1946年(昭和21)8月4日午後7時46分、疎開先Click!の鎌倉町長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)で死去した村山籌子Click!は、なんでも自由に表現し執筆できる時代を目前にして、さぞや口惜しく無念だったろう。健康マニアだった彼女は、まさかその健康法がきっかけで身体をこわし、作家としては脂がのった円熟期を迎える44歳で死去するとは思ってもみなかったにちがいない。
村山知義Click!は、鎌倉での通夜と葬儀で打ちのめされたが、保存してあるスクラップブックの中から村山籌子が少年少女向けの本で創作した童話や童謡を夢中で探しだしては、台紙に貼りつけ祭壇に展示している。それらの作品のほとんどが、独身だった岡内籌子時代を含めて、村山知義が挿画Click!を担当したものだった。
村山籌子は、自身の作品を保存するのにはまったく不熱心で、挿画を担当した村山知義がほとんど保存することになったが、岡内籌子の独身時代から将来は結婚することになる男の「童画をまあまあ一番ましなものと認め」ていたので、彼女の作品は散逸せずに夫の手もとに残ったわけだ。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』収録の「亡き妻の記」から引用してみよう。
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彼女は自分の作品に何の執着も持たず、野心も名誉心もなく、ただ流れ出るままに書いた。だから私が保存して置かなかつたら、みんな失われてしまつたかも知れない。私の何度もの入獄の間に、彼女はずゐぶんたくさん無くしてしまつた。童話年鑑のやうなものから何度もその年度の作品を要求して来たことがあるが、私が送らなければそれなりになつてしまつた。彼女はそんなことに気を取られるより、仲の良い友達との例の「藪から棒」的な会話を楽しみたかつた。貧しい材料で、しかも最短時間で、何か珍しい料理を作りたかつた。新しい電気器具を買つて、その効用をよろこびたかつた。夫や子供のスウエーターや手袋を編みたかつた。
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村山籌子の遺体を焼き場に運んだのは8月6日で、鎌倉の小坪の山の上にある火葬場だった。村山知義は、「母の遺骸を焼いた落合の火葬場とくらべると、籌子が可哀さうになるやうなみじめなところであつた」と書いている。
確かに小坪の山下を横須賀線が走り、山つづきに名越切通しClick!や曼荼羅堂やぐらClick!があるような、現在でも人と出会うことがまれだが、おそらく当時は人っ子ひとり見かけないさびしい風情だったろう。遺体が焼けて骨になるまで、2時間かかるといわれた村山知義と村山亜土Click!は、火葬場から1,300mほど南にある曇天で陰気な小坪の海岸まで歩いている。わたしが子どものころ、鎌倉霊園の造成工事で出た土砂によって埋め立てられ、現在は逗子マリーナが建設されて消滅してしまった海岸線だ。
遺体が痛みやすい季節で、通夜と告別式を大急ぎで行う必要があったため、鎌倉の葬儀に参列した人たちは限られていた。そこで、夫妻の親しい友人たちが集まり、改めて東京で「お別れ会」が開催されることになった。場所は丸の内の保険協会講堂が予定され、友人たちが「村山籌子さんにお別れする会」という名称まで決めてくれた。半ば放心状態の村山知義が骨壺を抱き、息子が遺影を抱いて横須賀線で東京へと向かった。
「お別れする会」の委員長は俳優の井上正夫が引き受け、児童文学者協会と新協劇団が会を主催することになっていた。祭壇の周囲には、村山知義が鎌倉でこしらえた、村山籌子の作品を貼って並べた台紙が展示されていた。司会は原泉Click!がつとめ、村山籌子の童話作品を3篇選んで、それぞれ俳優の三島雅夫と薄田つま子、河原崎しづ江(小川信一=大河内信威と上落合502番地で暮らしていた時代は山岸しづえ)が朗読している。
つづけて、村山籌子が残した遺言詩に作曲家の関忠亮が曲をつけ、姉で声楽家の関鑑子が会場で歌った。この詩は、彼女が息を引きとる6時間前に遺したもので、「もつと物価がさがつたら、どんな小さい石でもいいから、高松の父母の墓の隣に立てて」くれといい、その石に彫りつけてくれと遺言したものだった。
われはここにうまれ ここにあそび ここにおよぎ
ここにねむるなり 波しづかなる瀬戸内海のほとりに
会場にはシューベルトの子守歌や、弦楽四重奏団による葬送曲が流れ、落合地域ではおなじみの友人たちが次々と思い出話を披露した。登壇したのは、鹿地亘Click!をはじめ富本一枝Click!、藤川栄子Click!、壺井栄Click!らだった。
このあと、村山知義が参会者に挨拶をしなければならなかったが、ただ泣いてばかりいて席を立つことさえできなかった。そこで代読を引き受けたのは、当時は新協劇団の俳優・宇野重吉Click!だった。この直後、宇野重吉は森雅之Click!や滝沢修Click!とともに、いまにつづく劇団民藝Click!を結成することになる。
村山知義が用意していた妻を追悼する一文は、彼女の思い出をベースとした通常のありがちな惜別の辞などではなく、痛切な「自己批判」を繰り返す慟哭に満ちた内容だった。村山籌子の死から2日後、精神的に打ちのめされた村山知義が、ありのまま率直につづったとみられる文章であり、彼の人間性やふたりの関係性をうかがううえでは非常に重要な文章だと思うので、それぞれ少し長いがその要所を引用してみよう。
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彼女は芸術的感受性に富み、それはやがて、彼女の性格の根から自然に流れ出て、詩、童謡、童話の創造といふ形に発展しました。彼女の芸術はどこまでも、直観的なものであり、性格、生活とわかちがたくつながつたものであります。それゆゑ、彼女が私に会はず、彼女の性格、生活が本然の姿のまま充ち溢れつづけたならば、彼女の芸術もまた、もつとよろこばしく、流れ出たことでありませう。しかし彼女は私に会ひました。そして何物をも、また何人をも真に没我的に愛することのできぬ私の呪はれた性格のために、彼女のたぐひまれな美しい魂は二十三年の結婚生活を通じて、無惨に破壊されつづけました。私は結婚後一二年間の、愛情の質と度合の相違がことごとに暴露されて行き、彼女の夢がくづれ落ちて行つた過程を思ひ返して見ると、身を切られるやうな気が致します。しかし彼女はけなげにも立ち上り、私の性格と生活の立て直しに立ち向ひました。絶えない葛藤が繰り返されました。そして私がやつと普通人の程度にまで漕ぎつけることのできたのは、すべて彼女の苦しい努力の結果であります。
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村山籌子は、四国の裕福な家に生まれ、美しい自然に囲まれた静かな町ですごし、東京に出ると自由学園Click!高等科に進学している。性格も純真で快活、いたずら好きだった少女の生涯を台なしにしてしまったと、村山知義は自身を責めつづける。
確かに、ふたりの世界観は一致しており、お互い「生活の共同の根本的目的」のためには協力できたのだが、ますます時代は暗黒へと向かい、村山籌子の上にはたび重なる夫の検挙・入獄とともに、精神的にも物質的にも苦難がおおいかぶさった。夫が豊多摩刑務所に収監中であれば、すべての物事は自分ひとりで対処しなければならず、戦時中は何度か喀血してひとりで入院している。
ちょっとここで余談だが、最近あちこちで「世界観」という言葉を耳にするけれど、ことごとく用法がまちがっているのでひっかかる。世界観とは、哲学あるいは思想の認識論にもとづき、ある程度普遍化(一般化)された理性的な認識(認知)で描かれる世界を表現する言葉であって、私的または感性的に創りあげた風景や光景=主観そのものを「世界観」とはいわない。あまりにもひどい錯誤かつ用語の矮小化なので、とても気になっている。
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彼女は本質的なものとさうでないもの、純粋なものとさうでないものを見わける特別鋭い直観を持つてゐて、非本質的、不純なものに対する嫌悪をかくすことがまたどうしてもできませんでした。それゆゑ彼女は私の生活に対しても、仕事に対しても、決して私の要求するやうな価値を置くことができず、それをまたやわらげて云ふやうなトリツクを――絶えずいぢらしい努力はしてをりましたが――使ふことができず、自分も苦しんでをりましたが、私が彼女のこの力のお蔭を蒙つたことは莫大であります。/彼女は私にとつて妻であり、母であり、また教師でありました。だから私は単に妻である女性に対してよりも、常に争はなければならなかつたやうです。私にすがりつき、私にむごく扱はれてゐた彼女は、二十三年の結婚生活の間に、私との地位を顛倒し、私を許す、私を同情の目をもつて見守り、正しい線から外れさせぬやうに気づかふ立場となりました。しかし彼女はまだ若く、愛に飢えて居りました。このやうな立場にならねばならぬことは、彼女にとつてどんなに辛く淋しいことであつたことだらうと思ひます。死ぬ二タ月ほど前から、彼女は私を病床のそばから離したがらず、常に私の姿を追ひ求めてをりました。彼女の衰弱といふ事実によつて、初めて私が、彼女の永年の希望であつた正常の夫の位置に立ち得た、とは何たることでありませうか?
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村山知義は、鎌倉の長谷大谷戸の家で仕事をするとき、いつも妻が病臥する枕元に机をすえて原稿を書いている。それが晩年の村山籌子には、夫がどこにも連れ去られず、いつでも自分のそばにいることを確認でき、心底から安心できる光景だったのだろう。
村山知義は、ただ泣いてばかりで「お別れの会」後も、席を立つことができなかった。彼の心中では、「私に信頼し、愛し、まとひつき、隙間のないよろこびを育て上げようとしては失望を味はされ続け、魂をくだかれてしまつた彼女の身」を想い、後悔と懺悔で打ちのめされつづけていると、心情を1946年(昭和21)9月18日の日録で吐露している。
◆写真上:名越坂踏み切りから眺めた、名越切り通しが通う小坪火葬場の山(正面右手)。
◆写真中上:上は、自邸が建て替え中の1927年(昭和2)4月に下落合735番地のアトリエClick!で撮影された村山籌子。下は、人とめったに出会わない名越の山中。
◆写真中下:上は、横須賀線が通過する名越の山。中は、鎌倉幕府が人馬の通行用に拓いた名越切り通し。下は、鎌倉武士の「墓マンション」のような曼荼羅堂やぐら。
◆写真下:上は、村山知義の追悼文を代読した宇野重吉(左)と、「お別れの会」で司会をつとめた原泉(右)。中は、村山籌子の童話を朗読した三島雅夫(左)と河原崎しず江(右)。下は、1954年(昭和29)に撮影された村山知義と上落合時代の旧友たち。手前が村山知義で隣りが中野重治Click!、立っているのが佐多稲子Click!。