わたしが子どものころ、旅行で奈良の斑鳩を訪れたとき、法隆寺の若草伽藍跡Click!へ入れてもらい、そこで創建法隆寺に葺かれていたとみられる布目瓦の破片を探したことがある。巨大な礎石がポツンとひとつあるだけで、一面に草が繁るなにもない原だったが、ところどころに黒い地面がのぞいていた。
そこを少し掘ると、1968~1969年(昭和43~44)に実施された本格的な発掘調査の前だったので、7世紀に焼かれたとみられる布目瓦の破片がたくさん出てきた。親父と熱心になにか話しこんでいる、案内してくれた管理僧にそれを見せると、当時は鷹揚なもので「まだいくらでもあるから、持って帰ってもええよ」といわれ、そのままお土産にして持ち帰った。いまでも家のどこかに、整理されていない子ども時代の品々を収めた、段ボールか収納ボックスに眠っているのかもしれない。
西落合1丁目31番地(のち西落合1丁目9番地)に住んでいた美術家の料治熊太Click!は、同じように府中の国分寺跡に出かけて、めずらしい8世紀の布目瓦を採取している。ここでは、以前に上落合1丁目467番地に住んでいた、古代ハス(大賀ハス)Click!で有名な大賀一郎Click!が、やはり府中の国分寺跡へ出かけて布目瓦を採集していたエピソードをご紹介しているが、料治熊太もまた同じことをしていたようだ。
その様子を書きとめているのは、料理熊太の妻で作家の料治花子Click!だ。1944年(昭和19)3月の敗戦間近な時期に、多磨墓地(現・多摩霊園)にある義姉の墓参りをしたついでに、武蔵国分寺跡まで子連れでハイキングをしている。そこで、近くにあったなじみの農家からサツマイモをいくらか買い求めて、国分寺跡の礎石の近くに散らばる石や瓦を集め、即席竈をつくって鍋でイモを茹ではじめた。
戦争末期なので、国分寺跡にはほとんど人がおらず、上空には近くの立川か調布の飛行場から飛び立ったのだろう、戦闘機などがエンジン音を響かせていた。宝雲舎から出版された料治花子『女子挺身記』所収の、短編「わたし達の野餐」から引用してみよう。
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『お父さんと一緒に国分寺へ来るのは十八年ぶりね』/私が感慨深くいふのへ、へえ、さうかねえと、ひどくあつさりした夫の返事だつた。/夫は古瓦を蒐めに、私はお藷を買ひに、別々によく来たものだつた。まだ買ひ出しなどはやらない頃、私は秋になると、いつも知り合ひのお百姓に頼んで、八貫俵のお芋をチツキでどんどん運んだものだつた。それがこゝ二三年の間、野菜持ち出しの制限、買ひ出し禁止と目まぐるしい転変で、おいしい国分寺のお芋の食べられないことを嘆きつゝ私達はしばらくこの村にも御無沙汰してゐたわけである。(中略) 夫と長男は薪になるやうなものを探す役、私と長女はそこら辺に散らかつてゐる瓦の破片や石ころを組み立てて俄づくりの竈を造ることになつた。あゝでもないかうでもないと、鍋をかけてみては工合を直し、枯葉に火をつけた。
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当時の国分寺跡には、そこらへんに瓦の破片が無造作に散らばっていた様子がうかがえる。料治熊太が探していたのは、側面に唐草模様などが入った、考古学的にも美術史的にも貴重な平瓦片であり、わたしが若草伽藍跡で採取したような、布目が入った瓦の一部ではなく本格的な蒐集だったのだ。
料治花子が武蔵国分寺跡へのハイキングで楽しみにしていたのは、家族そろって野外で弁当を食べることばかりでなく、食用の野草であるヨメナ(嫁菜)が群生している場所を知っていたからだ。ちょうど3月の終わりで、ヨメナには若芽が出るころなので、彼女は今回も大量に採集できると思っていたらしい。ところが、ヨメナの群生エリアには「大谷石や材木が積み重ねられ」、なにか家屋が建設されようとしており、「昔日の面影今何処」の状態だった。戦争も末期に近づくと、食糧品の配給は急激に乏しくなり、野草でもなんでも食べなければ飢えてしまうような日常を迎えていた。
わたしの母親から聞いた話だが、このエピソードが書かれた翌年の春、母親の実家の周囲にあった生け垣のマサキ(正木)の若芽を摘ませてくれといってきた、近くの若い奥さんがいたそうだ。もちろん、マサキは本来食べられる植物ではないので、女学生だった母親は愕然としたらしい。なんらかの事情から、配給を受けられなかった、あるいは配給を受けそこなった家庭なのだろうか。その後、同様に茶殻(緑茶を淹れたあとの棄て殻)を分けてくれという老人まで現れ、「この戦争は、まちがいなく敗けだ」と、父親(祖父)とともに深く実感したらしい。確かに、普通に働いて生活しているはずの家庭で、マサキの芽や茶殻を食うようになってはもう先がない、とうに国家は亡びておしまいなのだ。
つづけて、料治花子の短編「わたし達の野餐」から引用してみよう。
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私が竈の所へ戻つて来た時、塔址のあたりの桑畑をうろついてゐた夫が、例のかんで探し出したと見えて、瓦の破片を手にしてやつて来た。/『大分いゝ匂ひがして来たがまだふけないのかい――これ、こんな瓦、千年も前のだよ。こつちが筒瓦で蓮華、こつちが平瓦で唐草模様がついてゐる――』/『あら、さう、これがねえ、こゝに大きなお寺が立つてゐたのねえ』/娘は、千年前の堂塔伽藍を空に描くやうな面持で、あたりの野を見遣るのであつた。/やがて木登りも飽きたと見え、息子も傍へやつて来て、父親の拾つて来た瓦を見ると、そこいら辺の布目瓦の破片を些細らしく拾ひ上げて、自分で眺め入つたり私達に見せに来たりするのであつた。
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文中では「千年前」と書いているが、1944年(昭和19)を起点とすれば正確には約1200年前の瓦片ということになる。武蔵国分寺は、建立されてから約600年後に、分倍河原で行われた鎌倉幕府軍と新田義貞軍の戦闘で焼失したとされている。
実は、わたしも何年か前に府中熊野社の境内にあり、修復が完了した日本最大級の上円下方墳を見学に出かけ、ついでに国分寺跡に寄って瓦片を探したことがある。でも、すでに同寺跡は公園のようにきちんと整備されたあとで、露出している地面も少なく史蹟全体が芝に覆われていて、残念ながら瓦の破片などもはや散らばってなどいなかった。
法隆寺の若草伽藍跡で、布目瓦を見つけたときのワクワクした気分は、どこか化石を発見したときの高揚感に似ているかもしれない。何万年も前の遺物(若草伽藍跡の瓦は1300年前だが)を、実際に手にしてみることで、爆発的な想像がアタマの中を駆けめぐる子どものころの快感を、国分寺跡でも味わいたかったのだが、発掘調査であらかた採集されてしまったのだろう。近くの畑などでも注意して観察したが、瓦らしい遺物は発見できなかった。
1968~1969年(昭和43~44)の発掘調査で、若草伽藍跡からは、膨大な筒瓦と平瓦が発見されているが、「布目圧痕」が残る平瓦(布目瓦)について、2007年(平成19)に奈良文化財研究所がまとめた「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」から引用してみよう。
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出土品はすべて粘土板桶巻作りで、粘土板の合わせ方は桶の上方(狭端側)からみてS型とZ型の2種がある。凸面のタタキ痕跡はほとんど残らず、一部に平行タタキとおもわれる痕跡がみられるのみである。凹面の当て具痕跡はいずれもみられなかった。(中略) 凹面にみられる布目圧痕から少なくとも4種の布があったと考えられる。3cm四方での糸の本数は密(36~40本)、中(31~35本)、粗(26~30本)、極粗(16~20本)である。しかし、布綴じ合わせ目などから布袋を同定するにはいたらなかった。また、布目と瓦の大きさや製作技法、調整技法は相関しない。/分割の際の目印は界点であり、分割界線の痕跡はみられなかった。界点の位置も一定せず、やはり複数の桶があることを推測させる。完形品が少ないため推測の域をでないが、平瓦の大小には少なくとも2種は存在したことがわかる。小型は全長35cm 前後、大型は37~39cm におさまる。
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わたしが若草伽藍跡から持ち帰った布目のついた平瓦の破片は、探し出して観察しないと確定はできないが、上記の研究論文で分類されている4種類の布のうち、「密」か「中」だったような気がする。同報告書に掲載された「密・中・粗・極粗」の布目瓦比較写真を参照しても、かなり細かな布目模様だった憶えがあるからだ。
お腹がいっぱいになり、「満ち足りた子供達の顔を見ながら私も愉しかつた」と料治花子はエッセイを結んでいるが、料治熊太は布目の入った蓮華模様の丸瓦と唐草模様の平瓦の思わぬ収穫を前にして、「満ち足りた」時間をすごしていたのではないだろうか。
瓦といえば、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の金山平三アトリエClick!が解体Click!されたとき、特徴のある赤い屋根上の欠損していない平瓦を1枚、工事の人から分けてもらったのだが、1960年代製の東洋瓦社の製品だった。金山平三は1964年(昭和39)に死去するが、どうやらその前後に屋根瓦を葺きかえていたようだ。現代瓦と、1300年前の創建法隆寺の布目瓦とを並べて撮影したかったが、後者はどこへ隠れているものか見つからない。
◆写真上:若草伽藍跡の調査報告書に照らせば、「密」に分類されるとみられる布目瓦。
◆写真中上:上は、若草伽藍(創建法隆寺)跡から眺めた現在の法隆寺境内。手前に見える若草伽藍跡の礎石は、このアングルからでは小さめに見えるが、高さ180cmを超える大きなサイズだ。中は、「極粗」に分類されそうな布目瓦。下は、1944年(昭和19)に物不足から粗悪な用紙で出版された料治花子『女子挺身記』(宝雲舎)の表紙(左)と奥付(右)。
◆写真中下:公園のように整備された、武蔵国分寺跡に散在する大きな礎石群。
◆写真下:上・中は、若草伽藍跡から出土した1300年前の丸瓦片と平瓦片。下は、瓦の出土状況と布目瓦の粗密分類。(「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」2007より)