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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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鼠山で馬上から鉄砲を撃つ徳川吉宗。

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鼠山1.JPG
 江戸中期に、将軍家が雑司ヶ谷鼠山Click!で巻狩りをした記録が残されている。元文年間(1736~1741年)と推定され、おそらく将軍の側用人と思われる人物が残した貴重な随筆だが、当時は8代将軍・徳川吉宗の時代だった。ちなみに雑司ヶ谷鼠山という地名は、現在の雑司ヶ谷地域の位置とは異なり、現在の下落合の北側に接する目白3~4丁目一帯のことだ。東京35区Click!に移行する1932年(昭和7)10月まで、同所は雑司ヶ谷旭出と呼ばれたが、35区制施行と同時に目白町(のち1966年1月に目白)と改称されている。
 狩りの一行は、あらかじめ目的地の狩り場を鼠山と決めていたので、千代田城Click!の内濠にある田安門から牛込門(牛込見附)をへて北上し、神田上水から分岐した江戸川Click!にぶつかると川沿いに進み、江戸川橋Click!から目白坂Click!を上りはじめている。このときの狩りは、「戸田筋」Click!にあたる幕府の鷹場役所や付近の農村で結成された鷹場組合が担当していたとみられ、狩り場の鼠山がある長崎村や雑司ヶ谷村、あるいは池袋村では、将軍の“御成り”を待ちうけて準備を整えていただろう。ちなみに、下高田村は「中野筋」の狩り場エリアにあたり、「筋」ちがいで役所も別だった。
 また、隣接する「中野筋」の下落合村では、隣接筋での狩りなので役所も組合もなんら事前準備をしていなかっただろうが、相手が「筋」ちがいのドッキリ狩りをやりかねない形式ばった規則や規範が嫌いな徳川吉宗なので、万が一のときに備えた“見張り”を御留山Click!の北へ配置していたかもしれない。ただし、徳川吉宗の狩りはざっくばらんな“無礼講”のケースが多く、役所や組合もそれほど緊張はしないで済んだものだろうか。
 このころになると、将軍の狩りは地域へ少なからぬ使役を強いる半面、かなり多くの現金を地元に落としてくれるイベントとなっていたため、狩りを迎える地元側もそれほどイヤではなかったフシが見える。一度の狩りで、狩り場の組合(村々)から使役・経費の見積書が提出されると、幕府勘定方の役所から当該の村落へ数十両単位の現金が支給Click!される仕組みになっていた。また万が一、田畑へ獲物や狩り手が入りこんで荒らしてしまった場合には、幕府から相応の損害賠償金も支払われている。いまも昔も、農村において大きな現金収入が見こめる催しや稼ぎは非常に貴重な機会だった。
 狩りの一行は、まっすぐに鼠山へやってきたのではない。まず、目白坂の中腹にある新長谷寺の目白不動尊Click!へ参詣し、目白山Click!(椿山Click!)から江戸市街や千代田城を展望している。「桜も更衣して青葉繁く、老の鶯耳鳴らし」と記しているので、いまの5月下旬ごろのことだろう。晴れて空気が澄んでいれば、麹町や溜池はもちろん、愛宕山から浜御殿、さらに陽光を反射する江戸湾までがきれいに見えていただろう。次に、護国寺の参道(現・音羽通り)を通って護国寺に参詣し、そのあとおそらく神田久保Click!の谷を金川(弦巻川)Click!沿いに抜け、金山Click!の麓から清戸道Click!に出たあと、高田四ッ谷町(四ッ家町)Click!あたりから表参道に入り雑司ヶ谷鬼子母神Click!へ立ち寄っている。
 ここで、一行は境内に軒を並べる茶屋(料理屋)の1軒に入って、鬼子母神名物の蕎麦切を注文している。近々、将軍の狩りが近くであると、おそらく茶屋の人々はウワサには聞いていただろうが、いきなり将軍一行が現れて蕎麦切を注文するとは夢想だにしなかっただろう。従来の形式ばった、儀式のような前例踏襲の狩りを嫌う徳川吉宗は、大人数で大名行列のようにゾロゾロ出かける狩りを否定し、少人数で細かな予定を立てず柔軟かつ気軽に出かけているようだ。外出の名目は狩りだが、多分に民情視察の傾向も強かったと思われる。
目白不動堂1935.jpg
護国寺.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
 注文から間をおかず、いちおう千代田城の主人を意識したのか「山の如く盛り立てゝ」出てきた蕎麦切に加え、一行は酒も少し注文して飲んでいる。このあたり、江戸では庶民から将軍にいたるまで、小腹満たしには蕎麦Click!が好まれていたのがわかる。
 騎馬を中心とした狩りの一行は、夜明けとともに千代田城を出発しているとみられ、この時点で巳ノ刻=四ツ(午前10~11時)ごろだろうか。「腹をふくらし」た一行は、神田上水の流れを見たあと、休息しに長崎村の抱え屋敷へと向かった。元文年間に確認できる抱え屋敷とは、長崎村のどのあたりにあったのかは不明だ。この時点で、かなり傷みが激しい屋敷だったようなので、ほどなく取り壊されたのかもしれない。
 この抱え屋敷での様子を、狩りに参加した側用人とみられる如鷃舎千伯(もちろんペンネームだ)の随筆『江戸櫻』から少し長いが引用してみよう。
  
 長崎村抱屋敷へまかりしに、久しう見ざれば荒たきまゝの垣根いぶせく、あやしきまでゆがみたる所に毛氈敷きていとう草臥たり、枕よと呼ぶに松の木引切りて興かるさま折にふれておかしく、許されぬおもひあらばむくらの宿に寝もしなん、ひしき物には袖をなしつゝも古事迄おもひ出れといかな夢をむすぶべくもなく、下より蚤の持上るもうるさし。火焼家心細く煙立て屋敷守る何某がさまさへ田舎びて心苦敷、此日巳に過レハ命即衰滅する事小水の魚のことし、斯に何の楽かある。老かゝまりたるあはれさいく程なく見ゆ。(中略) さらはとて行道すから麦刈る側から芋植ゆる百姓の心遣ひ世話敷こそ、落合川の流に車しかけて臼を挽てごほごほ鳴るもおかしく、此ほとり面影橋又姿見の橋といふあり、蘆間を鷭のかよふさま、水鶏はたゝき草臥てや昼寝姿、ぎようぎようし鳥かしましく時鳥はいつも聞よし、此の川辺蛍多しと云ふ。
  
 長崎村にあった幕府の抱え屋敷へ立ち寄った一行だが、質素倹約を旨とする徳川吉宗の時代なので、おそらく手入れの勘定方予算がつかず、かなりボロボロに朽ちていたのだろう。いまにも朽ち果てそうな、縁側あたりへ毛氈を敷いて横になり昼寝をしようとしたが、下から蚤の攻撃にあって眠ることができなかった。
 記録の文章が前後しているが、長崎村へ入る前に下高田村と下戸塚村に架かる面影橋Click!神田上水Click!の様子を観察している。江戸川橋から目白坂を上り、そのまま清戸道をまっすぐ西へ向かえばほどなく鼠山だが、一行はジグザグに遠まわりをしながら狩り場へと近づいていることがわかる。この行程から推察できるのは、やはり「狩り」を名目にしてはいるが、吉宗はあちこち町々や農村の様子を見てまわる民情視察がメインだったのではないだろうか。麦秋で麦を刈る農民を観察し、刈ったあとにはすぐに芋を植えている様子を記録するなど、田畑の農作業の段取りを取材しているフシさえうかがえる。
面影橋1919.jpg
金子直德「雑司ヶ谷目白高田落合鼠山全図」寛政.jpg
フランス式彩色地図1880_1.jpg
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 また、著者が地元に取材して知ったのか、あるいは通称として浸透していたものか、神田上水のことを「落合川」Click!と呼ぶ記述が興味深い。江戸期からすでにそう呼ばれていたようで、明治以降も落合地域には旧・神田上水のことを落合川と呼んでいた人々がけっこういる。でも、いまのところ妙正寺川を「落合川」と呼んでいたのは、林芙美子Click!ひとりしか知らない。おそらく、地元の人たちの話を斜めに聞いた勘ちがいだろう。
 面影橋の近くにあった水車小屋にも立ち寄り、臼で麦粉を挽く様子を見学しているようだ。この水車は、面影橋から下落合村方面へ直線距離で400mほどのところ、現在の源水橋近くの流れに古くからあった水車小屋と思われる。いまだ江戸中期の著作なので、ホタル狩りの名所は面影橋の周辺と記述されている。
 長崎村の抱え屋敷で一服したあと、午後からようやく鼠山Click!での狩りがはじまった。
  
 鼠山の御狩に加わり御場先に行て何某誰某おもひおもひの出立目さましく待請奉るに通御ありて平勢子の声高く鉄砲の音しきりなれば馬に便り鎗おつ取り伏す猪夢をやぶりて三ツ四ツ荒れ走るを上の御筒にて屠り又洩るゝを追ふ。御麾に随ひ走引する事誠に花々しき御有様いふも更なり、彼れは幾ツ予は何疋と突留めを競ひ射芸の人は弓の弦を鳴らし矢尻を磨く武のたしみ、狐兎など出るを劣らじと追かけ、上には御馬上の御名誉幾つとなき御獲物御機嫌不斜御小休へ被為入御宴の御席へ召して御酒給し仰言有て数献に及び勢を増し又追ツかへつして日もかたぶければ、還御ならせ給ふ、
  
 この巻狩りで「上」=御上(おかみ)=吉宗は、馬上から「筒」=鉄砲でイノシシをしとめていたようだ。儀式めいて形骸化した「将軍家の狩り」ではなく、騎馬で鉄砲や鎗、弓矢を使いながら実戦さながらに獲物を追っていた様子がうかがえる。
 登場している巻狩りの徒歩(かち)の「平勢子」たちが、付近の村落から集められた農民たちで、このときは長崎村や池袋村、雑司ヶ谷村などから参加していただろうか。彼らは留守にする自身の田畑仕事を日雇取(ひようとり)=1日アルバイトの農夫にまかせて狩りに参加しており、その日雇取の賃金も幕府勘定方が負担していた。
 ちょっと余談だが、江戸東京地方で「うちのかみさん」という表現に、最近「神」の字をあてるのを見かけるが、もちろん連れ合いは神ではなく人間なので「上」が正しい。特に(城)下町Click!の妻は、家内では将軍と同様に最高経営意思決定者(CEO)の「御上(おかみ)」Click!であり一家の主柱という意味で、江戸後期から「お上(さん)」あるいは丁寧語で「お上さま」(幕末~明治期)と呼びならわされている。
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 『江戸櫻』の著者である如鷃舎千伯は、徳川吉宗のかなり身近で狩りの様子を記録しているので、吉宗とは非常に近しい関係だったのだろう。「(お)上」の姿をとらえた文面からは、それほど緊張感や畏怖の念は感じられず、「上司の姿」を描く側用人らしい気軽な雰囲気が漂っている。徳川吉宗は、落合地域で20回ほど狩りをしているので、もし下落合村にある御留山での狩りの様子を記録した文献が残っていれば、改めてこちらでご紹介したい。

◆写真上:北側にゆるやかな傾斜面がつづく、鼠山(目白3~4丁目)界隈の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された目白不動堂(新長谷寺)。は、護国寺の本堂。は、吉宗一行が蕎麦切を食べた雑司ヶ谷鬼子母神。
◆写真中下は、1919年(大正8)に撮影された木製の面影橋。は、寛政年間に描かれた金子直德Click!の「雑司ヶ谷目白高田落合鼠山全図」。は、1880年(明治13)作成のフランス式彩色地図をベースに描いた吉宗一行の鼠山狩りコース。
◆写真下は、『武蔵国雑司谷八境絵巻』(早稲田大学収蔵)のうち「鼠山小玉 長崎之内」。鼠山の上部に描かれた、古墳と見られる大きなドーム状のふくらみは幕末までに整地され撤去されている。は、3葉とも現在の鼠山とその周辺。

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