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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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少女は西武線の電車に飛びこんだ。

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千代久保橋踏み切り.jpg
 事件・事故は時代を映す鏡だといわれるが、このサイトでも下落合で起きたさまざまな事件Click!をご紹介してきた。きょうは、西武電鉄Click!が開業してから、おそらくもっともセンセーショナルな事件を取り上げてみたい。この事件は、高田馬場仮駅Click!時代に線路の無理なカーブで、電車が脱線事故を起こしていたとしても、それ以来の大きな事件だったろう。事件は、西武電鉄の開業まもない、1927年(昭和2)9月13日の夜に起きた。
 東京中央気象台の記録によれば、この日は小雨となっているが、昼間は晴れていたものの午後から天候が急変して豪雨になる日がつづいていた。ひょっとすると、熱帯低気圧が接近していたと思われるのだが、当時の台風の詳細な記録は残っていない。午後7時14分ごろ、氷川明神前の下落合駅Click!を出て加速をはじめた川越行きの下り電車が、神田川に架かる下落合971番地付近の千代久保橋踏み切りへさしかかったところ、右手からいきなり少女が飛びだして電車に飛びこんだのだ。
 千代久保橋は、1935年(昭和10)前後に行われた神田川と妙正寺川の整流化工事にともない、現在では妙正寺川に架かっており、現・下落合駅前に架かる西ノ橋のひとつ東側の橋だ。そして、いまでも新・下落合駅ホームの延長で位置は少しずれているが、千代久保橋踏み切りは存在しており、久七坂を下りて戸塚第三小学校などのある下戸塚側へと抜けられる、便利な橋のひとつとなっている。では、1927年(昭和2)9月14日の読売新聞から引用してみよう。
  
 重傷を見棄て電車逃走す/少女はつひに絶命 乱暴極まる西武線
 十二日(ママ)午後七時十四分折柄の豪雨中西武鉄道村山線川越行電車が落合町下落合八七五先千代久保橋踏切付近を進行中十五、六歳の娘が電車に触れ虫の息となるや運転手登口一雄(二〇)車掌村山専太郎(二一)の両名はその娘の體を線路外に投げだしたまゝ進行を続けたのを乗客が気づき非常に憤慨してその乱暴を難詰したため始めて戸塚署に届出で、同署で検視したがちゞみの単衣にメリンスの帯を締め年齢一五、六歳位とだけで身許が判明しない、同時に間もなく絶命したので自殺か過失かも判明せず警察署では本人の身許を調査してい 一方運転手、車掌に対しては余りにその処置が乱暴だといふので依然警察に拘留して取調べを進めてゐる
  
 西武線に飛びこんだ少女を、運転士と車掌が線路脇へ投げ出して運行をつづけようとしたので、乗客たちが怒りだし警察を呼んだ様子が伝えられている。いまでは考えられないような処置だけれど、大正期から山手線や中央線の随所でつづく飛びこみ自殺Click!に、西武線の乗務員たちの感覚もマヒしていたのかもしれない。ふたりは、その場で警察に拘留されている。
読売新聞19270913.jpg
西武電鉄1927_1.jpg 西武電鉄1927_2.jpg
 当初は、身元不明の自殺者ということだったが、ほどなく身元が判明した。下落合731番地に住んでいた、東京高等師範の数学教授だった佐藤良一郎宅へ寄宿していた、親戚の19歳になる少女だった。翌9月15日に発行された、読売新聞の続報記事から引用してみよう。
  
 轢死した少女自殺と判明す/何故か全く判らぬ 高師教授の従妹の死
 既報十三日夜 西武鉄道村山線下落合七三五千代久保橋踏切で轢死を遂げた少女の身許は 市外下落合七三一東京高師教授佐藤良一郎氏(三七)方に同居中の 同氏の従妹伊藤かづよ(一九)が自殺したものと判明した かづよは郷里和歌山県東牟婁郡下里村八尺鏡野から結婚前生花その他修養のため上京、佐藤氏方に寄ぐうしてゐたもので、両親に早く死別し男兄弟のみで平常さびしがりやではあつたが 死因は男女関係や家庭上又教育方針等からとは考へられず 同日はくず屋に自分のはかま二枚を売らうとするのを佐藤氏の妻女に止められ それ以来ふさぎ込んで居たが夕方新しいはき物をはき、何気なく外出したもので同家でも何故死んだか不思議がつてゐると
  
 下落合731番地は、ちょうど諏訪谷Click!に面した曾宮一念アトリエClick!の、2軒西隣りにあたる地番だ。記憶力のいい曾宮一念Click!も、当然このニュースは憶えていただろう。
下落合731番地.jpg 下落合971番地.jpg
千代久保橋.jpg 佐藤良一郎邸跡.JPG
 親族たちは、なぜ伊藤かづよが自死したのかわからず「不思議」だとしている。彼女は、9月13日の夕方、おそらく大雨の中を佐藤邸からひとりで外出し、東側の曾宮アトリエの前を通って大六天Click!のある久七坂Click!筋を右折した。いまだ、聖母坂Click!(補助45号線)が存在しない時代だ。何度かくねくねとカーブを描く尾根筋の道を歩き、久七坂を下りきると高田邸および伊藤邸、そして大澤邸にはさまれた十字路をそのまままっすぐ南へたどり、加藤邸へ突きあたると東へ左折した。そして、豊菱製氷工場のところから南へ右折し千代久保橋をわたれば、千代久保橋踏み切りは目の前だ。伊藤かづよは、上り電車が中井駅を、あるいは下り電車が氷川社前の旧・下落合駅を発車するのを、暗闇の豪雨の中で待ちつづけたのだろう。
 やがて、左手(東側)の旧・下落合駅方面から下り電車が近づく気配を感じた。ライトをつけた電車が踏み切りへさしかかる直前、彼女は迷わず線路の中へ飛びこんだ。その後、伊藤かづよの自殺原因は判明したのだろうか? これ以上の続報がないようなので、おそらく遺書もなく、そのまま原因不明で処理されてしまったような気がする。
 わたしは、彼女が読書好きなロマンチストであり、文学少女ではなかったかと想像している。伯父の家へ下宿し、将来の結婚へ向けた行儀見習いの生活をするうちに友人たちもでき、さまざまな情報交換や本の貸し借りなどもあっただろう。あるいは、東京高等師範学校の教授宅なので、いろいろな分野の書籍が本棚にそろっていたのかもしれない。彼女は、もともと感受性が強く頭のいい女性だったため、それらの文学作品にのめりこんでいったのではないか。そして、人生に絶望し生活を悲観するなんらかの作品にめぐりあった。ひょっとすると、同年の1月に帝国ホテルClick!で秘書と心中未遂事件を起こしていた、芥川龍之介の作品も熟読していたのかもしれない。
佐伯祐三「下落合風景」(諏訪谷)1926.jpg
佐伯祐三「セメントの坪(ヘイ)」1926.jpg 佐藤良一郎「数理統計学」1943.jpg
 なぜ、伊藤かづよが文学少女だったなどと想定できるのか? それは、彼女が西武線に飛びこむ前々日、1927年(昭和2)9月11日は芥川龍之介が自殺してから七七日(49日)目にあたり、なんらかの関連性を強く感じるからだ。大正が終わり世相が徐々に暗さを増す中、金融恐慌から世界大恐慌へと崩壊をつづける経済状況を背景に、「漠然たる不安」を感じた若者が次々と自死する、1932年(昭和7)ごろにはじまる“自殺ブーム”は、伊藤かづよの死から5年後のことだった。

◆写真上:旧・下落合971番地付近に現存する、雨の千代久保橋踏み切り(馬9Click!)。
◆写真中上は、1927年(昭和2)9月14日の読売新聞に掲載された事件記事。は、1927年(昭和2)の開業直後に撮影された西武鉄道村山線で下落合の西隣り上高田あたり。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる千代久保橋と千代久保橋踏み切り()と、下落合731番地にあった東京高等師範学校教授の佐藤良一郎邸()。下左は、いまは妙正寺川に架かる千代久保橋。下右は、下落合731番地の旧・佐藤邸跡。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三『下落合風景』(諏訪谷/曾宮さんの前Click!)。福ノ湯の煙突の左手前に、佐藤良一郎邸と思われる大きめの2階家がとらえられている。下左は、同年に描かれた佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』Click!。佐藤邸は右手背後にあり、まさに伊藤かづよが雨の中を歩いて久七坂筋へ出ようとしたとき目にしていた光景だ。下右は、1943年(昭和18)に培風館から出版された佐藤良一郎『数理統計学』。


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