東京へやってきた三岸好太郎Click!は、大正期に絵を勉強しながらさまざまな仕事についている。その中で、もっとも長くつづけた勤めは、1923年(大正12)からはじめた家庭購買組合の仕事だった。家庭購買組合とは、吉野作造の民本思想にもとづく、今日の生協と同様のものだ。品質のいい商品を、会員が協同で大量購入することにより少しでも安く頒布する組合組織で、大正期に藤田逸男が帝大YMCAや日本女子大学、矯風会などのメンバーを勧誘して組織した同組合は、今日の日本生活協同組合連合会へと受け継がれている。有限責任・家庭購買組合は1919年(大正8)に設立され、初代理事長には吉野作造Click!が就任している。
家庭購買組合の本部は東京帝大近くの本郷に置かれ、府内に支部5ヶ所が設置されている。そのうちのひとつが、目白駅近くの下落合にあった。下落合でも、早くから協同購買組合のような組織が結成され、質のいい商品を安く家庭に供給している。そのもっとも有名なものには、目白文化村Click!の第一文化村で結成された同志会Click!があった。このような組合は戦時中、食糧や物品の配給物資を平等かつ効率的に行う機関として機能し、配給の不平等などによる地域トラブルも少なかったといわれている。吉野作造と藤田逸男の家庭購買組合も、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!で米の計画配給を迅速かつ効率よく実施し、組合員の高い信頼性を獲得していった。大震災を境に、組合員の数は急増をつづけることになる。
三岸好太郎が勤務していたのは、家庭購買組合の駒込支部だった。そのときの様子を、1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)から引用してみよう。
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家庭購買組合というのは、民本主義者として有名な帝大教授吉野作造が指導した日本最大のセッツルメントで、本郷追分町キリスト教青年会館地下に本部が、渋谷、大久保、目白、駒込に支部があった。好太郎は駒込界隈に新造された高級文化住宅を主たる顧客とする駒込支部に勤務し、米や食料品、日常雑貨の配達係を受け持っていた。そんな立場にあったので食料品を確保することができたのだろう。/ちょうど(関東大震災の)五日前に、札幌から母親のイシと妹の千代が上京、大森の子母澤寛の家に身を寄せていた。身内の安否を気づかって、大森に行く途中、節子の下宿先に寄ってくれたのだった。(カッコ内は引用者註)
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三岸好太郎は1923年(大正12)9月2日の午後、関東大震災が起きると同時に家庭購買組合にあった食料品を持てるだけ持ち、当時は女子美術学校の同窓だった島崎咲子や神保俊子といっしょに暮らしていた、白山の吉田節子(三岸節子Click!)の下宿へと駆けつけている。そして、数日滞在して家具調度が散乱した彼女たちの部屋の後片づけなどを手伝いながら、節子たちへ食料品と手持ちの財布を丸ごとわたすと、母親と妹が身を寄せる大森のいわゆる“馬込文士村”Click!に住んでいた、異父兄・子母澤寛Click!の屋敷へと向かっていった。
このときの様子を、1989年(昭和64)に講談社から出版された三岸節子へのインタビュー、林寛子『三岸節子・修羅の花』に記録された節子自身の言葉から引用してみよう。
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好太郎は、私たちの下宿に二日か三日いましたが、いよいよ大森の兄さんの所へ行くという時に----最初の夜から下町のほうは全部火の海でしたが、ちょっと途中まで私に一緒に来てくれと言うんです。何だろうかと思って、一緒に歩いて行きましたら、/「君が大変好きだ」/と彼が打ち明けるわけです。(中略) 好太郎は私に、自分の持っているお金を、二十円か三十円でしたか、自分のお給料ぐらいのお金を「非常の際だから、お金は持っていたほうがいい」と言って私に全部くれました。私は、いらないと断ったんですけど。/好太郎の告白を聞いても、私は周りを見ながら「何を言ってるのかなあ」と思って聞いているわけです。
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これだけ見ると、三岸好太郎は吉田節子に恋焦がれ、生命がけで大震災の混乱した街中を疾走して、不安におののいている節子のもとへといち早く駆けつけた・・・という美談になるのだけれど、のちに節子と同室だった島崎咲子へちゃっかりラブレターをわたしていた事実が、好太郎の机の引き出しから節子自身によって発見され、「節っちゃん、ごめんよ~」と大目玉をくらうことになる。もう、いかにも三岸好太郎ならではの、しかしどこか憎めないエピソードなのだ。
駒込支部から節子のいる白山の下宿へと立ち寄ったあと、好太郎が大森へと向かったルートは不明だけれど、ひょっとすると家庭購買組合の大久保支部あるいは渋谷支部の点を線で結ぶようにして、大森までたどり着く計画だったのかもしれない。いずれかの支部までたどり着けば、顔見知りの組合職員がいただろうし、食糧はまちがいなく確保できたからだ。
三岸好太郎は、家庭購買組合の駒込支部で商品の配送や仕分けなどの仕事をするかたわら、同組合のポスターや製品のパッケージなどグラフィックデザインの仕事もこなしていた。おそらく、ポスターだけでなくパンフレットやPOPなど、同組合の販促に必要なSPツール類の制作もしていたのだろう。三岸夫妻の長女・陽子様Click!によれば、1点ずつ手描きの鮮やかで見事なポスターだったようで、いまに伝わっていないのがとても残念とのことだった。これらのポスターなどは駒込支部のみならず、本郷の組合本部をはじめ府内の支部からも制作依頼があったかもしれず、目白支部にも好太郎が制作した組合ポスターが貼られていた可能性がある。
家庭購買組合の目白支部は、昭和初期には目白中学校Click!が練馬へと移転した跡地の一画、下落合(1丁目)437番地に事務所兼店舗をかまえていた。目白駅から歩いて2分ほどの場所で、近衛文麿・秀麿邸(近衛新邸Click!)の敷地内だったところにあたる。東京土地住宅Click!が1925年(大正14)に破たんしたあと、目白駅寄りの近衛町Click!をはじめ、下落合東端部の宅地開発事業を引き継いだのはライバルだった箱根土地Click!であり、目白中学校跡地の区画割りや生活インフラを整備するなど、宅地開発Click!を手がけたのも同社なのだろう。家庭購買組合の目白支部が、おもに下落合東部の組合員宅へ商品を供給し、下落合中部では目白文化村の同志会が同じような役割をはたしていたと思われる。
1933年(昭和8)に吉野作造が死去すると、藤田逸男が家庭購買組合の理事長に就任する。三岸好太郎が画家として高名になってからも、三岸家と藤田家との親しい交流はつづき、藤田はなにかと夫妻の生活を援助していた。藤田逸男は、組合のポスター制作を依頼するために、鷺宮の第一アトリエを家族連れでときどき訪れている。陽子様の記憶によれば、藤田家の末子・藤田六郎と陽子様とは同学年で同じ歳だったらしい。好太郎は、組合支部の天井からぶら下げる大きなポスターや、ときにデパートなどからも依頼されて大型ポスターを手がけている。
三岸好太郎が1934年(昭和9)7月に名古屋で急死すると、残された節子夫人と3人の子どもたちへ藤田は支援を惜しまなかった。三岸節子は当初、作品がほとんど売れず生活に困ると藤田家へ借金の申しこみに出かけたようだ。陽子様の記憶では、その金額が1,000円※に及ぶこともあったらしい。今日の米価に換算すると、200万~300万円ぐらいに相当するだろうか。
※その後、陽子様の長女・山本愛子様より、1桁少ない100円ではないかとのご指摘をいただいた。現在の価値に換算すると20万~30万円で、ちょうど1ヶ月分の生活費ほどになるだろうか。
◆写真上:昭和初期に下落合(1丁目)437番地にあった、家庭購買組合目白支部跡の現状。
◆写真中上:左は、地下に家庭購買組合の本部があった本郷の東京YMCA追分会館で、関東大震災後の修復された姿。右は、東京大学大学院法学政治学研究科の地下にある宮武外骨Click!の明治新聞雑誌文庫の廊下で、吉野作造文庫は左手背後に設置されている。
◆写真中下:左は、目白文化村の第一文化村にあった協同購買組合「同志会」の入り口。右は、1921年(大正10)ごろに撮影された三岸好太郎(右)と俣野第四郎(左)。
◆写真下:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1丁目437番地の家庭購買組合目白支部。上右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同支部の位置。下左は、1940年(昭和15)の「淀橋区詳細図」にみる同支部。下右は、1929年(昭和4)5月11日~17日に新宿紀伊国屋の2階展示室Click!で行われた第5回麗人社展のポスター(新宿歴史博物館蔵)。