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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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怪奇映画のポスターが気になった夏。

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岸田森(血を吸う眼).jpg
 夏になると、小・中学生のころに見かけた映画のポスターがよみがえる。学校の登下校時、和泉屋さん(現在はセブンイレブンになっている)という酒屋から海へと通じる道路ぎわには、大きな映画のポスターが2段組でずらりと並んで貼られている展示板が設置されていた。ほぼ毎日、その前を通っては登下校していたのを憶えている。1960年代から70年代にかけ、そこには色とりどりのポスターが貼られていたので、子どもの眼にはよけいに印象深かったのだろう。
 この展示板には、東宝や松竹、大映、東映、日活の各系列、さらに2本立てや3本立てがふつうの名画座(迷画座?)のような映画館が、常時ポスターを貼りだしていたので、おそらく街の映画館が販促費を少しずつ出しあって、住宅地に設置した宣伝ボードだったのだろう。貼られたポスターには、リアルタイムで上映中の“いま”の作品から、10年以上も前の、わたしが生まれる前の作品まで、その種類はバラエティに富んでいた。確か、1964年(昭和39)の東京オリンピックの年だったか、あるいはその翌年だったのだろうか、ここのポスターで見かけた映画版『鉄腕アトム』(日活)のロードショーへ、母親に頼んで連れていってもらった憶えがある。
 でも、この映画ポスターの掲示板の前で、長く立ち止まってジッと眺めているわけにはいかなかった。なぜなら、東映の高倉健が登場するヤクザ映画の隣りには、太股をあらわにしたお姉さんが胸をはだけて微笑む日活の「成人映画」(ピンク映画とも呼ばれた)ポスターが貼られていたり、大映のガメラシリーズの隣りには、背中からお尻の上までを丸出しにした安田道代が、意味ありげな視線を送りながら振り向いてたりするので、もう恥ずかしくていたたまれなくなるのだ。ましてや、近所で顔見知りの大人に見られたりしたらと思うと、気が気ではなかった。
 潮の匂いが日ごとに濃くなり、身体がいつもべとついて生臭くなる夏を迎えると、掲示板には毎年、お約束のように怪奇映画のポスターが並んで貼られるようになる。その中で、いまでもいちばん印象に残っているのが、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年/松竹)だ。ポスターには、吸血鬼に血を吸われる半裸のお姉さんと、それを恐怖の眼差しで見つめるふたりのお姉さん(ひとりは金髪の欧米人)がコラージュされていて、キャッチフレーズに「生き血を吸われた人間が、次々とミイラと化す! 残忍で凶暴な吸血鬼……次はお前だ!」と書かれていたようだ。
 もう、こんなポスターを目にしたら観るっきゃないでしょ。小学生のわたしは、さっそく母親に『吸血鬼ゴケミドロ』が観たいといったら、ゴジラシリーズClick!や鉄腕アトムならしぶしぶ連れていってくれたのに、「ゴケミドロ」はダメだという。母親いわく、「子どもが観るものではありません。大人の映画です!」と断られてしまった。「そ~かな~、吸血鬼なんだけどなー、ゴケミドロなんだよー」といっても、頑としてダメだといいつづけた。いまから考えると、自分が怖くて絶対に観たくなかったのではないかとも思えるが、結局、この作品は観ることができずに季節はすぎていった。
 映画の内容や質はともかく、この映画のタイトルは秀逸で、いまでも第1級のネーミングだと思っている。吸血鬼ブームにのって制作された映画なのだろうが、「ゴケミドロ」の「ゴケ」は、陽の当たらないじとじとした蔭地に生える「苔」なのか、あるいは喪服を着たちょっと色っぽくて妖しい「後家」なのか、「ミドロ」は水が緑色に濁ってなにが隠れひそんでいるかわからない不気味な「みどろヶ沼」なのか、それともドロドロでグチャグチャした何かにまみれたちょっとエロティックな「お姉さん」なのか、子どもから大人までついポスターをジッと見つめながら、あらぬ妄想をふくらませてしまう、幅広いターゲットを意識した優れたネーミングであり作品のタイトルだ。ポスターに登場している、佐藤友美と金髪のお姉さんが血を吸われ、ミイラになってしまうのだろうか?……と、子どもなら誰でもふつうに妄想して心配するだろう。
透明人間と蠅男1957(大映).jpg 美女と液体人間1958.jpg
ガス人間第一号1960.jpg 電送人間1960.jpg
 1950年代末から60年代にかけて上映された、怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画などとも呼ばれた)のタイトルやポスターを改めて眺めてみると、裸で胸元を手で覆いながら微笑む叶順子のわけのわからないタイトル『透明人間と蝿男』(1957年/大映)とか、下着姿で半裸の白川由美が不気味な怪物から逃れようとしている『美女と液体人間』(1958年/東宝)とか、やっぱり半裸のままの前を隠した白川由美が戦慄におののいている『電送人間』(1960年/東宝)とか、美しい着物姿の八千草薫があしらわれタイトルとのギャップがすさまじい『ガス人間第一号』(1963年/東宝)とか、肌もあらわな水野久美がキノコを食べる『マタンゴ』(1963年/東宝)とか、ミイラのような気味の悪い男とロングヘアが似合う松岡きっことの対比がすごい『吸血髑髏船』(1968年/松竹)とか、もう子どもから大人まで脳内が妄想だらけになりそうな、夢にまで出てきそうなタイトルがズラリと並んでいた。これらのポスターの何枚かは、学校からの帰り道、2本立ての再上映館(名画座ならぬ迷画座?)の掲示コーナーで見ているのだろう。
 1970年前後になると、怪奇映画(スリラー映画)は少年少女漫画からの影響だろうか、ある程度ストーリーが想定できる、かなりストレートなポスター表現やタイトルに変貌していったような記憶がある。たとえば、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(1970年/東宝)とか、『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)とか、『血を吸う薔薇』(1974年/東宝)とか、岸田今日子Click!の従弟だった岸田森の吸血鬼シリーズがヒットしたせいなのだろう。大きな西洋館に迷いこんだヒロインたちが、またいつものパターンで恐怖の体験をするんだぜ……といった、“怖がり”を楽しみ、ある意味ではお決まりの「予定調和」を期待させる仕上がりになっていそうな作品群だ。
 子どものころ、親に止められて観賞できなかった上掲の作品を、大人になってから観ると退屈だったりガッカリすることが多い。いや、むしろ笑ってしまうシーンも少なくないのだ。マタンゴを食べつづけているのに、なんで水野久美の顔はボコボコにならないんだ?……とか、人を襲うとき岸田森の吸血鬼は、なんで居場所がバレてしまうのにいちいち「ウエ~~~ッ!」と声をあげてしまうのだ?……とか、ヒロインが襲われるときはタイミングよく、なぜみんな下着か水着?(うれしいけれど)……とか、相手に怪人だと悟られてはいけないのに、目つきから挙動から話し方から笑い方まで怪しすぎるでしょ!……とか、ボーイフレンドがヒロインに「とにかく気にするのはよして休もう」って、お化けに襲われてヒドイ目に遭ったばかりなのに気にしないで休んでる場合じゃないじゃんか、おい!?……とか、大人のリアリズムに邪魔されて、すでに子ども時代のように、素直に怖がり、ストレートに画面へのめりこんで楽しむことができなくなっている。
マタンゴ1963.jpg 怪談1965.jpg
怪談蛇女1968(東映).jpg 吸血髑髏船1968(松竹).jpg
蛇娘と白髪魔1968(大映).jpg 吸血鬼ゴケミドロ1968(松竹).jpg
 映画は、いや文学や音楽もそうなのかもしれないが、それを観賞(鑑賞)する時期や年齢というものが、厳然とどこかにあるのだろう。やはり、細かな理屈が先に立ってしまう年齢になってから観ると、多くの「怪奇映画」は喜劇映画へと転化してしまいそうだ。土屋嘉男はガス人間なのだから、プロパンのような密閉容器に入れてしまえば二度と出てこれないぜ……、どこへでも瞬間移動できる岸田森の吸血鬼が、なんでわざわざ壁をぶち破って逃げる主人公の前に立ちはだかるのさ……、南風洋子より松尾嘉代のほうがよっぽど妖しいじゃん……などなど、つい不純でよけいなことを考えてしまう年齢になると、おどろおどろしさは雲散霧消し、せっかくの怖さが限りなく後退してしまう。やはり、映画の“観どき”、映画館への“入りどき”というのがあるのだろう。
 これらの作品の“観どき”、“入りどき”を逃したわたしは、親に邪魔されない学生以降になってから観賞した作品も少なくないが、おそらく子どものころに観ていたらトラウマになったと思われるような作品も、気の抜けたコーラのような味わいにしか感じなかった。いや、中には突っこみどころ満載で爆笑してしまうシーンも多い。
 つい先年、1960年代のおどろおどろしい怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画)の遺伝子を正統に受け継いだ、独立プロ作品『血を吸う粘土』(2017年/soychiume)という映画を観た。東京藝大や武蔵野美大、女子美大などをめざす美校生たちのストーリーに惹かれて、つい観てしまった作品だが、やはり物語がいちばん盛り上がる肝心のクライマックス部分で、梅沢壮一監督には悪いけれどつい笑ってしまった。わたしにとっては残念ながら、この手の作品はとうに「賞味期限」が切れていたのだ。
血を吸う人形1970.jpg 呪いの館・血を吸う眼1971.jpg
血を吸う薔薇1974.jpg 血を吸う粘土2017(soychiume).jpg
八月の濡れた砂.jpg
 学生時代に、藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971年/日活)を観ていたら、わたしが怖ごわと、ときにはひそかに胸躍らせながら眺めていた、通学路の掲示板が映りそうになった。高校生がタンデムシートからダチをふり落として、湘南海岸沿いをバイクで疾走しながら渚に向かうシーンだ。でも、「そういや、あすこに映画ポスターの掲示板があったな」という感慨のみで、もはや胸がときめくことはなかった。石川セリClick!の歌ではないけれど、「♪あの夏の光と影は~どこへ行ってしまったの~」と、すでに心は実世界のリアリズムにすっかり侵され支配されており、8月の怪(あやかし)ポスターはとうに色褪せてしまったのだ。子どものころにたくさん遊んでおけば、そしてたくさんの映画でも見ておけば、心の引き出しもたくさん増えて、夢も豊かになるのだろう。

◆写真上:「ウエ~~ッ!」と格闘して苦しいと、死んでいるのに喘いでしまう肺呼吸の吸血鬼・岸田森。『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)より。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の『透明人間と蝿男』(大映/)と1958年(昭和33)の『美女と液体人間』(東宝/)。は、1960年(昭和35)の『ガス人間第一号』(東宝/)と同年の『電送人間』(東宝/)の各ポスター。
◆写真中下は、1963年(昭和38)の『マタンゴ』(東宝/)と1965年(昭和40)の『怪談』(東宝/)。『怪談』は小泉八雲Click!が原作で、これなら母親も映画館に連れていってくれたかもしれない唯一の文芸作品。だけど、子どもは文部省推薦とか芸術祭参加の作品など観たくはないのだ。は、1968年(昭和43)の『怪談蛇女』(東映/)と同年の『吸血髑髏船』(松竹/)。は、1968年(昭和43)の『蛇娘と白髪魔』(大映/)と同年の『吸血鬼ゴケミドロ』(松竹/)の各ポスター。
◆写真下は、1970年(昭和45)の『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(東宝/)と1971年(昭和46)の『呪いの館・血を吸う眼』(東宝/)。は、1974年(昭和49)の『血を吸う薔薇』(東宝/)と2017年(平成29)の『血を吸う粘土』(soychiume/)の各ポスター。東宝の「血を吸う」シリーズのポスターは、漫画からの影響が顕著だ。は、わたしの通学路が映っていた1971年(昭和46)の『八月の濡れた砂』(日活)の1シーン。

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