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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「そいや・せいや」じゃなく「わっしょい」だろ。

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神田祭.jpg
 地名の小塚原のことを「こずかっぱら」Click!、前原のことを「まえっぱら」、尾久のことを「おぐ」と読めない東京在住者が増えても、日暮里(旧・新堀)のことを「にっぽり」と読めない人はいないだろう。その日暮里の道灌山から諏訪台にある、諏方社(諏訪社Click!の表記ではないが、主柱は同じ出雲のタケミナカタ)の祭礼に繰りだす神輿のかけ声が、ちゃんと本来の「わっしょい」であるのを最近知ってうれしかった。
 江戸東京の社(やしろ)のほとんどは、祭礼時における神輿の渡御のかけ声が、大昔から江戸東京方言の「わっしょい」と決まっていたはずだ。これは、江戸東京総鎮守の神田明神社Click!をはじめ、日枝権現社、深川八幡社、浅草三社、そして下落合氷川明神社Click!にいたるまで共通するかけ声のはずだった。ところが、そのうちのいくつかの社では「そいや」とか「せいや」とか、気づけば意味不明で妙ちくりんなかけ声になっている。ちなみに、ジグザグデモも戦後間もない東京では「わっしょい」だったようだ。
 親父はよく、「そいや」とか「せいや」のかけ声を聞くと、「どこの方言だい? 渡御された神輿上の神に対して失礼でおかしいだろ」といっていたけれど、わたしも同感なのでちょっと書いてみたい。「そいや」とか「せいや」は、その語感から関西地方の方言だろうか? 同じような不可解さを感じている人物に、親父の少し年下にあたる作家の吉村昭がいる。彼は子ども時代、道灌山や谷中墓地を駆けまわってすごした生粋の日暮里っ子だ。1989年(昭和64)に文芸春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 (前略) ソイヤとか、ホイヤ、セーヤなどとやっている。私が、この奇妙な掛声を初めて耳にしたのは、二十年近く前、NHKテレビの依頼で或る下町の著名な神社の祭礼をリポートした時である。/私が呆気にとられていると、年老いた世話人の一人が、/「なんとなくああなってしまいましたね」/と、釈然としない表情をして言った。/その神社のある町は、これこそまぎれもない江戸町――下町で、古くからうけつがれてきたワッショイという掛声を「なんとなく」変えてしまっては困る、と思った。(中略) 「私の町では、ワッショイですよ。伝統は守らなくちゃ、どうにもなりません」/田宮さんは、張りのある声で言い、今でも高張り提灯をかかげて宮ミコシをお迎えしている、と言った。/祭りは、人間の知恵によって生れたものである。たかが掛声、と言うかも知れぬが、古くからうけつがれてきたものをくずしてしまえば祭りそのものの意義はうすれる。第一、御先祖様に申訳なく、勝手にいじってはいけないのである。
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 「わっしょい」ではなく、「そいや」とか「せいや」などのおかしなかけ声に気づいたのは、わたしがまだ子どものころのことで、親父が「どこの方言だい?」といったのも同じころではないかと思う。吉村昭も、ちょうど同じころに不可解なかけ声に気がついていたようだ。このかけ声について、吉村昭は地元・日暮里の諏方社を訪ねても取材しているので、よほど気になっていたのだろう。
 「わっしょい」のかけ声は、昔から古文書などで「和背負」と書かれることが多いようだが、言葉の発音へ思いついた漢字を当てはめただけの、江戸期あたりの付会なのかもしれない。「ハイシー」(走れ)や「ドードー」(止まれ)のかけ声と同様に、古い原日本語(アイヌ語に継承)に由来する可能性もありそうだ。「わっしょい」が、「ワ・シケ(wa-sike)」の転訛だとすると、「背負い渡る」という意味になる。
諏方神社1.JPG
諏方神社2.JPG
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 吉村昭は、大江戸(おえど)Click!(城)下町Click!のことを総じて「江戸町」と呼び、イコール下町だと認識して文章を書いている。これは江戸から明治期の三田村鳶魚Click!や、うちの親父あるいは義父たちの世代とまったく同じとらえ方で、「江戸町」=下町の一部に旧・山手エリアは包括される概念だったことがわかる。
 また、地元の日暮里については、わたしの落合地域をとらえる感覚と非常によく似ていることに気づく。落合地域(目白崖線のある落合エリア)は、明治以降に拓けた東京市街地(旧・城下町)に近接する郊外別荘地となったが、日暮里は根岸とともに、江戸期から武家や町人を問わず名の知られた、道灌山や諏訪台の周辺に展開する由緒正しい別荘街(寮町)だった。
 つづけて、吉村昭の『東京の下町』から引用してみよう。
  
 日暮里を下町と言うべきかどうか。江戸時代の下町とは、城下町である江戸町の別称で、むろん日暮里はその地域外にある。いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末と言うことになる。/幕末の安政三年に刊行された尾張屋版の江戸切絵図集には、「根岸谷中日暮里豊島辺図」がおさめられ、明治に入ってから「東京御郭外日暮里豊島辺」と改められている。御郭外、つまり城下町の外という意味である。が、明治以降、東京の市街地は郊外にのび、下町が江戸町という意味もうすれ、日暮里も大ざっぱに下町の一部、と称されるようになった、と言っていいのだろう。
  
 吉村昭は、取材や地方公演などで旅行をすると、よく「どちらのご出身ですか?」と訊ねられたらしい。「東京の日暮里です」と答えると、「いったい、どんな字を書くのですか? ……えっ、これで、にっぽりと読むのですか?」と不思議そうに首をかしげる人々に多く出会ったようだ。
 こんなエピソードを聞くと、東京出身でないアナウンサーが小塚原を「こづかはら」、日暮里を「ひぐれさと」などというトンチンカンな発音で読んだとしても、いたしかたないか……とも思うのだが、日本橋を「にっぽんばし」と読んだごく基礎的な教養のない、オバカなテレビ東京の女子アナだけはカンベンできない。わたしが上司なら、「この街のテレビ東京へなんのために就職したんだ? 自分が勤めるTV局のある地元や立ち位置のことを、もいっぺん面(つら)洗って勉強しなおしてこい!」と、停職6ヶ月の厳重処分だ。
ドロボウヤンマ(オニヤンマ).jpg
ギンヤンマ♀(チャンヤンマ).jpg
オクルマヤンマ(ウチワヤンマ).jpg
 さて、吉村昭の本で「ドロ」ヤンマあるいは「ドロボウ」ヤンマという言葉を、ほんとうに久しぶりに聞いた(読んだ)。わたしの世代では、すでにつかわなくなってしまった言葉だが、わたしが小学生のころ渓流沿いにオニヤンマClick!を探していると、「いた、ドロボウヤンマだ!」と親父が教えてくれた。ほかではあまり耳にしない用語なので、おそらく「江戸町」=東京の下町方言なのだろう。
 「チャン」がギンヤンマの♀、「ギン」がギンヤンマの♂というのも、日本橋の方言と同じだが、日暮里には緑が多く残されていたせいか、「オクルマヤンマ」も出没していたらしい。「珍種として尾の先端に車状のものがついたオクルマ」と吉村昭が書くトンボは、もちろんウチワヤンマのことだ。さすが日暮里は閑静な別荘地だったせいか、昭和10年代までウチワヤンマが見られたようだ。もっとも、空気も水もきれいになっている昨今、下落合に「ドロボウ」や「ギン」「チャン」の姿が見られるように、道灌山ないしは諏訪台の周辺にも「オクルマ」がもどってきているかもしれない。
 1936年(昭和11)7月25日早朝に起きた、上野動物園から脱走した黒ヒョウ事件も、吉村昭はハッキリ憶えているようだ。うちの親父は11歳の小学5年生だったが、黒ヒョウ脱走事件のことは何度も聞かされているのでよく知っている。ヒョウはネコと同じで、おもに夜間に行動する動物で移動距離も長く、夜になると上野(下谷)から浅草、日本橋、京橋、銀座など大川(隅田川)西岸の繁華街は、火が消えたように人通りもまばらになった。真夏だというのに、家々には雨戸が立てられ、寝苦しい夜をすごしたので、子どもたちの印象に強く残った事件なのだろう。
 当時の東京日日新聞では、「黒豹脱走 帝都真夏のスリル!」と半ば楽しげな活字が躍っているので、夜な夜な黒ヒョウが徘徊する東京の街に、ワクワクしている人たちもたくさんいたのだろう。東京美術学校Click!(現・東京藝術大学)の近くで足跡が発見され、谷中や日暮里の方角へ逃走した可能性があるため、その方面の住宅街ではパニックになっていたのかもしれない。翌26日の午後5時30分すぎ、黒ヒョウは東京府美術館Click!(現・東京都美術館)近くのマンホールでゴロニャンしていたところを見つかり、捕らえられて檻へもどされた。
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黒ヒョウ1931.jpg
 いまでも存在するのだろう、このマンホールが都美術館のどのあたりにあるのか、今度時間があるときにでも調べて訪ねてみたい。マンホールの蓋に、東京都のマークとともに黒ヒョウがデザインされていたら、すぐにわかりシャレてて面白いのだけれど……。

◆写真上:今年はCOVID-19禍で開かれなかった、繰りだす神輿が百数十基で氏子数が150万人超の日本最大といわれる神田明神社の天下祭り=神田祭。
◆写真中上は、道灌山(諏訪台)にある諏方社の広い境内と拝殿(奥)。は、諏方社の属社のひとつで荒神社Click!。大鍛冶(タタラ)が適するバッケ(崖地)に、荒神社が残るのは目白崖線も諏訪台も同じだ。は、道灌山から日暮里界隈(旧・新堀村)の眺め。
◆写真中下は、江戸東京方言で「ドロボウヤンマ」ことオニヤンマ。は、「チャンヤンマ」ことギンヤンマの♀。は、「オクルマヤンマ」ことウチワヤンマ。
◆写真下は、1936年(昭和11)7月25日に発行された東京朝日新聞の夕刊。は、同年7月27日に発行された東京朝日新聞の朝刊。は、捕獲された黒ヒョウ。

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