7年ほど前に、「『長崎町誌』に感じてしまう違和感」Click!という記事を書いたことがある。周辺の町々、たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の『高田村誌』Click!、1930年(昭和5)の『高田町政概要』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、1933年(昭和8)の『中野町誌』Click!などと比べ、あまりに内容がなさすぎて貧弱だった。
町役場の町長や幹部連をはじめ、長崎町の有力者、各学校の校長、郵便局長、青年団長、在郷軍人会長、椎名町町会長、国粋会などの地域ボス、なぜか他地域のお呼びでない区会議員(日本橋区会議員なのが恥ずかしい)、町誌の執筆者などが巻頭のグラビア全ページを飾り、それぞれ個人的な紹介と顕彰ばかりを本文中でも繰り返し、「町誌」とタイトルしてはいるが、まるで自己顕示欲充足メディアか選挙用の宣伝媒体パンフレットのような内容と化していた。きわめつけは巻末の町役場全職員名簿で、いったい町の様子や町民の暮らしはどこにいったのだ?……というような、非常にお寒いコンテンツだった。
周辺地域の町誌史に比べ、あまりにもひどい内容なので上記の記事となったわけだが、『長崎町誌』の出版から1年足らずで、長崎町はもう一度『長崎町政概要』という名の書籍を出版している。そして、「町政概要」と名づけてはいるが、『長崎町誌』ではなぜかほとんど無視されていた長崎町の北部(町誌では長崎町の南部が中心)も含め、町の名所旧跡や伝承、行事なども町の地図などを挿入しながら詳しく紹介している。こちらのほうがよほど町誌らしい構成や体裁であり、事実『長崎町誌』とほとんど重複する記述(概要、地理、沿革、人口と戸数、行政財政、教育など)も多々みられるのだ。
なぜ、2年つづけて「町誌」を出版するような、こんなムダなことをしているのだろうか? 最初は、『長崎町誌』ではいまだ長崎町2887番地に計画中だったとみられる、町政が注力していたライト風デザインClick!の新・長崎町役場が存在せず(『長崎町誌』出版時は、新庁舎予定敷地に隣接する日本家屋が仮庁舎だった)、その竣工を記念して『長崎町政概要』を改めて作成しているのかと思ったが、正式な町役場庁舎の竣工時期はあらかじめ計画当初から判明していたはずだ。そのタイミングで『長崎町誌』を出版すれば、わずか11ヶ月ほどのズレでなんら問題はなかったはずだ。
おそらく、町民たちから「なんだ、あの町誌は? 面(つら)洗ってつくり直せ!」という、少なからぬ不満の声が上がったのではないだろうか。「世界大恐慌で暮らしが厳しいというのに、あんなものに町民の血税を協賛出費したのか!?」という声が高まり、ついでに「この苦難の時代に、ライトを真似たオシャレな新庁舎を建設するカネがあるなら、町民の暮らしに還元しろ!」、「豪華なモダン新庁舎をつくるために、税金払ってんじゃねえぞ!」とかなんとか、住民たちの不満が爆発したのではなかろうか。事実、『長崎町政概要』は前年の『長崎町誌』とはまったく異なり、人物写真がただの1点もなければ、歯の浮くような美辞麗句を並べて町の有力者やボスたちを顕彰する文章も皆無となっている。
なぜ、町民たちからの強い不満や抗議を感じるのかというと、『長崎町政概要』に「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」という、別刷りのリーフレットが付録のように挿みこまれているからだ。つまり、今日でいうなら地上2階・地下1階の新庁舎建設に関する、建設総工費の項目別詳細報告書を情報公開したといったところだろう。
町民から、「贅沢な新庁舎の建設に関して、われわれの税金がどのようにつかわれたのか明細を見せろ!」とか、「戸数も人口も多く、税収が倍近くもある隣りの落合町は、住宅に毛の生えたようなボロい町役場のまんまなのに、なんで長崎町はライトの自由学園Click!みたいな豪華庁舎が必要なんだよ!?」とか、怒りや不満が町役場にドッと寄せられたせいで、急遽、新庁舎建設にかかった経費概要を一般に公開せざるをえなくなり、急いでリーフレットを別刷りして『長崎町政概要』に挿みこんでいる……、そんな気配が濃厚なのだ。
これら町民の抗議や不満を意識したのか、『長崎町政概要』にはいわずもがなの「序」が、長崎町長の鴨下六郎によって書かれている。同概要より引用してみよう。
▼
町民相集つて、長崎町といふ一家を形成し、家族である町民が一致協力して、一家である本町は興る。換言すれば、我長崎町が完全に成長して行く為には何と云つても全町民の愛町心に愬へなければならぬ。/自分の住む郷土を尊敬し、愛護し、公共の為めには労苦をも惜まぬ町民の覚悟があつて初めて、大長崎町建設の目的は達しられる。
▲
要するに「愛だよ愛、それに犠牲精神」と、不満や抗議の声をつまらない感情論でかわそうとしているようだが、前年の『長崎町誌』を目にし建設中の豪華なライト風町役場を目の当たりにした町民たちは、こんな子どもだましの文章に納得できはしなかっただろう。町役場がなにをしようが、「ムダづかいを黙って見てるのが郷土愛なのか? おきゃがれてんだ!Click!」……と、かえって町民たちから強い反発を招いたのではないだろうか。
『長崎町政概要』には、もうひとり協賛会長の岩崎満吉の「序」がつづくが、ライト風の新庁舎建設に関して、いいわけがましい文章がつづく。再び引用してみよう。
▼
昭和五年二月、町会に於て、役場庁舎改築の議を決し、木造二階建本館及付属建物総延坪二百四十八坪七合二勺の設計に基き四月十七日より工事を起し、茲に落成の運びに至つたことは、御同様慶賀に堪えない。殊に此の改築は、町債を起すことなく、全町民の自力を以て、之が実現を見たのであつて、より一層衷心より祝福するところである。只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾ありと雖比較的理想に近いものとして諒とすべきである。而も町費を以て及ばざる施設の一部を援助するの目的を以て、茲に協賛会が組織されたのであるが、これ又、町内有志諸賢の熱誠なる御協賛を辱ふし、相当の成果を挙げ得たことは、燃ゆるが如き愛町心の発露を雄弁に物語るものであり、当事者として、感謝に辞なきところである。(赤文字引用者註)
▲
長崎町役場の庁舎は、まったくの新築だったはずなのに、あえて「改築」などと言い換えている点にも留意したい。モダンでオシャレな新庁舎なのに、いくら「改築」だと言葉だけ変えても町民の目はごまかされず、まったく納得も了解も得られなかったのではないか。
この一文で、コトのなりゆきがなんとなく透けて見えてくる。町議会で、町債の発行を前提とせず町費のキャパシティを超えるような、新庁舎の予算が計上されることなどありえない。当初に予定されていた膨大な建設予算が、町民たちからの抗議や異議申し立てのせいで、途中から見直さざるをえず減額縮小されたのだ。そのため急遽、町の有力者で構成された「協賛会」を設置せざるをえなくなった。この協賛会自体も、豪華な庁舎建設を推進した町長や、長崎町議会議員たちが重ねて名前を連ねているのだろう。
「只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾あり」とは、その設計や意匠から建物の構造が当初は庁舎全体、あるいはその大部分を鉄筋コンクリート造りにする計画だったと思われる。なぜなら、基礎工事から地下室の建設まで、すべての工程がRC(鉄筋コンクリート)構造で進められていたからだ。ところが、工事がスタートしてしばらくしてから、「なぜ、そんな豪華な町役場が必要なのか?」という声が、町のあちこちから強まりだしたのだろう。そこで、上部の2階建ての庁舎は木造モルタル構造に変更して予算を緊縮し、それでも足りない経費は「協賛会」を組織して募金しているように見える。
また、新庁舎問題とは別に、前年の『長崎町誌』に対する不平不満も、住民たちから数多く寄せられたにちがいない。「金剛院や長崎神社が載ってるのに、なんで天祖神社や五郎窪稲荷神社を無視しゃがるんだよ!?」と、各社の町内氏子連はこぞって抗議の声を上げただろうし、長崎富士Click!を掲載してるのに「なんで粟島弁天社や千川上水の史跡や、地蔵堂や観音堂を素どおりするんだよ!?」と、長崎町の中北部からは不満の声が頻々と聞こえてきただろう。『長崎町政概要』には、ようやく町内全体をなんとかカバーできる主だった旧跡・史蹟・石碑などが、地図とともに紹介されている。ただし、五郎窪(五郎久保)稲荷社Click!はなぜか今回も取りあげられていない。
『長崎町政概要』(長崎町役場)のライターは、『長崎町誌』(国民自治会)と同じく長崎町大和田2118番地の塩田忠敬だが、今回は自身のポートレートを巻頭グラビアにちゃっかり1ページ挿入して掲載などしていない。w 町誌が出てから半年もたたないのに、再びオーダーを受け「また書くんですか? ほう、今度は町政と町の歴史や史蹟を中心にですね」と引き受けた彼は、1929年(昭和4)の暮れから1930年(昭和5)の前半期にかけて町内で起きた、さまざまな動向や騒動のたぐいを熟知していただろう。「1年足らずで町誌を二度も書けて、ギャラをもう一度もらえるんだから、ま、いっか」とホクホク顔だったのかもしれない。
豪華でオシャレな新・長崎町役場については、竣工直後の鮮明な外観や建物内部の写真が手に入ったので、『長崎町政概要』に挿みこまれた工費報告書と併せ、近いうちにご紹介したい。「おたくは自由学園か!」と周囲から突っこみを入れられそうなほど、ファサードから窓枠のデザインまで、自由学園の付属施設だと思うぐらいソックリなのだ。
◆写真上:こちらのほうが町誌らしい体裁の、1930年(昭和5)出版の『長崎町政概要』。
◆写真中上:『長崎町政概要』の目次で、折りこまれた全町の地図には公共施設や名所旧跡が記載されている。目次の内容は、前年の『長崎町誌』とほとんど変わらないが、町内の歴史や史蹟、伝承・伝説などのページが増加している。
◆写真中下:上は、実質の町誌らしく長崎町全域にわたって町内の公共施設や名所・旧跡が紹介された折りこみ「長崎町地図」。中は、『長崎町政概要』の奥付。下は、町誌らしい構成や記述が増えた『長崎町政概要』本文の一部。
◆写真下:上は、前年の『長崎町誌』ではパスされていた粟島社(粟島弁天社)。中は、同じくパスされていた目白天祖社(長崎天祖宮)。下は、著者の自宅からそれほど離れていないのに今回もなぜか取りあげられていない五郎窪(五郎久保)稲荷社。