉岡憲の絵の魅力を一口に語れといわれゝば、その筆触がもつ爽快なスピード感と、どんな対象をも瞬時にして一掴みにしてしまう魔術のような描写力につきるといえるだろうけれど、私としてはその色感の豊潤さ、奥深さにいっそう魅入られるのである。あの薄暮どきの、上落合の裏通りをそめていた、微かに霊気さえおびているようにみえた代赭色と蛍光色のひろがり。たぶん吉岡の絵の感触は、あの早暁とも洛陽ともつかない地の果てからとゞくやわらかな光源の中から生まれてきたものにちがいない。
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窪島誠一郎は、「代赭色と蛍光色」と表現しているが、わたしは(もう少し冒険が許されるとすれば)吉岡憲が人物(人の肌)を描くときに使用する色彩を、風景の中にも採り入れている……と感じる。別に暮色の風景画に限らず、太陽が真上にあると思われる画面や雪景色にさえ、随所で同色が使われているように見えるのだ。それは、たとえば当時の東京は舗装道路が少なく、関東ロームが露出していたからだという事実を持ちだせば身もフタもないけれど、たとえば福島の雪に埋もれた家屋にさえも、その色合い(人肌の匂い)を見いだしながら、吉岡憲の人を求めるやわらかな「ぬくもり」のようなものを感じてしまうのだ。
◆写真上:下落合の丘の斜面に繁った、雑木林から眺める冬の黄昏どき。
◆写真中上:上は、1952年(昭和27)ごろ九州・長崎の情景を描いた吉岡憲『南山手風景』。中は、1953年(昭和28)に同じく長崎を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。下は、同じころ長崎の街並みを描いた吉岡憲『山手風景』。
◆写真中下:上は、1950年(昭和25)ごろに高田南町から下落合の丘を描いた吉岡憲『目白風景』。中は、江戸川公園から早稲田南町の丘をとらえた吉岡憲『江戸川暮色』。下は、斜めフカン写真による江戸川公園と下落合の御留山から国会議事堂への遠望。
◆写真下:上は、1952年(昭和27)ごろ長崎港の波止場を高位置から描いた吉岡憲『大波止』。中は、1954年(昭和29)に福島の山間集落を描いたとみられる吉岡憲『春雪』。下は、同時期に福島へ旅行した際の情景を写したと思われる吉岡憲『早春の朝』。