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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「洋服になっておくれ」の落合第二小学校。

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落合第五小学校.JPG
 西武線・中井駅の南側、妙正寺川の河畔にあった上落合745番地(のち2丁目763番地)の落合第二尋常小学校Click!へ、初めて洋装で出勤した女教師の証言が残っている。大正期が終ったばかりのころ、1927年(昭和2)のことだ。
 落合第二小学校は戦後、旧敷地から南東へ約340mのところ、上落合472番地の大きな野々村金吾邸Click!(戦時中は憲兵隊詰所)の跡へ移転しており、現在、中井駅前の旧敷地には落合第五小学校Click!が建っている。戦後すぐのころ、子息を落合第二小学校へ通わせていた上落合470番地の吉武東里邸Click!から、「落二小学校の再建のために」と屋敷の大谷石が贈られていることは、8年ほど前に記事Click!に書いた。大量の大谷石Click!はいま、落合第五小学校の校庭でていねいに保存されている。
 落合第二小学校へ、初めて洋服を着て出勤した女性教師は鹽野まさ子(塩野まさ子)という方だが、彼女は旧姓の黛まさ子という名で同校に勤務している。もともとは長野県野沢の出身だが、群馬県の女子師範学校を卒業してそのまま群馬で教師になり、やがて結婚して東京にやってくると、信州の小学校で習った恩師に再会している。その恩師が、1927年(昭和2)現在の落合第二尋常小学校の校長だったという経緯だ。
 この校長とは、落合第二小学校が創立された1925年(大正14)3月28日以来の、初代校長・駒村德壽だとみられる。そして、上落合の急激な児童数の増加に対応するため、教え子で教師になっていた黛まさ子を同校へ勧誘したのだろう。同校の創立当初の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 震災後膨湃として起り来つた人口の増加に伴ひ、学校増設の必要に迫られ、大正十三年度予算に於て金七万円を計上し、同年夏起工、翌十四年一月竣工、同年一月八日より同三月末に至る間、落合尋常高等小学校(のち落合第一尋常高等小学校で現・落合第一小学校)の分教室として校舎使用、同年三月二十八日(駒村德壽)学校長任命、同四月一日初めて尋常科第一学年の入学式を挙げた、当時尋常科各学年共に二箇学級計十二学級、在籍児童数七百六名、職員十四名、使丁二名、通学区域を上落合全部、葛ヶ谷全部、下落合中井西部、氷川神社附近に及んだ。(カッコ内引用者註)
  
 当時の落合第二尋常小学校は、上落合を中心とした地域だけでなく、現在は中野区になっている上高田の氷川社方面まで生徒を集めていたのがわかる。
 創立時から、いきなり706名の生徒数で全学年12学級もできれば、教師集めはたいへんだったろう。文中に登場している落合尋常高等小学校でも、教師不足が深刻化していた時代だ。なお、駒村德壽は1932年(昭和7)5月に他校へ転任するまでの7年間、落合第二尋常小学校の初代校長を勤めている。ちょうど、『落合町誌』が書かれた1932年(昭和7)秋には、2代目校長の三橋和也が就任したばかりだった。
 1927年(昭和2)のある日、駒村校長は若い女教師4人を校長室に呼ぶと、「頼むから洋服になっておくれ」と彼女たちに靴下を配っている。東京の市街地では、女教師の洋装はめずらしくなくなっていたが、郊外の落合地域ではいまだ和装が主流だったのだろう。当時の女教師は紫紺地の銘仙あたりに袴をはき、女子師範学校時代とたいして変わらない服装をしていた。だから、体育の時間などは着物の袂(たもと)を小脇にはさんで襷(たすき)がけにし、いかにも動きにくそうな姿で児童たちと駆けまわっていたが、腕を振りまわす球技などはできなかった。駒村校長はそれを見ていて、いかにも時代遅れな光景に見えたのだろう。
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 黛まさ子は靴下を受けとると、さっそく東中野にあった米国人夫妻が経営する洋品店へ出かけているが、他の3人の女教師はそのまま和装をやめなかったようだ。そのときの様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅢ』所収の、塩野(鹽野)まさ子「洋装の女教師として」から引用してみよう。
  
 三人の女の先生たちは、靴下だけもらって帰ってしまったの。私は小学校の恩師でしょ。とてもそんなことは出来ないので「頂戴します」といって家に帰り、主人に話すと「そりゃそうだよ。男性はズボンをはいているし体操もしやすいが、袴じゃそうはいかないからね。じゃあこれから、東中野駅の近くの洋装店にいって、頼んでみよう」と言って私を連れていきました。/アメリカの夫妻が経営していて、そこでブラジャーとかコルセットを覚えたの。そして「洋服は全部うちでやりますが、帽子と靴は横浜から取り寄せますからお待ちください」と言われました。/その後一〇日たっていきましたら、ちゃんと洋服が出来ていました。洋服屋さんもよく似合うとほめてくれましたの。その足で学校にいったら、学校中「ワアー」と歓声があがり、先生も子どもたちも拍手してくれました。洋装第一号だったわけです。/何年かたって、その外国人夫妻がいなくなり、その後は伊勢丹のデザイナーに頼みました。教師なので、動きやすく着やすい洋服を仕立ててもらいました。
  
 目白文化村Click!ができた1922年(大正11)の当時、洋装の婦人が下落合の近所を出歩くと奇異の目を向けられていたころ、あるいは1923年(大正12)に上落合186番地へ村山知義Click!三角のアトリエClick!を建設し、村山籌子Click!が洋装で買い物に出かけると子どもたちがゾロゾロついてきた時代から、わずか4~5年しかたっていないにもかかわらず、落合地域では子どもたちが歓声をあげて拍手するほど洋装が浸透し、それほど奇異な姿でなくなっている様子がうかがえる。
 文中に登場する、東中野駅の近くにあった米国人夫妻が経営する腕のいい洋品店については、いつか壺井栄Click!ないしは佐多稲子Click!のエッセイでも読んだ記憶がある。上落合や上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)に住んでいた人たちたちが、よく利用した洋品店だったのだろう。その後、黛(鹽野)まさ子は新宿伊勢丹へのオーダーメイドではおカネがかかりすぎるため、自分で洋裁をして着るものをこしらえている。
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 当時の落合第二尋常小学校の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 昭和の初めごろの学校の前は、田んぼで水車小屋があったの。妙正寺川の水で染め物やさんが染め物を流しながら洗っているのはきれいでしたよ。/学校のクラスは男子組、女子組、男女組とあり、私は男女組に向いているといわれて受け持ちました。/生徒のなかに体操が得意でいつも威張っていて、体操の苦手な子を泣かせてばかりいる子がいました。/「さあ、きょうは鉄棒の前転をしましょう」と言うと、いつも威張っている子は、鉄棒が苦手で前転が出来ないんです。一方、いつも泣かされてばかりいる子がとても上手に出来たので、みんなに「うまいぞ うまいぞ!」と拍手されたの。泣かされてばかりいる子も自信がついたと思うんですよ。/日ごろの子どもたちをみて、先生の配慮が大切なんだと思いましたよ。私は常に平等に教育をしなければと思って教員生活を続けてきました。
  
 文中の「水車小屋」は、落二小から妙正寺川に沿って西へ60mほど離れたところにあった、バッケの水車Click!がまわる小屋Click!のことだろう。このあと、設立されたばかりの落合第三尋常小学校へ転勤した鹽野まさ子は、途中で戦争をはさみ、戦後は戸塚第一小学校に18年勤務し、都合39年間を落合地域と隣接する戸塚町で教師をつづけている。
 1927年(昭和2)に、群馬県から上落合に転居してきて以来、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会からインタビューを受けるまで、上落合の同じ家に住みつづけているが、その自宅は上落合郵便局の裏(南東側)にあった、上落合667番地(のち2丁目667番地)の鹽野(塩野)邸ではないだろうか。そして、鹽野邸の南西側には周辺の目印となるような、大きなケヤキが繁っていたにちがいない。
 拙サイトを読みつづけてこられた方なら、すでにこの地番にはご記憶があるかもしれない。新婚早々だった、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!が1930年(昭和5)から3年間ほど住んだ借家Click!の、きわめて近所だったことがうかがわれる。
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 1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲で、自宅前に生えていたカキの木に落下した焼夷弾が枝葉にあたり、飛び散った破片が顔面をかすめて額を負傷したあと、鹽野まさ子は中井駅のある下落合方面へと避難している。彼女は学童疎開に同行せず、残留組の生徒たちを指導していた。幸い彼女が住んでいたとみられる上落合667番地の一画は、奇跡的に延焼をまぬがれ小島状に焼け残っているのが、戦後に撮られた空中写真で確認できる。

◆写真上:妙正寺川に接して、現在は落合第五小学校が建つ落合第二尋常小学校跡。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第二尋常小学校。は、1932年(昭和7)に撮影された同校校舎。校舎は空襲ではなく、1944年(昭和19)の失火によって4分の3を焼失している。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同校周辺。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に撮影された落合第三尋常小学校。は、落合第三小学校の現状。は、『落合町誌』の同校欄に掲載された教員名簿にみる鹽野まさ子。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合667番地。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる鹽野邸あたり。は、鹽野邸があった界隈の現状。

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