大正から昭和にかけて、下落合の地図を年代順に眺めていると、少なからずモヤモヤしてくる一画がある。現代では地元で「目白学園」Click!と呼ばれることが多い、下落合西端の高台にある学校のキャンパスだ。
1923年(大正12)の設立から、地図上に採取されている学校名を列挙すると、研心学園、城北学園、目白商業学校、目白女子商業学校、桐ヶ丘中学校、目白学園中学校、目白学園高等学校、目白学院、國學院高等学校、目白学園女子短期大学、目白研心中学校・高等学校、目白大学と、ときに数年おきで地図上に採取される名称がめまぐるしく変わり、学校の経営主体が次々に変わっているのではないかとさえ思える。
だが、「國學院高等学校」と採取された一部キャンパスや校舎の國學院大学への貸与時期を除き(「目白学院」は誤採取か誤植だろう)、これらはすべて設立当初から同一の学校なのだ。しかも、経営は(財団法人化される以前を含め)1929年(昭和4)より一貫して(財)目白学園であり、校名のたび重なる変更は同学園の100年におよぶ苦難の歴史をそのまま反映している。これらの校名の中で、わたしがもっとも親しんだネームは、やはり下落合で長くつづいた「目白学園女子短期大学」と「目白学園中学校・高等学校」だろうか。
また、地元で「目白学園」と学校の総称で呼ばれることが多いのは、戦後すぐに発見され発掘調査が進んだ、旧石器時代から後代までつづく数万年におよぶ重層遺跡、「目白学園落合遺跡」Click!という呼称も影響しているのかもしれない。また、同学園の多くの出版物が各時代の個別の学校名ではなく、学校法人目白学園となっていることも要因のひとつだろうか。きょうは、いまさらながらだが下落合の西端(現・中落合4丁目)にある「目白学園」について取りあげてみたい。
1923年(大正12)4月に、下落合2186~2227番地(代表地番は下落合2217番地が多い)の広大なキャンパスに2棟の大きな校舎を建て、1,000名の生徒を集めて開校したとき、同校は「研心学園」の名称だった。もともと雑司ヶ谷で武道場「研心館」を開いていた佐藤重遠が創立者だが、郷里の宮崎県延岡からやってきた若者たちを寄宿舎に住まわせ、「研心会」という名称で教育を施していたのが研心学園の前身となった。
下落合に研心学園を創立した当時、佐藤重遠は駿豆鉄道の社長であり、当然ながら下落合で目白文化村Click!を販売しているまっ最中の堤康次郎Click!とは近しい仲だったろう。また、箱根土地本社Click!が国立Click!へ移転し、下落合の元・本社ビルClick!へ次に入ったのが中央生命保険の倶楽部というのも濃いつながりを感じる。佐藤重遠は、大正末から中央生命保険の専務取締役に就任しているので、目白学園の敷地も中央生命倶楽部のビルも、おそらく堤康次郎が仲介ないしは譲渡している可能性が高い。ふたりは趣味の武道でも、気が合う同士だったのかもしれない。
堤康次郎と佐藤重遠は1924年(大正13)、衆議院選挙へ同時に立候補して当選し政界へ進出している。だが、佐藤重遠は中央生命保険での背任行為が発覚し、1934年(昭和9)に懲役2年の判決を受け議員辞職をしている。さらに、1937年(昭和12)には衆議院選挙での選挙違反を問われて禁錮4ヶ月の判決を受け、以降は政界へ復帰することはなかった。学校の創設者であり理事長が、上記のようなありさまだったので、実務をまかされていた教育現場のスタッフたちはたいへんな思いをしただろう。「先生、警察に二度も捕まらないでください! 生徒や親たちに示しがつかない」と、誰もが思っていたにちがいない。
最初の逮捕のとき、佐藤重遠は理事長を辞職して、かわりに妻の佐藤フユが同職に就任している。目白学園が、ことさら女子教育に熱心で評判になったのは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)出身だった佐藤フユ理事長の功績が大きいからだろう。庄次竹二郎の二女として生まれた佐藤フユは、死去する2年前の1956年(昭和31)まで学園教育の第一線に立ちつづけ、夫の佐藤重遠よりも先に他界している。
当時、目白学園では誰からともなく「散りそで散らぬは目白の桜と重遠」と、創設者への皮肉をこめた戯歌が詠まれるほど、経営手腕はともかく根っからの教育者だった佐藤フユの死は、少なからず惜しまれたようだ。夫にかわり目白学園の理事長であり各学校の校長だった佐藤フユだが、ほんとうは絵画あるいは短歌の道へ進みたかったらしい。生涯を目白学園の経営と教育に忙殺されることになり、1958年(昭和33)に急死したのも修学旅行に関する研修会が行われていた北海道の宿泊先でだった。
研心学園のスタートは、当初から波乱含みだった。2005年(平成17)に出版された、『目白学園八十年史』(目白学園八十年史編纂委員会)から引用してみよう。
▼
研心学園は各種学校であった。正規の中学校の設置者は、当時の「私立学校令」によれば財団法人である必要があったが、その設立が間に合わなかったことによる。研心学園は普通部と実業部を併せ持ったが、このうち実業部というのは商業教育の過程のことであり、これが後の目白商業の中核となる。/こうして出発した研心学園であったが、創立の年の九月、あの関東大震災に遭い、たちまちにして経営困難におちいった。やむをえず、学校の縮小ということになり、多くの教職員に向けて退職勧告が出されたが、それに対する教職員全員による拒否にあい、かえってそこに熱意を見たことによって経営の士気が高まった。この後、いったん城北学園に校名を変更して、それに合わせて財団法人を作り、法令上の中学校を立ち上げようとはかり、しかしなお準備整わず、断念のやむなきにいたるという経緯もあった。
▲
校名を「城北学園」に変更し、財団法人化と中学校設置を申請したのは1926年(大正15)で、その申請を取り下げたのが1928年(昭和3)なので、研心学園時代が3年間、城北学園時代はわずか数年ということになる。このあと、1929年(昭和4)に財団法人目白学園を設立し、1935年(昭和10)に目白商業学校が開設されている。
それから9年後、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」にもとづき、男子が商業を習うことが禁止され、1944年(昭和19)に目白商業学校は目白女子商業学校に改称されて、男子の募集は行わなくなった。ただし、それまで在学していた男子生徒はそのまま通学してきたので、学校名は異なるが戦時中では非常にめずらしい、同一キャンパスにおける中学校レベルの「男女共学」が実現している。しかし、それも翌1945年(昭和20)3月までで、「戦時教育措置要綱」により全生徒は勤労動員に駆り出されている。
戦後は、1947年(昭和22)に新たな学校教育法のもとで名称を「桐ヶ丘中学校」(翌年には「目白学園中学校」と改称)とし、新制中学の建設が間に合わない新宿区の女生徒200名も受け入れている。1951年(昭和26)に財団法人から学校法人目白学園に変更されたが、生徒数の減少にともなう経営難で学校当局は苦境に立たされた。戦後の新制中学校が義務教育化と無償化を実現したため、私立中学校の廃校が各地で続発していた時代だった。翌1952年(昭和27)に目白学園高等学校を開校するが、それでも経営は好転しなかった。そこで経営難を解消しようと、國學院大学との提携話が浮上してきた。
当時、國學院大学では文学部と高等部の新設が課題となっていたが、そのためには校舎と敷地の確保が不可欠だった。そこで、目白学園の校舎1,500坪と校庭6,500坪の借地権を國學院大学(の文学部)にゆずり、そのかわり目白学園中学校・高等学校の経営を委任するという条件だった。1948年(昭和23)に両校は合意し、将来的な合併をも視野に入れた契約を交わしたはずだった。
ところが、この話は裁判沙汰にまでこじれてしまう。つづけて、同書より引用しよう。
▼
ところが、二四年(1949年)四月に実際に移転してきたのは、大学(文学部)ではなく目白学園と競合する高等学校であった。校名変更や校長人事などをめぐる行き違いをきっかけとして、目白学園側では学校存続という当初の計画に対して危惧が生まれ、契約の解釈や履行のあり方について、國學院側と意見の衝突が生じた。この争いはついに二五年(1950年)四月、契約解除並びに國學院使用建物の明け渡し請求の訴訟に発展した。請求は退けられ、本学園の敗訴となったが、控訴中に行政の仲裁で和解が成立し、学園が元の形に戻ることになったのは、三一年(1955年)七月であった。(カッコ内引用者註)
▲
この裁判の最中に、学園内で教職員組合が結成され、ベアや学園の民主化、経営問題などをテーマに経営陣=理事会側と鋭く対立した。加えて國學院大学との裁判を抱え、目白学園の経営陣は疲れはて「もう、どうにでもなれ!」と思ったかもしれない。同学園史には、「学園の存立にかかわる不幸な状況を生んだ」とだけ書かれているが、長い目白学園史の中でも最大の危機ではなかっただろうか。佐藤フユが理事長を辞任しているのも、國學院側との和解が成立して学園がもとの状態にもどった同年(1955年)のことなので、学内外に裁判騒動の責任をとったかたちなのかもしれない。
裁判が和解するとともに、学園内の争議も収束していき、1960年(昭和35)を迎えるころには新たに目白学園幼稚園を設置している。そして、幼児教育につづき1963年(昭和38)には、高等教育機関である目白学園女子短期大学を新設した。このころからようやく経営も安定しはじめ、1967年(昭和42)には女子教育研究所をオープンしている。
めまぐるしい変遷を繰り返した目白学園だが、少子化の影響で幼稚園は閉園(2000年)したものの、現在では目白大学(大学院)をはじめ、目白学園短期大学部(旧・目白学園女子短期大学)、目白研心中学校/高等学校(旧・目白学園中学校/高等学校)という構成になっている。大正期からの地図を順を追って参照していると、少なからず目を白黒させてしまう目白学園だが、2023年で創立100周年を迎える伝統や歴史があるにもかかわらず、過去に拘泥せずに前を向きつづけるところが同学園の大きな特色なのだろう。
◆写真上:眼下には、旧・下落合と上落合の街並みが拡がる目白学園キャンパス。
◆写真中上:各時代の地図にみる目白学園で、上空から「カフェーブラジル」の宣伝チラシを撒いていた飛行機が墜落Click!(1925年)したのは研心学園時代の校庭。
◆写真中下:上から下へ、昭和初期に撮影された目白商業学校時代の登校風景、同校の運動会、入学記念写真(1931年)、目白女子商業学校時代の授業風景(1944年)、そして戦後に耕地整理を終えた上高田側から眺めた目白学園の丘。
◆写真下:上は、2005年(平成17)に出版された『目白学園八十年史』(左)の内扉と、大正期から戦後まで目白学園を経営した佐藤フユ(右)。下は、正門に向かう五ノ坂の登下校風景を撮影した写真。目白商業学校時代の1930年代とみられる下校風景(上)で、五ノ坂の両側はいまだ宅地開発が進んでいない。次は、1960年代とみられる目白学園高等学校の生徒たちの登校風景(中)で、左手の大谷石による擁壁は五ノ坂にある古屋邸Click!のもの。戦前から宅地開発が進み、下落合西部の坂道は佐伯祐三Click!が描いた蘭搭坂(二ノ坂)Click!の画面Click!と同様に、ひな壇状の擁壁が次々と築かれていった。つづいて、五ノ坂の現状(下)。遠望の風景は変わったが、五ノ坂の風情はそれほど変わっておらず、車庫の設置で道路と水平にする必要から、取り払われることの多い大谷石の擁壁もそのままだ。