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スターリニズム下のソ連へ乗りこむ高良とみ。

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アムール川フェリー.jpg

 敗戦を境に、「満州」や旧・ソ連国境に近い位置にいた多くの日本兵が、ソ連軍に連行されシベリアの強制収容所(ラーゲリ)で抑留されているが、長期抑留者の間に大きな変化が起きたのは敗戦から7年後、1952年(昭和27)5月12日になってからのことだった。日曜日で休日のはずなのに、抑留者たちは営外(屋外)作業を命じられたのだ。
 作業現場に着いてみると、脱走防止用の板塀がいつもの2倍の高さに増築され、収容所外の道路がまったく見えなくなっていた。ハバロフスクに設営された第21分所に起きた異変を、1989年(昭和64)に出版された辺見じゅん『収容所から来た遺書』(文藝春秋)から引用してみよう。
  
 この日は本来は作業休みの日曜日だったが、一部の営内勤務者や病人を残して全員が作業現場へかりだされた。「日曜ぐらい休ませろ」と抗議する者もいたが、監視兵に作業場へと追い立てられた。収容所のソ連人たちの雰囲気もいつもと違ってピリピリしている。作業班長から伝達されたこの日の収容所長の命令も理屈に合わぬものだった。「本日は日曜日であるが、各現場の仕事が急がねばならぬので作業にでよ。代休は後日与えることにする」/営外作業にかりだされた野本は、日曜日にまでかりだされるほどの急ぎの作業は、どう考えても思いつかなかった。
  
 実際、作業現場へ着くとどこにも急ぎの作業などなく、収容者たちが手持ち無沙汰でブラブラしていても、別に作業監督者から注意されることもなかった。この日、営外作業班が収容所から出ていくと、営内に残った日本人はすべて衛門から遠く離れた、レンガ造りのバラック2階に集められている。バラックの周囲には歩哨が立ち、ものものしい雰囲気で建物内へ監禁された。衛門から病院の入り口まで、きれいな砂利が一面に敷きつめられ、病院のカーテンや敷き布も新しいものに取り換えられ、病院内には花瓶に活けた花までが飾られている。
 当初は、モスクワから政府の要人が収容所の病院を視察に訪れるのだとウワサされたが、クルマでやってきたのが日本の参議院議員・高良とみClick!(緑風会)だと聞いて、収容者たちは驚愕することになった。このあたりの様子は、近衛文隆Click!の生涯を描いた西木正明『夢顔さんによろしく』(文藝春秋)の記事でもご紹介Click!している。このとき、ソ連への旅券を発行しない日本政府に業を煮やした高良とみは、パリで開かれていたユネスコ会議へ出席したあと強行突破でソ連へ入国し、シベリア抑留者のいる収容所をぜひ視察したいと談判している。
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高良とみ1931.jpg
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高良とみ(信州).jpg

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高良とみ1933頃.jpg
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 このとき、ソ連政府がとった対応は視察先の収容所や病院をにわかに飾りたて、視察者のためのきれいな“玄関口”を用意するという、スターリニズム下の典型的な施策だった。おそらく、高良とみもどこかで違和感を感じながらの“玄関”視察だったと思われるのだが、この1952年(昭和27)に空けた風穴を突破口に、長期抑留者の帰国が実現していくことになる。
 高良とみは、ソ連軍将校に案内されて第21分所の病院を視察するのだが、その白々しい対応がいかにもスターリニズム下のソ連の様子を伝えている。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 あらかじめ重症患者は、数日前に市内の中央病院に移されていたので、軽症の患者だけになっていた。病院の日本人を見舞って歩いたとき、案内の将校が、/「今日はあいにくの日曜日なので、病人を除いて日本人たちはウスリー江へ魚釣りや水遊びにでかけてしまい、残念ながら会えないのです」/と説明をしていたという。高良は、患者数人に名前を訊ねたり、家族への伝言はないかと声をかけたりした。/高良が帰るとすぐに、「カーテン婆さん」と綽名されていた衛生係の女性将校が、新しいカーテンや敷布をさっさと片づけ、花や花瓶まで持ち去ってしまったという。「しかし、日本の政治家が国交もないこの国へよくこられましたね」/野本が不思議がると、山本がいった。/「うむ。その点はちょっと解せんが、なんといっても戦後初めてやってきた日本人だからね。この国が許可したということは、ぼくたちの帰国に決してマイナス材料ではないと思うよ」
  
 高良とみの視察後、ひと月ほどして第21分所にいる抑留者たちの間に急激な変化が起きている。翌6月には、抑留者と日本の家族との間でハガキ郵便による通信が許可された。おそらく、これも高良とみがモスクワで、スターリン官僚を相手に実現した成果なのだろう。
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高良とみ1936頃.jpg
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高良とみ(講演).jpg

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高良邸下落合680.JPG
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高良邸下落合1808.JPG

 「八島さんの前通り」Click!から路地を東へ入った下落合(2丁目)679番地(のち680番地:現・中落合2丁目)から、下落合(3丁目)1808番地(現・中落合1丁目)の妙正寺川に面した高良興生院Click!に住んだ高良とみは、戦時中、憲兵隊から常に目をつけられていた。良心的兵役拒否の「石賀事件」に連座していると疑われていたからだが、検束こそされなかったものの、常に生活上では嫌がらせを受けていたようだ。先日、戦前から戦後にかけ高良とみを撮影した写真を、ある方からまとめていただいたのでご紹介したい。
 家の内外で撮影された写真には、当時の緑濃い下落合風景がチラリと垣間見られる。中には、高良とみに下落合2108番地の吉屋信子Click!、そして門馬千代Click!と下落合の住民同士で信州へ出かけたときの写真も残されている。また、戦後になって撮られたものだが、当時は参議院議長だった堤康次郎Click!とともにとらえられたショットも残されている。
 高良家の写真は、西坂上にあたる下落合679(680)番地の邸に住んだ時代に撮影されたものと、白百合幼稚園の東隣り、下落合1808番地の高良興生院時代に撮影されたものとに分けられる。西坂上の邸の書斎には、額に入れた絵が飾られているが、残念ながら法隆寺金堂の壁画(勢至菩薩)だと思われ西洋画ではない。また、庭に吊るされたブランコとともに写る夫妻の背後には、樹間から隣家と思われる建物が見えている。一時期、隣家にはアトリエ建設までの仮住まいをしていたのだろう、1930年協会(のち独立美術協会)の川口軌外Click!が住んでいた。
 また、高良興生院の建物とみられる大きな西洋館を背景に、高良とみが写る写真も残っている。1945年(昭和20)4月13日の神田川と妙正寺川沿いの中小工場や、西武線をねらった第1次山手空襲Click!を受けた高良一家は、妙正寺川の川底にある砂州へと避難した。高良興生院は、病棟の一部が焼けただけで火を消し止めているが、西隣りの白百合幼稚園は全焼している。
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高良とみ1942.jpg
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高良とみ1940末.jpg

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高良とみ1953頃.jpg
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 高良家では、同じく下落合679番地の2軒隣りに住んでいた、1930年協会の笠原吉太郎Click!の作品を、少なからず購入して室内に飾っていた。最後に、高良とみの連れ合いである高良武久が、1973年(昭和48)の『美術ジャーナル』4月号に寄せた一文を引用しておこう。
  
 とくに笠原さんとは逢って絵を見る機会も多かった。絵筆を持つ笠原さんの顔はきびしかったが、いつも人なつこい微笑をたたえたそのお人柄も好きであり、またその絵は見るたび毎に立派に見え、戦前から今に至るまで毎日眺めていて少しも飽きないのは不思議である。/装飾的な甘さはなく、あまり華やかさはないが、暗くはない。タッチの切れ味がよく健康な男性的な息吹きを発散させる。しかし筆はよく制御されている。対象にくいこんではまた画布に迸しり出る純粋な熱気が快よく伝わってくる。/笠原さんは佐伯祐三Click!氏とも交わっておられ氏所有の佐伯氏の絵Click!を見せられた。私はそれを見て佐伯さんは病的なほど神経質な方ではなかったかと聞いたら氏はそれを肯定された。佐伯氏のと比べると笠原さんの絵は良し悪しは別として一層健康的に感じられた。
  
 この文章は、精神科医が観察した佐伯祐三作品として読むのも興味深い。また、笠原吉太郎作品は高良興生院内にも、引きつづき架けられていたのがわかる。高良とみも好きだったらしい笠原作品だが、その中に『下落合風景』Click!ははたして何点ぐらいあったのだろうか。

◆写真上:1985年(昭和60)8月に、アムール川をウスリー川方面へさかのぼる旧・ソ連のハバロフスク市フェリー。偶然にも、日本からほぼ最後のシベリア墓参団といっしょになった。
◆写真中上左上は、1931年(昭和6)に開かれた「思想しつゝ生活しつゝ祈りつゝ」の集会で講演する高良とみ。上右は、長野県へ旅行中のスナップで吉屋信子(右)と門馬千代(中)、そして高良とみ(左)。下左は、下落合679(680)番地の高良邸図書室で1933年(昭和8)ごろ撮られた高良とみと高良武久。下右は、1935年(昭和10)にブランコのある同邸の庭で撮影された高良一家。
◆写真中下上左は、1936年(昭和11)ごろ撮られた一家で後列右から3人目が高良とみで4人目が高良武久。上右は、講演する高良とみ。下左は、下落合679(680)番地の路地奥の右手にあった高良邸跡。下右は、下落合1808番地にあった高良興生院跡。
◆写真下上左は、下落合1808番地の高良興生院の敷地内で撮影された高良とみ(左端)。上右は、1940年代末に同院の高良邸前で撮られたと思われる高良とみ。下左は、国交のない旧・ソ連や中国からの帰国後、1953年(昭和28)ごろの高良とみと家族たち。下右は、1954年(昭和29)にイスラム代表バジ・オマーン(右端)に参議院議長だった堤康次郎(左端)を引きあわせる高良とみ(中央左)。高良とみは、戦後も一貫してアジア重視の思想や政治姿勢を変えなかった。


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