先日、ご先祖が日本橋浜町にお住まいだったTigerkidsさんClick!より、発情期のネコがうるさいといって、空気銃で撃ち殺したお祖父様のエピソードをうかがった。そうしたら、わたしにも子どものころに銃の記憶があるのを思いだした。おそらく、幼稚園に通っていたころの出来事だろうか、祖父が庭で空気銃をかまえてスズメを撃ち落としたのだ。
おそらく戦時中あるいは敗戦直後の、食糧難の時代が話題になっていたのだと思う。おふくろが、祖父の家(つまり実家)の生垣だったマサキの芽を、「つませてください」といって訪ねてきた母子の話を、「かわいそうだったわね」としていたのを憶えている。そして、スズメがご馳走の時代だった・・・というような話題になっていったのだ。「スズメって美味しいの?」と、わたしが訊ねたのだろう。「ああ、美味いよ。ちょっと待ってなさい」といって、祖父は床の間近くに置いてあった刀箪笥の最下段から、いきなりライフル銃(子どもにはそう見えた)を取りだしたのだ。
西部劇でしか見たことがないようなライフル銃(実は空気銃なのだが)を、布の袋からスッと取りだすと、祖父は盆栽が50鉢以上は並べられた、それほど広くはない庭へと下りていった。わたしも庭へ出たのだが、祖父は鉄砲をかまえたまま空のあちこちに銃口を向けるだけで、なかなか発射しようとはしなかった。子ども心にも、まさか、こんな街中の住宅街で撃ちゃしないだろうと、どこかでタカをくくっていたのだが、5分ほどしてパーンと乾いた音とともに、スズメが屋根から軒下へ転がり落ちてきた。祖父はそれをひろうと、わたしの手に持たせてくれた。手のひらが、生温かい感触とともに血だらけになったのを憶えている。
空気銃といっても、今日のBB弾が飛びだすエアーガンとはまったく異なり、充分に殺傷力のあるものだ。当時から銃刀法の規制対象になっていて、ときどき警官が立ち寄っては銃や刀剣の保管を確認していく巡回が行なわれていた。刀剣は、現在のように地域の教育委員会・文化財担当の管轄ではなく、いまだ所轄の警察署が管理する時代だった。祖父の家によくやってきた初老の巡査は、職務にことさら忠実だったわけではなく、自身も刀剣が趣味なので上がりこんでは、祖父と1時間ほど話しこむこともめずらしくなかったらしい。
さて、スズメの羽をむしって料理してくれたのは伯母なのだが、戦争中にやむをえず調理のしかたをおぼえたのだろう、手馴れた様子だった。伯母は、スズメの唐揚げを作ってくれたのだが、これがビックリするほど美味かった。しつこい脂がなく、フライドチキンよりも数段美味だ。丸ごと焼いて、フルーツソースを添えても美味いだろう。いまでは飲み屋で、骨ごと香ばしく食べられるスズメの唐揚げは、それほどめずらしいメニューではないけれど、確かに戦中戦後の食糧難時代を考えれば、スズメはたいそうなご馳走だったにちがいない。その後、「こんな住宅街のまん中で、鉄砲を撃たないでちょうだい!」と、祖父が近隣から抗議を受けたかどうかはさだかでない。
さて、ちょっとこじつけめいているのだけれど、日本橋浜町で撃ち殺されたネコは、その後、化けて出やしなかっただろうか。もっとも、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、東日本橋Click!(薬研堀界隈Click!)ともども焦土と化してしまった一帯なので、人々の恨みや口惜しさの念のほうがひしめいて、ネコのお化けも戦後は出にくかっただろう。
化けネコというと、すぐに四世南北の芝居『独道中五十三駅(ひとりたび・ごじゅうさんつぎ)』(岡崎の猫)や、『花野嵯峨猫魔稿(はなのさが・ねこまたぞうし)』(鍋島化け猫騒動Click!)などが有名だが、ネコが化けるのは、なにも江戸期に限らない。全国の民話を蒐集してまわっている、松谷みよ子の『現代民話考』(全12巻/筑摩書房)にも、たくさんの「化け猫」に関するフォークロアが採取されている。夏なので、今日まで語られつづけている化け猫の怪について、取り上げてみたい。21世紀の現代、実は日本全国のあちこちで、いまだ化け猫は口承されているのだ。2004年(平成16)に筑摩書房から出版された、松谷みよ子『異界からのサイン』より引用してみよう。
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渡辺さんは猫が大好きで、五、六匹はいつもいたが、みんなよく人のいうことを聞き分ける利口な猫だったという。/ある日、その中のタマという雌猫が前足に怪我をして戻ってきたが、次の日には姿を消し、何日か経っても帰らない。/死ぬときは姿を隠すというから、どこぞで死んでいるのではと案じていると、ひょっこり戻ってきた。足の怪我も治って元気になっている。/「どこへ行っていたのタマは。すっかり元気になってよかったね」/渡辺さんはタマを抱きあげて言ったが、タマはニャアというだけだった。/ところが追いかけるように、月岡温泉から、「宿泊料請求書」が届いた。/宛名は「渡辺タマコ様」で、不審に思って宿に問い合わせると、渡辺タマコ様は色白のとてもきれいな女の人で、いつもからだごとお湯には入らず、手だけひたしていました。ということだった。/この話は昭和二、三(一九二七、二八)年ごろのことだという。久美子さんのお母さんは、小学生のころ、祖母のハナさんからこの話を聞かされていたそうである。/猫が人間に化けて湯治に行った、などという話は、この一つだけだろうと思っていたら、なんとまだあった。
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上記の怪談は、生きているネコが人に化けた例だけれど、死んだネコがやってきて「いま、死んだみたいだニャー」と、エサをくれた家に知らせにくる律儀なネコ霊の話もある。化けて出たというよりは、霊になってさまよい歩いたということだろうか。やはり雌ネコなので、どうやら化け力や霊力は、雄ネコよりも雌ネコのほうが高いらしい。再び、同書より引用してみよう。
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小平次という猫がいた。交通事故で下半身をやられ、からだは曲り、片目で、それでも生き抜いた。その姿が何度殺されても生き返る怪談の「小幡小平次」のように思われて、小平次と名をつけた。しかし、年とともに垂れ流しのあわれな姿になって、ベランダの外へくる。エサをやるとなかに入りたがる。「ダメ」というとじっとガラス戸の外で我慢している。いわゆる外猫だった。/しばらく姿を見せなかった。大家の娘さんがからだをふいてやったりしていたので、そこで暮らしている安心して忘れるともなく忘れていたが、ある日の明け方、優子さんの夫、明彦さんは、すさまじい叫び声にとびおきた。/「小平次がきた、小平次がきた」/と、優子さんが叫んでいる。それもぎゃーっという叫び声をともなっていたから、電気をつけたが猫などいるはずもない。戸はぴっちり閉まっている。/大家の娘さんにきくと、/「小平次は死にました」/といった。優子さんが叫び声をあげたその時刻だった。白と茶の、雌猫だったという。
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ネコは、人間のもっとも身近にいる動物にもかかわらず、日本では十二支などなんらかの役割りを背負った動物としては規定されず、位置づけられてはこなかった。だからだろうか、ネコはあらゆる役目から自由であり、気ままであり、ニャンともやりたい放題なイメージが古くから形成されてきている。同様に、人間のごく近隣で棲息しながら、気ままで自由な生活をしてきたキツネやタヌキもまた、よく化けては人を驚かせてくれるのだ。でも、人間から強い役割りを背負わされた動物たち、イヌや馬、牛、ときに猿などは、あまり化けた話を聞かない。人の近くで暮らしていながら、人のことなどおかまいなしに生活できるところに、きっと“化け力”が育まれる秘密があるのだろう。
現代の落合地域は、ネコにタヌキと化け動物がたくさん棲んでいるけれど、いまだ化けネコも化けダヌキの話も聞かない。なんらかの切羽つまった状況、あるいは危機的な事態に直面しないと彼らは化けないとすれば、とりあえずは満足な暮らしをしている・・・ということだろうか。下落合では、佐伯祐三Click!一家がフランスで化けネコに遭遇し、小島善太郎Click!が経緯を記録している。
◆写真上:「ニャンか用なのかニャ?」とでかい態度の、うちにいる雑種の下落合ネコ。
◆写真中上:左は、2004年(平成16)に出版された松谷みよ子『異界からのサイン』(筑摩書房)。右は、1842年(天保13)に制作された安藤広重の版画『にゃん喰渡り』。江戸期に大橋界隈の見世物小屋で流行った「乱杭渡り」をもじったもので、ネコが杭ならぬ鰹節をわたっている。
◆写真中下:上は、1861年(文久元)に歌川国貞(三代豊国)が制作した役者絵『東駅いろは日記』。下は、嘉永年間に歌川国輝が描いた芝居絵『東海道岡部宿猫石由来之図』。
◆写真下:左は、1924年(大正13)にフランスの社交界で上演された舞台で“フェニックス”に変化(へんげ)した小島善太郎。右は、フランスから帰国後に小島善太郎が記録した『猫の夢』の生原稿。佐伯祐三は、「化け猫」ではなく「猫のおばけ」Click!と表現していたのがわかる。