三岸節子の第一アトリエ写真には、ご遺族の方の著作権が絡んでいたようなので、申請許諾が取れしだい改めて掲載いたします。ということで、差し替え記事はこちら。
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新宿区ではさまざまな資料に掲載されている、あまりにも有名な野田半三Click!の作品『神田上水』(新宿歴史博物館蔵)なのだか、この風景が旧・神田上水のどこを写したものなのかを探ってみるのが今回のテーマだ。同作は、明治末の1912年(明治45)ごろに制作されたということになっている。東京美術学校Click!の西洋画科で学んでいた、まだ野田が画学生のころの作品だ。
当時の野田半三は、牛込若松町114番地界隈にあった住まいClick!から東京美術学校に通っていたはずで、中村彝Click!や鶴田吾郎Click!の住まいもすぐ近くにあった。野田と中村彝とは、愛日小学校時代からの同窓生だ。野田の住まいから神田上水までは、北へおよそ1,500mほどの距離を歩かなければならないが、この時期、牛込若松町の西北側一帯に拡がる戸山ヶ原Click!などの郊外風景を、画道具片手に散策しながら頻繁に写生していたと思われる。それは、近所に住んでいた中村彝や鶴田吾郎も同様だった。肋膜のため陸軍幼年学校を中退し、付近を写生して歩く小学校の同窓生だった中村彝に再会したのも、戸山ヶ原の写生地だ。
1901年(明治34)に、ようやく淀橋浄水場Click!が新宿停車場の西側に完成し、江戸期から明治期まで水道水として利用されていた神田上水の役割りが終わって、10年ほどたったころの情景だ。上水道としての役目が終わるのと同時に、きれいな川の水を利用する染物や製薬、印刷などの工場が川沿いへ急速に進出しはじめていた。『神田上水』の画面に描かれた横長の建物や煙突も、明治末までに建設されたなんらかの生産工場の可能性が高い。
画面の空は、夕暮れどきなのだろう赤く染まっており、光の方角から画面の左手が西側だと想定することができる。したがって、野田の視線は北から西にかけての方角を向いていると思われ、正面に描かれた連なる丘陵が神田上水の北岸にある、東西に長い目白崖線の姿であることは容易に想像がつく。目白崖線の手前が濃く描かれ、遠くにいくにしたがって淡く描かれているのを見ると、手前の近景から遠景へ目白崖線の連なりを斜めに見ているらしいこともわかる。つまり、野田は方角的に北から西の間を向いている可能性が高い。
また、野田の描画ポイントも非常に特徴的だ。旧・神田上水の流れの中央に、イーゼルが浮き上がってすえられていることがわかる。野田が川の中へ入り、ハシゴでも立ててスケッチしているのでもない限り、彼は橋の上にイーゼルを立てて描いていると解釈するのが自然だ。急激に湾曲した神田上水に橋が架けられており、前方に工場あるいは銭湯と思われる煙突が2本見え、建物が密集して建てられている集落が存在している。そして、目白崖線がこのような角度で見えるところは、落合地域から戸塚地域にかけて、かなりポイントが絞られてくる。
さて、まず1912年(明治45)の時点で、神田上水に架けられていた橋から考えてみよう。明治末の神田上水に架けられていた橋は、現在とは異なり数が非常に少ない。当時、目白崖線が北側に少し離れてこのように見える川筋に、橋はわずか3ヶ所しか存在していない。東から、戸塚村(下戸塚)と高田村の境界に存在する豊橋と面影橋Click!、そして山手線の西側である戸塚村(上戸塚)と落合村(下落合)の間に架かる田島橋Click!だ。豊橋の下流にあった旧・駒塚橋(現在の新・駒塚橋は少し移動している)は、芭蕉庵のある椿山Click!の崖線が目前に迫り、画面のような風景には見えない。この中で、明治末の神田上水の流れを前提に、画面に描かれているような北側へ急角度でカーブを描く流れの位置に架かっていた橋は、豊橋をおいてほかにはない。豊橋は、神田上水の流れが南から北へ、つまり戸塚村から高田村へ、まるでフタコブラクダの背中のように盛り上がったかたちをした、西側のコブの尖端に架けられていた。
明治末の面影橋は、ほぼまっすぐな川筋に架けられており、現在もおよそ同じ位置から動いていない。また、下落合の田島橋は流れが北へと大きくカーブを描く根もとの位置に架けられていたので、画面の川筋とは南北がまったく逆の湾曲だった。田島橋は、いまでも同位置にあってまったく動いてはいない。3橋の中で、現在では南へ100mほど移動してしまっているのが、早稲田大学グラウンド(のちの安部球場)の北側に架かる豊橋だ。
橋が架けかえられた理由は明らかで、大正期に入り、1918年(大正7)以降から1923年(大正12)までの間に実施された旧・神田上水の整流化工事(直線化工事)による。つまり、急カーブを描いて北へ極端に湾曲していた川筋だったからこそ、豊橋は南へ移動しているのだ。川筋が村境だった関係から、戸塚村と高田村のフタコブラクダ境界は川が直線化されたあとも、しばらくつづくことになる。野田が描く『神田上水』は、豊橋が南へ移動する前、古い時代の橋上から目白崖線が斜めに見える角度で、キャンバスに向かっていることになる。
野田半三の視線は、豊橋から西北西を向いて高田村後田から、同村砂利場にあった集落方向を向いて描いているのだろう。1910年(明治43)の1万分の1地形図を参照すると、すでに工場のような細長い建物をいくつか確認することができる。この地域は、明治末から大正初期にかけ急激に宅地化が進んでいるエリアであり、落合地域に比べて開発が10年ほど先行している。それは、各種工場などの進出にもよるのだろうが、早稲田大学につづいて新たに学習院の建設や、東京市内である牛込区という行政区画の立地のせいもあるのだろう。落合地域が本格的に開発されるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!前後なのに対し、牛込区と高田村の旧・神田上水沿いは大正期の前半、すでに市街地化がかなり進行していた。
描かれた建物群は、豊橋の西北西にあたる高田村後田にあった集落であり、この向こう側にはもうひとつ同村砂利場の集落が拡がっていたはずだ。この時代、集落の粗密からいえば、後田よりも砂利場のほうがかなりにぎやかだったろう。カーブした川筋の両岸には、工場か倉庫のような建物が描かれているが、1909年(明治42)の1万分の1地形図には、いまだこの位置に家屋は採取されていない。大正初期の同地図を確認すると、すでに一面が赤い斜線の住宅密集地である「市街地」表現になっているので、わずか5~6年の間に急速な宅地化の進んだことが分かる。
野田半三は、牛込若松町の住まいから画道具を手に、夏目坂を通って母校である早稲田中学の前に出た。そして、早大キャンパスを抜けるように北上し、旧・神田上水に突き当たると、流れが北へフタコブラクダの背のように突出した流れの西側に架かる、豊橋の上で立ちどまる。橋の中央やや南寄りにイーゼルを立てると、西北西に見える煙突を中心にすえてスケッチをはじめた。
◆写真上:明治末に旧・神田上水を描いた、野田半三『神田上水』。
◆写真中上:左は、牛込若松町の野田半三旧居跡。右は、1923年(大正12)にベルギーで写生中の野田半三。野田は1922年(大正11)から、2年半にわたりヨーロッパへ留学している。
◆写真中下:上は、1909年(明治42)の1万分の1地形図にみる『神田上水』の描画ポイント。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・豊橋と豊橋。下右は、神田川のサクラ並木。
◆写真下:いずれも野田半三の作品で、1922年(大正11)のイギリスで制作された『イギリス風景Ⅰ』(左)と、1937年(昭和12)に描かれた『水道橋の朝Ⅰ』(右)。