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下戸塚の字バッケ下を歩く。

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字バッケ下01.JPG

 いままで何度もご紹介してきた、「バッケ(崖地)」Click!という地形を表す地域表現がそのまま地名(住所)として採用された、戸塚町(大字)源兵衛(字)バッケ下Click!について、一度も詳細な記事を書いていなかったことに気づき、改めて同所を撮影しに出かけた。このあたりは、学生時代からいまにいたるまでの歩きなれた散策コースであり、わたしには馴染み深い道筋でもある。
 現在の目標物で位置を表現すると、甘泉園公園や水稲荷社Click!のすぐ西側に亮朝院(赤門寺)という寺がある。江戸初期に高台へ建立された寺院なのだが、この敷地から西側一帯の谷間が、字「バッケ下」と呼ばれた区画だ。その範囲は、都電の面影橋駅のすぐ南に位置する谷の開口部から、徳川幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)の西端あたりまで、南北にタテ長のかたちを形成している。端的にいうなら、亮朝院が建つ敷地を東尾根として、神田上水が流れる北側から南へと切れこむ浅い谷戸のひとつが形成されており、その谷戸の斜面や谷底に形成された集落域ないしは田畑を、バッケ下と呼んだのがはじまりなのだろう。
 ただし、本来の「バッケ下」がこのように南北に長く、これほど範囲が広かったかどうかは疑問だ。なぜなら、同字(あざな)が記載された地図を、新しいものから古いものへたどっていくと、字バッケ下の位置は少しずつ北へ、すなわち旧・神田上水に近い谷の開口部のほうへ移動しているのがわかる。換言すれば、地名表記(地籍簿)や住所としての字(あざな)が必要となる新たな時代を迎えるとともに、神田上水沿いにあった字が少しずつ南へ拡張された・・・という感触が濃厚だ。
 字バッケ下について、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
  
 大字源兵衛 小字バツケ下(自一番 至五三番) (中略) 小字バツケ下は諏訪明神の処を里俗アケバツケと称するより起れる名なるよし、大字下戸塚三島の西に連り天祖神社のある処なり、同向原は小字秣川の西に当り馬場下道附近より神田上水に倚れるの地なり、諏訪の畑を南に見放して腹の如くなれば此の名ありとぞ、同秣川はバツケ下の西にあり。
  
 「アケバッケ」という、独特な地元の呼びかたが興味深い。広めの谷間が口を開けたところがバッケ(崖)状に切り立っていたので、アケバッケと呼称されていたのだろう。そして、崖の下に拡がる平地あるいは谷の斜面をバッケ下と呼称していたのは、落合地域とまったく同様だ。
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 もっとも傾斜が急峻だった崖地は、面影橋の南側に形成されていたとみられ、安藤広重Click!はその急斜面に腰をすえて『江戸名所百景』Click!の第116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」Click!を描いていると思われ、姿見橋や川沿いの家の屋根を見下ろしながら、斜めフカンの位置で矢立ての筆をとることができたのだ。現在でも、面影橋の南側には崖地特有のバッケ坂Click!やバッケ階段を見ることができる。東京各地の崖線によっては、これらの名称は意味の通りやすいオバケ坂Click!オバケ階段Click!、あるいは幽霊坂Click!へと転訛していると思われる。
 このバッケ下(崖下)から南側の尾根筋、戸塚第一小学校や高田馬場跡のある丘上へ向け窪んだ谷戸Click!地形の一帯が、1932年(昭和7)ごろまで字バッケ下と地名がふられていたなだらかな谷間だ。面影橋あたりから南へ入ると、谷の入り口近くには天祖社が奉られており、左手(東側)に亮朝院の境内を見上げながら、高田馬場跡の西端あたりへと上ることができる。大正期には、天祖社の西側には湧水源があったのだろう、小さな池が形成されていた。天祖社の属社には、もともとが湧水源らしく弁天社も奉られている。ちなみに、昭和初期に作成された豊多摩郡戸塚町大字源兵衛地籍図を参照すると、谷の突きあたりから北の神田上水へと流れる小川をはじめ、東西にはさまれた崖地から水が湧いていたのが確認できる。
 おそらく、昭和初期の宅地開発で、傾斜のきつい斜面は次々とひな壇状に造成されたものだろう、現在では亮朝院のある東側の尾根筋と、字バッケ下の谷底の高低差は、それほど大きなものとは感じられなくなっている。また、南北に刻まれた谷間も傾斜が緩やかなせいか、あまり坂道の負荷を感じないで早稲田通りへと抜けることができる。上記の南から北へと流れる谷底の渓流は、現在では暗渠化されて、流れの形状がそのまま道路となっている。
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源兵衛バッケ下地籍図.jpg

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 字バッケ下が、住宅地として開発される以前の風情は、現在の水稲荷社の境内あたりや、江戸期には亮朝院のある尾根筋との連なりで「三島山」と呼ばれた、甘泉園公園の丘陵地帯で見ることができる。斜面には雑木林が拡がり、谷間のあちこちから泉が湧き出ているような風情だったにちがいない。その細長い谷間は、早くから水田ないしは畑地化されていたと思われ、戸塚町が作成した大字源兵衛全図を確認すると、ほぼ全域が田畑と林になっている。
 明治期の、字バッケ下あたりの様子を語った記録が残っている。仲野富美子という方の想い出だが、1976年(昭和51)出版の『我が町の詩・下戸塚』(下戸塚研究会)から引用してみよう。
  
 子供のころは天祖神社や、牛屋の原でよく遊びました。牛屋の原は現在の小学校(戸塚第一小学校)のところが一段高くなっていて、そこは崖になっていました。この段違いの牛屋の原には長い雑草が一面生い茂り、牛が飼われていました。原っぱの東側は相馬家の高い木の屏で、中は全く見えませんが樹木がうっ蒼と繁っていました。赤門寺(亮朝院)の前の坂は今よりももっと急だったので馬がよく倒れたのです。荷を積んだ馬力は坂を登ることが出来ないので、皆んなで後押しして手伝いました。赤門寺の裏の崖の上<現在の早大バレーコート辺まで>はうっ蒼とした森林で、樹木にからまったつたが沢山垂れていたのを憶えています。(カッコ内は引用者註)
  
 この証言に何度か出てくる「牛屋の原」というのは、明治の初めにできた東京牧場Click!のひとつで、現在でも早稲田大学の南門前に、洋食レストランの名称として残る「高田牧舎」のことだ。
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 都電の面影橋停留所から北へと上がる現在の「バッケ下」は、昔ながらの学生アパートもあれば、アーティストたちのおしゃれなアトリエやスタジオなども点在する、落ち着いた街並みを形成している。あちこちに崖地からの湧水流の跡らしい、行き止まりの路地があるのも迷路のようで歩いていると楽しい。街角に残る巨木は、昔日の緑濃い谷間を連想させてくれるよすがだ。

◆写真上:字バッケ下を南北に走り、早稲田通りへと抜ける傾斜が緩やかな坂道。
◆写真中上上左は、字バッケ下への谷間口にある天祖社。上右は、地元では赤門寺の別名で親しまれる亮朝院の山門。下左は、亮朝院の西側に落ちこんだひな壇1段目の現状。下右は、同じく戸塚第一小学校(旧・牛屋の原=高田牧舎)からバッケ下へ落ちこむ崖線擁壁。
◆写真中下は、昭和初期に作成された「豊多摩郡戸塚町大字源兵衛字バッケ下地籍図」。旧神田上水は、戸塚地域では当時「高田川」と呼ばれていた。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる字バッケ下で森と畑地が拡がっている。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。昭和10年代の短期間のうちに、宅地化が一気に進んだ様子が見てとれる。
◆写真下上左は、亮朝院のある東側崖線のひな壇2段目。上右は、西側の尾根上からバッケ下方面へと下る坂道。は、バッケ下の谷間から西側の丘陵を眺める。下左は、谷間で見つけた画塾兼アトリエ。下右は、西の丘上から十三間通り(新目白通り)へと一気に下るバッケ階段。


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