三岸好太郎Click!は、上鷺宮407番地のアトリエからスケッチブックを手に、よく周辺を散策して歩いたようだ。ときに、子どもたちを連れての散歩だったのだろう。三岸夫妻の長女・陽子様の記憶によれば、鷺ノ宮駅のすぐ南、妙正寺川に架かる八幡橋あたりで、よくザリガニ捕りをして遊んだらしい。好太郎は子煩悩で、どこかへ仕事に出かけると必ず子どもたちへのお土産を忘れなかった。当時は畑が多かった道を、遠くのほうから子どもたちへ呼びかける歌を大声で唄いながら近づいてくるので、子どもたちは家から飛びだして父親を迎えた。
札幌市にある北海道立三岸好太郎美術館Click!には、鷺ノ宮駅近くの妙正寺川を描いた作品が残されている。同館の苫名直子様より、山本愛子様Click!を介して1931~32年(昭和6~7)ごろに制作された、三岸好太郎『鷺宮風景』の貴重な画像をお送りいただいた。中央を妙正寺川、あるいは妙正寺川へと注ぐ灌漑用水のような流れが描かれ、川の両岸には武蔵野原生林とみられるこんもりした森が描かれている。画面の右手には、郊外の田園生活にあこがれて建てられた文化住宅の1軒だろうか、農家には見えない屋根がややアールがかった建物が描かれている。流れは、右へ少しカーヴしたあと正面の森に沿ってつづいていくように見える。
光線は、左上ないしは前方左斜め上から射しているようで、その方角が南ないしは東側のように感じられる。陽子様から聞き書きをした山本愛子様によれば、この風景作品は鷺ノ宮駅のすぐ南を流れる妙正寺川を、八幡橋近くから描いたものとのことだった。子どものころ、父親とともに川遊びをして楽しい思い出がおありなのだろう。あるいは、三岸好太郎がスケッチブックを手に写生している『鷺宮風景』を、近くで実際にご覧になっていたのかもしれない。
わたしは当初、中央に描かれた流れの水位が、周囲の地面とほぼ同じぐらいの高さであり、V字にくぼんだ妙正寺川の流れにはどうしても見えなかったので、昔の空中写真にとらえられた上空からの風景を参考にしながら、この流水を妙正寺川へと注ぐ灌漑用水の支流の1本だと考えていた。陽子様がザリガニ捕りをした、西武電鉄Click!鷺ノ宮駅の南側には、鷺宮八幡社にちなんでつけられた八幡橋が妙正寺川に架かり、その橋のたもとへ南東側の麦畑と思われる耕作地から流れこむ細い支流(灌漑用水)が1本、存在していたからだ。そして、支流の右手(西側)に、1936年(昭和11)現在の空中写真では、住宅とみられる建物が1棟とらえられている。
しかし、実際に現場を歩いてみるとわかるのだが、妙正寺川の南岸は緩斜面を形成しており、そこに通っていた支流(用水)だとすると、流れの周囲や前方がこれほど平坦な地形ではなかったはずだ。画面の地勢を観察すると、左手から右手にかけて徐々に地面が高くなり、緩やかな傾斜になっているのがわかる。すなわち、陽子様のご記憶どおり、東南東へ向けて流れる妙正寺川をモチーフに描いている・・・と考えたほうが、どうやら自然のように思える。そして、描かれた森は鷺宮八幡社と福蔵院の森だとのご記憶もあり、それを踏まえるならば正面から右手へと徐々に高くなっていく森が、八幡社と福蔵院の境内に密生していた樹林ということになる。
もうひとつ、決定的な写真に気がついたので、わたしの想定は確信に変わった。それは、昭和の最初期に撮影された妙正寺川と木橋、そして両岸に拡がる畑地を前景に入れて、冠雪する富士山をとらえた写真だ。中野区教育委員会が、1981年(昭和56)に発行した『なかのの地名とその伝承』に収録された写真で、撮影場所は鷺ノ宮駅付近の妙正寺川だ。つまり、この写真に写っている橋こそが、1935年(昭和10)前後に行なわれた鷺ノ宮駅前の道路拡幅工事で架けかえられる以前、妙正寺川に架かっていた八幡橋の当初の姿であり、三岸好太郎や陽子様たちがザリガニ捕りで目にしていた、1931~1932年(昭和6~7)現在の八幡橋の姿そのものだろう。
『なかのの地名とその伝承』収録の写真は、三岸好太郎の『鷺宮風景』で描かれた八幡橋の下流(南東側)ではなく、上流側(南西側)に向けてシャッターが切られている。鷺ノ宮駅と西武線の線路は画面の右枠外、撮影者のやや背後にあり、妙正寺川はいまだ木製の八幡橋の向こう側から、急カーブを描いて南西方面へと流れている。妙正寺川の水位を見ると、地面よりも低く流れているのが判然としているが、三岸好太郎が『鷺宮風景』を制作したとき、たまたま前日に雨が降って増水していたのかもしれない。畑地と思われる地面に、土が多く見えているので麦畑の収穫Click!後、5~6月ごろの情景だからだろうか? 近隣の農家では、次の野菜の種まきClick!をひかえて、1年のうちでもっとも忙しい時期だったのかもしれない。昭和初期の情景を、『なかのの地名とその伝承』から引用してみよう。
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(前略)地区連合誌にも「八幡神社と福蔵院境内に植林されたものが、戦前まで、昼なお暗き老杉が点に沖し、うっ蒼と繁り、白鷺山麓の妙正寺川の清流と対照的で、その景勝は実に景観を呈し、春の花、秋の紅葉など、近村低学年の遠足地として賞賛され、鷺宮の名と共に誇りを感じる土地柄を示した」と記されています。戦前までは、新青梅街道あたりでも高い樹木が多く、昼でもうす暗く感じられるところが各所にみられたそうです。しかし、これらの樹木の多くは、戦時中に軍部によって伐採されてしまったそうです。
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さて、『鷺宮風景』に描かれた情景をもう一度整理すると、妙正寺川の左岸に見えるこんもりとした木立ちは、西武線の線路際に伐られずに残っていた林だと思われ、右岸に見えている森は福蔵院や鷺宮八幡社へとつづく、北斜面に密生していた森の一部だ。もう少し画角を拡げていたら、右端には福蔵院の本堂屋根がとらえられていたかもしれない。また、右岸の森の手前に見えている建物は、住宅ではなく農家の作業小屋あるいは灌漑用水の管理小屋だった可能性もあるが、1936年(昭和11)現在の空中写真には、この位置に建物の姿はとらえられていない。
一宮市の三岸節子記念美術館Click!にも、『鷺宮風景』とほぼ同じ構図の三岸好太郎『風景』(1931年)が収蔵されているが、こちらの画面には右岸の建物が描かれていない。そして、妙正寺川の両岸には、麦畑を描いたと思われるようなマチエールを確認することができる。三岸好太郎は、小さな八幡橋の上から東南東を向いて、1931年(昭和6)に麦が実った麦秋(5月)のころと、刈り入れが済んで野菜の種まき(6月)がはじまろうとする、梅雨入り間近な風景を連続して写したものだろうか。
◆写真上:1931~32年(昭和6~7)ごろに制作された、下落合と同様にいまだ小川のような風情をたたえる妙正寺川を描いた三岸好太郎『鷺宮風景』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。
◆写真中上:昭和の最初期に撮影された、鷺ノ宮駅南側の妙正寺川と八幡橋。
◆写真中下:上左は、八幡橋から妙正寺川の下流(南東)を眺めた現状。上右は、八幡橋の現状。下右は、八幡橋から上流(西)を眺めた現状。下右は、森の中にある鷺宮八幡社。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる昭和初期の撮影ポイント。下は、1941年(昭和16)ごろ撮影された空中写真にみる『鷺宮風景』の想定描画ポイント。