「狐塚」と聞いても、いまや目白・落合地域にお住まいの方は、ピンとこないかもしれない。1929年(昭和4)に、武蔵野鉄道Click!の池袋駅からひとつめの駅として上屋敷駅Click!が設置されてから、一帯は江戸期からの通称である「上屋敷(あがりやしき)」Click!と呼ばれることが多くなったからだ。また、1932年(昭和7)に豊島区が成立すると雑司ヶ谷6丁目となり、この住所表記に馴染み深い方々がまだ大勢おられるだろう。いまでも古い邸の表札などには、この表示のままのお宅Click!も多い。字狐塚は、現在の豊島区西池袋2丁目18・32~33番地界隈に相当する区画だ。
江戸期には、もう少し広い範囲が狐塚と呼ばれていたようなので、その流れを整理してみよう
◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→雑司ヶ谷6丁目→西池袋2丁目
◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→同町大字雑司ヶ谷字西谷戸大門原→雑司ヶ谷6丁目→西池袋2丁目
◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→同町大字巣鴨字代地→目白町3丁目→西池袋2丁目
こうしてみると、狐塚という字の範囲は時代とともに少しずつ狭くなり、1920年(大正9)に高田町が成立してからほどなく、1926年(大正15)制作の「高田町北部住宅明細図」にみられる狐塚、すなわち現在の西池袋2丁目18・32~33番地界隈に絞られたものと思われる。
狐塚について、1932年(昭和7)に西巣鴨町が出版した『西巣鴨町誌』から引用してみよう。ちなみに、狐塚の南半分が巣鴨村(古くは小石川村)の飛び地だったせいか、1919年(大正8)出版の『高田村誌』Click!にも、また1933年(昭和8)出版の『高田町史』Click!にも掲載されていない。
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狐 塚 大字池袋一,四一一番地先
寛政十年、榎下舎眞德撰著若葉の梢に、『昔、岡本某の屋敷の奥に、古塚ありて白狐住めける故、狐塚と云へり』。(ママ)とある。
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狐塚には、なんらかの古塚が存在していたのは明らかで、この塚は1936年(昭和11)の空中写真でも、その残滓を確認することができる。おそらく、なんらかの聖域あるいは忌避的なフォークロアが昭和期まで伝承され、農地化や宅地化がためらわれていたのだろう。円墳ないしは前方後円墳の墳丘へ、江戸期に稲荷社が奉られたのではないだろうか。同じ事例が全国の「狐塚」にも見られ、各地の発掘調査により「地名+狐塚古墳」と命名されている。東京でもっとも有名な「狐塚」は、世田谷区にある尾山台狐塚古墳(帆立貝式古墳?)だろうか。
字(あざな)としての「狐塚」は、実際に狐塚の丘が存在していた地点よりも、東へ1区画ずれている。これは、明治から大正期の住所規定の変遷にともなう便宜的な字づけで、東京のあちこちに見られる現象と同様、本来の地名位置と字規定とで微妙な齟齬が生じてしまったものだろう。いま風に「狐塚」を表現すると、塚自体が存在したのは上屋敷公園から北の区画であり、住所表示としての字狐塚のエリアは上屋敷公園の東側一帯のエリアということになる。墳丘に設置されていたと思われる稲荷社は、現在、上屋敷公園の西端に遷座している。
1924年(大正13)の3月、女子美術学校を首席で卒業した吉田節子(のち三岸節子Click!)は、同窓生とともに住んでいた白山の下宿Click!を引き払い、本格的に画業へ専念して画家をめざすため、狐塚に建っていた住宅の離れを借りて、ようやくひとり暮らしをはじめた。当時の様子を、1989年(昭和64)に講談社から出版された、林寛子『三岸節子・修羅の花』から引用してみよう。
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しかし、あの頃の若い連中というのは、何ていうのか非常に----中出三也さんが裸婦を一緒に描こうと言って、卒業してから私が一人で住むようになった目白の狐塚の部屋に通っていました。しかも、雑司ヶ谷で同棲していた甲斐仁代さんが出身地の青島(中国)へ帰っている間にです。それも一つの求愛の表現だったと思うのです。みんな恋愛に自由でした。みんなだらしがないんですよ、あの頃の若者たちは。(中略) 結局、中出さんが私の所で裸婦を描いたということが、好太郎と私を近づけた原因だろうと思います。彼は、非常にやきもちを焼いたんです。自分は昼間働いて、来るわけにいかないから。/----何しろね、私は、適齢期の女の子を学校へ入れて田舎から東京へ出すということに大反対。皆そういうムシが付く。身の回りに、いっぱいそういう例を見ています。/私の結婚も、ホント、悪いムシでした。
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三岸好太郎は、ここでは「悪いムシ」にされているけれどw、節子はもう一度結婚するとしたら誰を選ぶかという問いかけに、やっぱり三岸好太郎を選ぶだろうと答えている。
吉田節子が狐塚に住んだ期間は長くなく、1924年(大正13)の4月から8月ぐらいまでの5か月間ほどとみられている。節子の家には、当時は家庭購買組合の駒込支部につとめていた三岸好太郎Click!をはじめ、三岸と同郷で親友の俣野第四郎Click!や中出三也Click!など、画家たち(男たち)が頻繁に訪れていたらしく、ひとりになってじっくり絵に取り組みたい節子は、まったく落ち着かなかったようだ。節子にしてみれば、女子美を卒業したばかりのこの時期、画業に専念し仕事を飛躍させるための正念場だととらえていただろう。でも、結果的には三岸好太郎と結ばれ、翌1925年(大正14)1月に長女・陽子様が生まれることになる。(戸籍上は同年3月の記載で、現在でも誕生日のお祝いは3月にやられているとうかがった) それでも、三岸節子は画業をあきらめることなく、家事・育児をつづけながら作品を発表していった。
ちなみに、吉田節子(三岸節子)が狐塚で暮らしていたとき、家からわずか50mほど南西に歩いたところ、高田町雑司ヶ谷西谷戸大門原362番地には宮崎滔天Click!と宮崎龍介Click!の親子、そして龍介と結婚したばかりの柳原白蓮Click!(宮崎燁子)が住んでいた。また、吉田節子の家から西へ150mほどいったところ、巣鴨町池袋大原1382番地の横井方へ、節子も出品している名古屋の画会「サンサシオン」Click!の主軸メンバーだった松下春雄Click!が、節子の転居とまるで入れちがいのように、1924年(大正13)8月に引っ越してきている。
三岸好太郎は、1923年(大正12)に『狐塚風景』と題したタブローを制作している。また、親友の俣野第四郎も同年に『陽春池袋付近』という同じような作品を残している。画面の構成や表現からみて、ふたりは連れ立って同時に狐塚の風情を写したものだろう。でも、これらの作品は節子が白山から狐塚へと引っ越す前年に描かれたもので、節子のもとを訪ねたついでに写生したものではない。画面は、麦畑と思われる中に新しく建てられた近郊の文化住宅とみられる建物を中心に、周辺に展開していた畑地ないしは空き地をとらえている。
吉田節子が狐塚に引っ越してくる以前から、三岸や俣野はなんらかの目的、あるいは事情で狐塚を訪れていたと思われるのだが、それがなんのつながりだったのかは不明だ。たまたまふたりで散歩していて、モチーフにしたくなる風景を見つけたのか、それとも誰かの家を訪問したついでに、近くの狐塚風景に魅せられたのかどうか、詳細はわからない。ただひとついえることは、狐塚の東側50mほどのところに竣工したばかりの、F.L.ライトClick!が設計した特異な自由学園Click!の姿に、ふたりは画因としての興味を惹かれなかった・・・ということだ。
現在の狐塚界隈を歩いてみると、大正末に建てられたとみられる邸をいまだに見ることができる。おそらく、節子や好太郎も目にしていた、当時の典型的な仕様の郊外文化住宅だろう。字(あざ)狐塚の西隣りが、上屋敷公園(こちらが狐塚のあった本来の区画)が設置されているおかけで、その緑とふたりの作品画面とから、かろうじて当時の面影を想像することができる。このあと、三岸好太郎と節子は結婚し、駒込の染井墓地に近い下宿の2階で新生活をスタートさせている。
いま、上屋敷公園の北側、すなわち本来の狐塚の墳丘が存在した区画に、三井不動産の「パークホームズ目白」と名づけられた5階建ての大型低層マンションが建設されている。入居する人たちは、ここに大きな塚があったことなど知るよしもないだろうが、ひとつハッキリしたことがある。少なくとも60年ほど解体できない、大型のコンクリート建築がこの場所に建てられたということは、補助73号線Click!の通るルートが上屋敷公園を全的につぶすことを前提に計画されているということだ。今年の6月、ルートの延長線にある新宿中央図書館Click!が戸山へと移転した。目白通りから、下落合へと入る位置に建つ目白聖書神学校もセットバックを終え、補助73号線の片側幅は確保された。わたしの“危機感覚”からすると、準備は着々と進捗しているように見える。
◆写真上:上屋敷公園から東を向いて、旧・高田町の字狐塚方面を撮影した現状。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の狐塚界隈。字のもととなった狐塚の丘が、昭和10年代まで残っていたことがわかる。中は、同時期の空中写真を下落合上空から斜めフカンで眺めたところ。下は、1922年(大正11)の5千分の1地形図にみる狐塚界隈と撮影ポイント。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)に制作された三岸好太郎『狐塚風景』(豊橋市美術博物館Click!蔵)。下左は、1926年(大正15)作成の「高田町北部自由宅明細図」に掲載された狐塚界隈。下右は、現在の上屋敷公園から狐塚の丘があった北側の現状。
◆写真下:上は、1923年(大正12)に制作された俣野第四郎『陽春池袋付近』(北海道立近代美術館Click!蔵)。中・下は、現在の狐塚界隈で、大正末と思われる邸宅がいまでも残っている。
★記事の作品画像は、各館の学芸員のみなさまにお世話になりました。三岸好太郎『狐塚風景』は豊橋市美術博物館の細田様、俣野第四郎『陽春池袋付近』は北海道立近代美術館の齋藤千鶴子様、そして北海道立三岸好太郎美術館の苫名直子様、ありがとうございました。