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このサイトでは、目白通り沿いClick!をはじめ、新宿(淀橋区)各地で行われた建物疎開Click!のテーマは何度か記事にしてきた。また、住民の自主的な地方疎開についても、ときおり別のテーマから取り上げてきている。でも、小学校で行われた大規模な学童の集団疎開については、これまであまり取り上げてきていない。先日、酒井正義様Click!より落合第四小学校Click!の学童疎開を主題にしたDVDをいただいたので、改めてこのテーマを取り上げてみたい。
小学校の学童疎開と聞いて、わたしがまず思い浮かべるのは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!だ。このとき、地方に学校単位で集団疎開していた子どもたちが、卒業式が近づいたので高学年を中心にたまたま東京へともどってきていた。そこへ同日の夜半、B29による絨毯爆撃がはじまったのだ。東京大空襲で子どもたちの犠牲者、あるいは空襲を実際に目撃した子どもたちが多いのは、せっかく地方へ疎開していたにもかかわらず、卒業時期あるいは学年の進級時期で東京にもどったていた子どもたちが大勢いたからだ。
親たちは東京大空襲の話になると、必ず「なぜ、危険な東京へもどしたのか?」と学童疎開の大失策を、あとあとまで残念がっていた。おそらく、日本橋の千代田小学校Click!で学童疎開をした子どもたちが、実家の近所だった知り合いの家にもどってきているのを、実際に目撃していたのかもしれない。隅田川は大橋(両国橋)Click!の向こう側、本所や深川ほどのジェノサイド状況ではないにせよ、千代田小学校の子どもたちの多くが空襲に巻きこまれて生命を落としているのだろう。同夜、関東大震災Click!の教訓から、復興計画の一環で耐火建築校舎のはしりとなった千代田小学校(現・日本橋中学校Click!)は、コンクリートとタイルの外側だけを残して全焼している。
近年、学童集団疎開は子どもたちを都市から地方へ移動させたことで、多くの生命を救ったのだ・・・というようなトンチンカンな論説(さっそく、当時の学童たちを引率した多くの教育者たちから反論を受けている)を見かけるが、少なくとも東京の(城)下町Click!に関する限り、米軍による大規模な空襲が予測されていながら(米軍機より予告チラシさえ撒かれている)、大勢の疎開学童を東京へともどしたのは取り返しのつかない大失策であり、「多くの生命を救った」のとは正反対に、リスクをまったく無視して多くの児童を犠牲にしたのだ。
さて、酒井様からいただいたのは『僕たちの戦争―学童集団疎開 ある少年の記憶―』(『僕たちの戦争』制作実行委員会/真鍋重命:監督・脚本)だ。2013年(平成25)3月、つまり今年の春に完成したばかりで、DVDジャケットの帯には「終戦70周年祈念作品」のショルダーがついており、後援・新宿区教育委員会となっている。1944年(昭和19)に学童集団疎開が行なわれた、落合第四小学校の子どもたちの物語だ。同DVDに添付された、ライナーノーツが引用してみよう。
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子どもたち 孫たち そして見知らぬ若い君たち
おじいさんやおばあさんが子どものころ、日本はアメリカを主力とする連合軍と戦争をしました。/戦争のとき、子どもたちはどんな生活をしたのか、どんなことを考えていたのか。実際に子どもの時に体験したおおぜいの人々に話をしてもらいました。『僕』は一人ではありません。また男の子だけでもありません。戦争の体験という共通の想いが『僕』という主人公です。/70年という年月は遠い昔でしょうか。嫌なことは早く忘れたほうが良いでしょうか。いまでも地球上のどこかで戦争がおきています。毎日おおぜいの人々が傷ついたり死んでいます。/君たちなら、どうしますか。なにを考えますか。いそいで答えを見つけなくてもいいですから、ゆっくり考えてください。君たちの子どもたちのためにも。
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1944年(昭和19)から翌年の春にかけ(第一次学童疎開)、落合第四小学校の多くの生徒たちが集団疎開した先は、茨城県笠間市岩間の不動院と龍泉院だった。村の人々は親切で、物心の両面から子どもたちを援助してくれたらしい。食べ物もなんとか調達できていたようで、ときにオヤツも支給され、他の地域への疎開児童と比較すると、比較的めぐまれていたほうなのだろう。DVDを見るかぎり、子どもたちがひどい飢えに苦しめられることは少なかったように思える。ただし、野草や樹木の実など、食べられるものはなんでも口にしたのは、他の学童疎開ケースと同様だ。冬の暖房には苦労したらしく、境内の落ち葉を集めては暖をとっていたようだが、それがなくなると山へ焚き木ひろいに出かけるのが生徒たちの日課となった。
疎開先では、さまざまな出来事が起きている。予科練出身の海軍少尉が、ときどきチョコレートを土産に慰問にきてくれていたのだが、ある日、寺の上空を低空飛行で旋回して手を振ったあと、特攻へ出撃していった。また、赤紙Click!(召集令状)のとどいた若者が、村の池で自死するという事件も起きている。「御国のために捧げるべき命なのに、自殺するとは国賊だ!」と警官が脅し、葬式さえ出せなかった話。さらに、戦死した夫の遺骨を受けとった際、涙をこぼした若妻に対し、「英霊に涙をみせるとは何事だ!」と恫喝した将校の話など、1945年(昭和20)8月15日までつづいた大日本帝国の“思想性”を象徴するようなエピソードが語られる。ちなみに、夫の遺骨を手にして涙を見せた若妻について、落四小の教諭は「泣くのはあたりまえだ、祝い事じゃない」と、生徒たちを前に恫喝した将校を批判している。何度か、海軍将校の例Click!で取り上げてきたけれど、日本じゅうが憲兵隊Click!や特高Click!、さらには町会を基盤とする隣組Click!などの相互監視・強制組織によって自由な言論が圧殺され、あたかも今日の“北朝鮮”的な状況に置かれていた人々の中に、なんとかまともな感覚や理性が残っているところにこそ、かろうじて救いがあると思うのだ。
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1945年(昭和20)の夏が近づくと、「本土決戦/一億総玉砕」が叫ばれはじめ、米軍のオリンピック作戦Click!に備えて、子どもたちは海辺の疎開地から内陸部へと移動させられている。(第二次学童疎開) 落合第四小学校の生徒たちは、今度は群馬県玉村町の法蓮寺、東栄寺、常楽寺などの寺々へ分散疎開をさせられた。夏期なので、寒さに苦しむことはなかっただろうが、食糧の調達はどんどん苦しさを増していっただろう。
このDVDには、学習院初等科の子どもたちが、日光の金谷ホテルへ集団疎開した様子も収録されている。さすが、華族学校だけあって、疎開先が一流ホテルとはおそれ入谷のClick!・・・なのだが、日々の食べ物にもそれほど不自由はしなかったらしく、授業やスポーツ、ハイキング、東照宮参拝など東京での学園生活と大差ない毎日を送っている。金谷ホテルの広間は、古河電工の女子挺身隊員たちが寝泊まりしていたのだが、それを退去させての疎開生活だった。学習院の学童疎開における食生活は、実際に疎開生活を送った真田尚裕『日光疎開食事日記』を見ると、一般の学童疎開における食生活とは雲泥の差だった。それに対し、学校の寮があった軽井沢へ集団疎開した、日本女子大学付属小学校の生徒たちは、食べ物の調達や軽井沢の寒さに苦しめられ、かなりひもじい思いをしていたようだ。2013年(平成25)4月に増補再編集で改版された、『私たちの下落合』(「落合の昔を語る集い」編集)から、敷田千枝子様の引用してみよう。
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六年生のとき(昭和十九年)に集団疎開をすることになり、学校の寮がある軽井沢に行きました。とにかく冬とても寒かったことと、年中ひもじい思いをしていたことが強烈に記憶に残っています。でも、裏山に栗を拾いに行って食べたのがとてもおいしかったことなどは、むしろ楽しい思い出といえるのかもしれません。軽井沢は零下十何度にもなる寒いところで、冬の朝、板敷きのぞうきんがけをするとき、スーッと拭いて走っていったところを拭いて戻ると、今拭いたところが凍っていて、ツルンと滑ったりしたものです。風呂屋に行って髪を洗って帰ってくると、髪がバリバリに凍って、頭を振ると髪がパリンパリンと音を立てました。寒い冬の朝など、金属のドアの取っ手に手がべたっと吸いつけられるようにくっつくのに、びっくりしたこともありました。寒さで凍ったカボチャを煮たものがよく出ましたが、グチャグチャしていて、ひもじい私たちにもひどくまずかったのが忘れられません。(略) 昭和二十年には女学校に進学するため、同級生が皆いっしょに東京に戻りました。帰りの列車が赤羽まできたとき空襲に遭い、汽車が機銃掃射を受けてとても恐ろしい思いをしました。窓の木製のブラインドを下ろした暗い車室の中で、みんな床に伏せて震えていたのでした。
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DVD『僕たちの戦争』は、新宿区の図書館や資料室、学校などで観ることができるのだろう。また、本作を教材として採用する小学校も増えてきているようだ。中国との戦争を含めると、15年戦争などまるでなかったかのような“すまし顔”の日常だが、「ワスレテハイケナイ物語」(野坂昭如)はほかでもない、わたしたちの足元の表層に眠っている。「戦後」は、まだ終わってはいない。
◆写真上:1944年(昭和19)秋、落合第四小学校の校庭で行われた学童集団疎開の出発式。
◆写真中上:上は、同じく校庭Click!での出発式の様子。下左は、心配そうに見送る親たち。下右は、「戦勝祈願」と行程の無事を祈願するため下落合氷川明神社へ参拝する生徒たち。
◆写真中下:上は、目白駅へと向かう落四小の生徒たち。下は、1945年(昭和20)の敗戦直後に松本竣介Click!が家族へあてた絵手紙。中井駅のホームから妙正寺川ごしに焼け野原の上落合を眺めた風景で、上空にはグラマン戦闘機やB29が低空で威嚇するように飛行している。
◆写真下:左は、DVD『僕たちの戦争―学童集団疎開 ある少年の記憶―』(2013年)。右は、焚き木を集めて暖をとる疎開先の落四小生徒たち。疎開の写真は、いずれも同DVDより。