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陸軍士官学校で配られた写真。(3)
陸軍士官学校(陸軍航空士官学校=以下「陸士」)で有償配布された写真Click!の中で、いまだかろうじて優勢だった海軍の戦闘記録である、「珊瑚海海戦」をとらえた貴重な画面類が残されている。珊瑚海海戦は、空母を主体とする日米の機動部隊同士が、艦隊から直接相手を視認することなく相互がかなり距離をおいたまま交戦した、世界初の海上航空戦として有名だ。...
View Article野田半三『神田上水』は豊橋の上から。
三岸節子の第一アトリエ写真には、ご遺族の方の著作権が絡んでいたようなので、申請許諾が取れしだい改めて掲載いたします。ということで、差し替え記事はこちら。 ★...
View Article下落合を描いた画家たち・三岸好太郎。
下落合から旧・神田上水Click!をはさんですぐ南、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に三岸好太郎・節子夫妻Click!は、1924年(大正13)から1925年(大正14)にかけて住んでいる。現在の感覚でいうと、戸塚第三小学校のすぐ西側の敷地であり、下落合にある新宿区中央図書館Click!(2013年6月より移転)から徒歩1~2分ほどの近い距離だ。...
View Article節っちゃん、下落合に行ってくるよ。
三岸好太郎・節子夫妻が住んだ戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)の借家Click!は、下落合の氷川明神前にある踏み切りをわたってすぐのところなので、さっそく旧居跡を訪ねてみる。このあたりは、1930年(昭和5)ごろからスタートした旧・神田上水(1960年代に「神田川」の名称に統一)の整流化(直線化)工事により、周辺の風情が大きく変わったエリアだ。...
View Article陸軍士官学校で配られた写真。(5)
陸軍士官学校で有償配布された写真類Click!には、おそらく学生たちの親もとへとどける学校生活を撮影した写真類が混じっている。そこでは、武道で身体を鍛える様子や、学生たちが演習へ参加する様子、さらに修学旅行先で撮られたと思われる写真などがある。...
View Article佐伯アトリエへ配達した近所の魚屋。
今年、新宿歴史博物館Click!に1926年(大正15)に制作されたとみられる、佐伯祐三Click!の静物画『鯖』が収蔵された。佐伯夫妻が、第1次渡仏からもどったばかりのころだ。新宿歴博には同時に、佐伯祐三の素描『林檎』も収蔵されたが、こちらは若描きのデッサンのようで学生時代、あるいはもっと以前の作品なのかもしれない。...
View Article大正時代に流行った興信所の仕事。
公文書館や国会図書館を調べていると、ときどき興信所のレポートに出あうことがある。別に誰かの素行調査の報告書ではなく、多くの場合、企業や株に対する信用調査や、農産物の相場に関する予測情報、土地などへの投資情報だったりする。特に東京近郊の住宅地に関する、投機を目的とした値上がり予測の調査報告書は、大正期を境に激増していくことになる。...
View Articleサンサシオンへ出品の吉田節子(三岸節子)。
サンサシオンの中心メンバーだった松下春雄Click!の長女・彩子様が、吉田節子(三岸節子Click!)の名前を記憶されていた。おそらく、東京の池袋時代Click!ないしは下落合時代Click!かは不明だが、同じく同会の中軸である鬼頭鍋三郎Click!や中野安治郎Click!、大澤海蔵Click!らが松下の家へ頻繁に立ち寄っていた時期、吉田節子は彼らと交流しているのではないだろうか。...
View Article下戸塚の字バッケ下を歩く。
いままで何度もご紹介してきた、「バッケ(崖地)」Click!という地形を表す地域表現がそのまま地名(住所)として採用された、戸塚町(大字)源兵衛(字)バッケ下Click!について、一度も詳細な記事を書いていなかったことに気づき、改めて同所を撮影しに出かけた。このあたりは、学生時代からいまにいたるまでの歩きなれた散策コースであり、わたしには馴染み深い道筋でもある。...
View Article化けネコは温泉旅行に出かけるか。
先日、ご先祖が日本橋浜町にお住まいだったTigerkidsさんClick!より、発情期のネコがうるさいといって、空気銃で撃ち殺したお祖父様のエピソードをうかがった。そうしたら、わたしにも子どものころに銃の記憶があるのを思いだした。おそらく、幼稚園に通っていたころの出来事だろうか、祖父が庭で空気銃をかまえてスズメを撃ち落としたのだ。...
View Article薬王院の境内は房州石だらけだ。
以前、古墳時代の前方後円墳や円墳の上に建立された、東京における氷川明神(出雲神)などの展開についてご紹介Click!した。氷川明神の境内が墳丘を崩した、あるいは整形した古墳跡である重要な物的証拠のひとつとして、考古学的な発掘調査による羨道や玄室を構築するのに用いられ、人手によって加工がほどこされた「房州石」の存在がある。...
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