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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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薬王院の境内は房州石だらけだ。

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薬王院01.JPG
 以前、古墳時代の前方後円墳や円墳の上に建立された、東京における氷川明神(出雲神)などの展開についてご紹介Click!した。氷川明神の境内が墳丘を崩した、あるいは整形した古墳跡である重要な物的証拠のひとつとして、考古学的な発掘調査による羨道や玄室を構築するのに用いられ、人手によって加工がほどこされた「房州石」の存在がある。
 房州石は、房総半島の南端、鋸山のある周辺で産出する独特な石材で、貝の生痕跡(化石)が白く点々と残る黒っぽい凝灰質砂岩のことだが、古墳期には同所に大規模な石切り場と加工工場が存在し、関東各地の古墳造営に大小の石材を供給していたことが判明している。関東南部への輸送は、おそらく船で江戸湾を横断し河川を遡上して運ばれたものだろう。首都圏で発掘されるほとんどの古墳からは、房州石を使用した玄室や羨道、石棺などが見つかっている。ただし、少し内陸の国分寺や府中の古墳の中には房州石ではなく、近くで産出したやわらかくて加工しやすい凝灰質砂岩が用いられているケースもあるようだ。
 さて、神田川(旧・平川)流域には「百八塚」Click!の伝承にからみ、大小さまざまな古墳があったと思われるのだが、落合地域にもそのうちのいくつかが存在したと考えている。ただし、現在まで伝えられている古墳は、上落合の浅間塚古墳Click!(おそらく円墳で山手通り工事のために消滅)のみで、他はすべて早い時期(おそらく江戸期かそれ以前)に崩されて農地化されてしまったようだ。しかし、戦前に土器片や埴輪片を畑へすきこんでしまった話や、全国的な古墳独特の地名(小字)である丸山Click!摺鉢山Click!大塚Click!などの存在から、下落合摺鉢山古墳Click!下落合丸山古墳Click!の存在を想定しても、あながちピント外れではないだろう。
 さて、問題は古墳の存在を裏づける“物証”なのだが、玄室や埴輪片などが出現したとしても、当時は考古学者あるいは歴史学者を呼んで調査する・・・などという習慣はまったくなく、また多くの自治体にもそのような部署は存在していなかった。だから、そのまま放置され破壊されたと思われ、いまでは埴輪片がたくさん出たといわれる元・畑地だったエリアも、住宅街の下になっていて掘り返して調べるわけにはいかない。また、江戸期の下戸塚(早稲田)界隈のように、耕地拡張により古墳から出土した副葬品(主に装飾品に用いられた宝玉など)が寺社に奉納されたケースもあるが、戦災により現在はほとんどが行方不明となっている。
 さらに、なによりも戦前は、関東地方に大規模な古墳が存在するはずがない・・・などという、非科学的かつ自国の古代史を矮小化しておとめる「自虐的」な皇国史観Click!の呪縛により、満足な調査や発掘がなされず次々と大小の古墳が破壊されていった時代だ。東京をはじめ、関東地方が大規模な古墳の密集地域であり、日本最大の円墳や最古・最大の上円下方墳が関東にあることなどが改めて規定されたのは、1945年(昭和20)の敗戦から現在まで、ここ数十年のことだ。
富塚古墳01.JPG 富塚古墳02.JPG
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 古墳の存在を証明するのは、埴輪片や副葬品による“物証”に次いで、玄室や石棺の材料に用いられた房州石などの存在が挙げられる。下落合でも、房州石がまとめてどこかに存在しないかどうか、近くの寺社に立ち寄るたびに観察してみることにした。その手はじめとして、とりあえず最寄りの薬王院からスタートしてみたのだが、すぐに江戸期の代表石材である根府川石Click!ではない、独特な石材が大量に“保存”されているのに気がついた。
 それは、参道でも墓地でも、本堂や方丈のある境内の主なエリアでもなく、斜面やバッケ(崖地)の土止めとして擁壁に用いられている石材だ。これらの石材がどこから運ばれたのか、その由来を取材しようとしたのだけれど、過去に何度か同院の史的な経緯についてお訊ねしても、「わかりません」というお答えしかいただいたことがないので、ましてや古墳由来かもしれない大量の石材の経緯をお訊ねしてもおそらく不明だろうとあきらめて、写真撮影だけさせていただくことにした。そして、材質比較のために、もうひとつ別の場所へと向かう。1963年(昭和38)に、下戸塚の甘泉園公園Click!(三島山)の隣りに移設された水稲荷Click!だ。
 もともと、水稲荷は穴八幡宮Click!の北、毘沙門山(比沙門山:この丘や墓地自体も古墳の可能性がある)をはさみ北側の早稲田大学キャンパスに隣接した、富塚古墳(前方後円墳=高田富士)に奉られていた。しかし、早大がキャンパスを拡張して9号館などを建設する際、水稲荷に代替地となる甘泉園西側の敷地を早大が提供し、富塚古墳(高田富士)は破壊されている。その際、発掘調査が行われ、出土した羨道や玄室の石材などを、丸ごと水稲荷の本殿裏へ移して安置した。つまり、採掘・加工して玄室に用いられてから、おそらく1600年以上は経過し経年変化をしている房州石を観察するには、またとない標本が水稲荷の本殿裏に保存されていることになる。
 薬王院の石材と、富塚古墳の玄室に用いられていた石材とを比較してみると、両者はそっくりなことがわかった。房州石特有の貝の生痕が、表面のところどころに見られ、色あいは切り出して間もない房州石と比較すると、おしなべて両者とも黒ずんで変色している。やわらかい石質からか、風雨にさらされた部分は表面が滑らかになっているが、それ以外の石面にはノミのような道具を用いたのか、生々しい加工痕がそのまま残っている。羨門や羨道、玄門、玄室などを構築する際、石材の一面を平面にする必要があったのだろう、いずれもきれいにカットされた面が見られる。しかも、薬王院の擁壁に使われている石材には、四角くくりぬいた加工痕が残るものまでが見られ、富塚古墳の玄室と仔細に比較・観察すると否が応でも想像力がかき立てられるのだ。
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 古墳をなんらかの聖域化(やしろ化)するのは、おそらく古墳時代からすでにはじまっていただろう。それは、古墳の周囲に祭祀場や斎場が設置されたり、前方後円墳や帆立貝式古墳(略式の前方後円墳)の場合は、造り出し(造出)と呼ばれる、祭祀や祈祷を行なったとみられる特別な場所が、後方部の両脇へまるで耳のように取りつけられているのを見ても明らかだ。そこへ、社(やしろ)の思想が習合ないしは進化して、後世に明神や鋳成・稲荷(山)をはじめ、八幡(山)、天神(山)、弁天(山)などと結果的には名づけられる、各種の「神々」が奉られるようになるのも、古墳時代の末ごろにはスタートしていたかもしれない。ナラ期以降には、寺社の境内として古墳が活用されるケースが急増しただろう。なぜなら、もともと平野部に築造された古墳の形状は、寺社の参道や拝殿・本殿、本堂・塔・僧坊などを設置するには、あらかじめ格好の地形を提供してくれているからだ。
 先の富塚古墳についていえば、後円部の墳丘を平らに削って本殿・拝殿を設置する代わりに、前方部に本殿・拝殿を安置し、墳丘下に鳥居を設置している。つまり、後円部の墳丘そのものを鋳成山(稲荷山)に見立て、麓にある拝殿から信仰・参拝する・・・という形式を採用している。実際に、富塚古墳の付近には湧水源があり、川砂鉄が大量に堆積していたのかもしれず、古代にはタタラ(目白=鋼を精製する製鋼作業)が盛んだったのかもしれない。これが江戸期になると、今度は富士信仰を唱える富士講Click!の宗派と結びつき、後円部の山頂に富士山から信者が背負って運んできた熔岩を積み上げ、「高田富士」に衣がえされている。
 また、先にご紹介した伊興氷川神社古墳のように、大きな円墳を四角く削って境内にしたり、舎人氷川明神古墳のように墳丘の原型を残さないまでに、境内を整形されてしまった社(=古墳)も存在している。下落合氷川明神を見ると、十三間通り(新目白通り)の工事で境内の大半が破壊される以前、かろうじて釣鐘型の形状をしているのを確認できるのだが、上記の例でいうと舎人氷川明神古墳ケースに近似するものだろうか。聖母坂下の「摺鉢山」とともに、小字に残る「丸山」と思われる墳丘が消滅したのは、かなり早くからのことかもしれない。
 寺院の場合は、増上寺の芝丸山古墳Click!(前方後円墳)がそうであるように、後円部の山頂を平らに削り、五重塔や僧坊などの伽藍が設置されているケースが多い。同様の寺院例としては、関東大震災Click!の焼け跡を調査している鳥居龍蔵Click!が規定した、待乳山(真土山)の聖天(前方後円墳)が挙げられる。やはり、前方部と後円部の双方を削り境内としている。また、浅草寺の南に隣接した、弁財天を奉った堂が建つ弁天山(弁天塚古墳Click!)は、後円部の墳丘をほぼ跡形もなく平らに削ってしまった例だ。また、上野公園内に唯一残された上野摺鉢山古墳(前方後円墳または帆立貝式古墳)は、明治期に後円部の山頂が削られて公園の見晴らし台にされていた。
富塚古墳07.JPG 鋸山.jpg
前方後円墳活用例.jpg
 薬王院に“保存”されている、貝化石が混じった古い房州石は、はたして下落合氷川明神古墳(仮)のものか、より巨大な下落合摺鉢山古墳(仮)のものかはまったく不明だけれど、少なくとも玄室の構築に用いられたと思われる房州石が、1600年以上もの時間を超えて下落合に現存している事実は確認できた。すなわち、房州石を大量に用いる大がかりな古墳の築造工事が、小字として残る摺鉢山や丸山の周辺で行われていた可能性を、強く示唆する物証のひとつだ。

◆写真上:崖地の土止め擁壁に利用された、薬王院に残る古い房州石群。
◆写真中上:甘泉園公園(三島山)の西に隣接する水稲荷社の本堂裏に安置された、富塚古墳の玄室などに使われた房州石。前方後円墳の規模から、これがすべてではなく玄室部分のみの石材を移したものと思われる。また、洞稲荷として奉られている、現在の玄室に見立てた横穴状の石組みは規模が小さく、これも本来の玄室構造とは異なっていると思われる。
◆写真中下:薬王院に残る古い房州石群で、駐車場以外にも境内の随所で確認できる。中には、四角くくり抜いた加工痕が残る石材もあるが、房州石とは石質が異なるので後世のものか。
◆写真下上左は、甘泉園(三島山)西の水稲荷本殿裏にある玄室石材を活用した祠稲荷。上右は、古代からの採石場だった南房総の鋸山断崖。は、前方後円墳を社の境内へと整形した一例の拙図。沼袋氷川社Click!中野氷川社Click!などの境内が、この形状に近似している。


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