前回の記事Click!では、おおよそ大磯の成り立ちと東京から見た“立ち位置”についておおざっぱに書いたけれど、今回は見つけた古写真をもとに、わたしが実際に子どものころから目にし、記憶している光景を中心に書いてみたいと思う。まず、平塚の海辺から何度この橋をわたって、祖父Click!や親とともに、あるいは友人たちとこの橋をわたったろうか。花水川に架かる、懐かしい木製の下花水橋だ。
写真は、わたしが生まれる前の1955年(昭和30)に撮影されたものだが、同年すぎに一度補修工事が行われているものの、わたしがもの心つくころから目にしてきたのがこの橋だった。ときに歩いて、小学生になってからは自転車でよくわたったのを憶えている。花水橋を西へわたると、ほどなく大磯町へと入る。わたしが子どものころ、この汚れた川ではうなぎが釣れたせいか(いまではもっと釣れるだろうか)、釣り人の姿をときどき見かけた。大磯を散歩するとき、必ずわたる橋が下花水橋だった。
わたしが小学生から中学生にかけ、ボーイスカウトClick!に入っていたときは、毎年1月1日の午前3時30分に起床し、近くの公民館へ数人の班ごとに集合したあと、徒歩で、あるいは自転車で下花水橋をわたり高来(たかく)神社へたどり着くと、そこから高麗山を登りはじめて湘南平(千畳敷山)まで尾根伝いに山道を歩いた。湘南平の山頂で、初日の出を迎えるのがキマリになっていたわけだが(ほんとに迷惑なキマリだったが)、もちろん山道は真っ暗なので懐中電灯で方向を確かめながら歩くことになる。
ほとんど肝試しの世界だが、集合場所から山の麓にある高来社までが3kmの夜道、同社から延々と真っ暗なつづら折りの山道を進むこと(途中から上下の尾根道もあるので)およそ3km弱ほどだ。平地の夜道はともかく、高来社から湘南平までの山道はなにも見えない真っ暗闇で、いまから考えれば厳寒の中、よく崖地などで滑落事故などが起きなかったものだと感心してしまう。当時は、小学生だけが数人で湘南平をめざして登っていったが、現代では親たちが心配して保護者同伴でなければ許さないだろう。転落して負傷しそうな、あるいは足を滑らせて落下しそうな崖地や急斜面が何箇所かある山道だった。
湘南平の山頂へまだ暗いうちに到着すると、初日の出を待つことになる。日の出を迎えるころには、バラバラに出発したスカウトたちがいつの間にか山頂に集合しており、当時は残っていたB29Click!迎撃用に造られた高射砲陣地Click!のコンクリート台座へ全隊員が上って、初日の出に3本指で敬礼する。わたしの記憶では、曇って初日の出が見えなかったのが二度あったが、あとは快晴でよく見えた。雨天の場合は中止だが、残念ながら大晦日に雨が降ったことは(懸命な祈りにもかかわらずw)、ただの一度もなかった。
ちなみに、湘南平の山頂に設置された対空砲火用の12.7センチ高角砲だが、大磯町は山の下を低空で侵入する戦闘爆撃機の機銃掃射が主体で、山の上の高射砲は1発も撃てなかったと、子どものころに古老から聞いた。それでも、平塚空襲の際にはB29の編隊へ向けて何発か撃っているのだろうか。隣りの二宮駅前に銅像があるが、大磯や二宮の機銃掃射で両親を失った子の物語「ガラスのうさぎ」は、いまでも読み継がれている反戦童話だ。
ボーイスカウトの隊員たちが初日の出に敬礼している背後には、湘南平の山頂へ1958年(昭和33)に建設されたレストハウスのガラスがピンク色に光って見えた。このレストハウスには親とともに、あるいは友だちとともに何度きたかわからない。わたしはいつも、カレーライスとかき氷、冬場はコーラかクリームソーダを頼んでいた記憶がある。近年、レストハウスも建て替えられたが、リニューアル後もうちの小さな子どもたちを連れて、昆虫採集と海水浴がてら相変わらず何度か訪れている。
大磯を訪れるとき、定宿にしていたのが1898年(明治31)創業の老舗・大内館だ。大正期に建てられたままの旅館時代から、リニューアル後のきれいな3階建て旅館時代まで、こちらも何度訪れたか数えきれない。最近では、4年前にお世話になった。いまでは、蔵だけを残してすっかり現代的な建物になったけれど(蔵は珈琲専門店になっている)、大正期の建物だったころの大内館の印象は強烈だった。
子ども心にはお化けが出そうな旅館であり、1990年前後の建て替え直前には、そこかしこに展示してある同館へ逗留していた作家たちの揮毫や色紙に惹かれた憶えがある。島崎藤村Click!や川端康成Click!、大岡昇平Click!、三島由紀夫Click!、坂西志保……などなど、たくさんの揮毫や色紙が飾ってあっただろうか。もちろん、島崎藤村や大岡昇平は大磯に自邸があったのだが、執筆に集中する際には大内館を利用していたのだろう。そういえば、三岸節子Click!が大磯にアトリエClick!を建設する際、現地の拠点にしていたのも同館だった。
大内館から、国道1号線を100mほど西南側へ歩いたところにあった旅館で、同志社の新島襄が急死している。妻の新島八重Click!が、会津戦争で世話になった松本順を訪ね、別荘敷地を購入した可能性の高いことはすでに書いたとおりだ。
さて、大磯にきたらなにはさておき、日本初の海水浴場で泳ぐことだ。現在は、大磯港ができたせいで照ヶ崎海岸と北浜海岸が分断されているが、わたしが子どものころは突堤があるだけで、砂浜は小淘綾(こゆるぎ)の浜までつづいて見わたせた。大正末に撮影された、照ヶ崎海岸へ下るだらだら坂の写真を見ると、西湘バイパスの高架が存在しないだけで、わたしの子どものころの情景とさほど変わらない。避暑のため大磯に滞在した佐伯祐三Click!と家族たちClick!も、この情景を実際に見ているのだろう。
この坂下には、海岸線の手前に昭和初期にオープンした照ヶ崎海岸プールがある。わたしが子どものころは、ずいぶん古めかしいプールだったので、昭和初期と大差ない施設だったのだろう。リニューアル後は、見ちがえるほど明るくきれいなプールになり、うちの子どもたちはここで20回以上は泳いでいるだろう。なぜ海水浴場で泳がないのか訊くと、海の水は目に沁みるからとのごもっともな理由で、せっかく元祖・海水浴場にきているのにプールへ入る回数のほうが多かったような気がする。照ヶ崎海岸プールの背景にクロマツの林でもつづいていれば、もっと相模湾らしい風情が出るのだろうが、西湘バイパスの建設で防砂林はほとんど伐られてしまった。
海水浴や山登りに飽きると、なにか物語のある史蹟めぐりがしたくなるのは、いまも子どものころも変わらない。大磯の海岸から丘陵地帯は古墳の巣のようなもので、大昔(旧石器時代)から住みやすい土地として地域の人々には認識されていたようだ。また、一時期は相模国府が大磯にあり、奈良期から江戸期にいたるまでの史跡も多い。
わたしの好みでチョイスすると、鎌倉初期に「絶世の美女」とうたわれた遊女の虎御前は大磯で暮らしており、いまでも旧・東海道の化粧坂(けわいざか)には、彼女が化粧したといわれる古井戸が残っている。『吾妻鏡』にも、曽我兄弟のエピソードとともに年紀入りで紹介され、墓所も存在することから実在した女性といわれている。明治末に撮られた化粧坂の写真を見ると、現代とあまり変わらないのにも驚く。地元の方々が、風情を後世に残していくために気を配っているのだろう。
また、西行が立ち寄り「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と三夕の歌のひとつを詠んだことで知られる鴫立沢(しぎたっさわ)には、江戸期に日本三大俳諧道場のひとつ鴫立庵Click!(でんりゅうあん/しぎたつあん)が建立されている。江戸初期に小田原の俳人・崇雪が鴫立沢と鴫立庵を訪れ、大磯から眺める相模湾の風光明媚さをめでて、「著盡湘南清絶地」と揮毫して碑文に刻まれた。
以来、大磯を中心に「湘南」という愛称が東西の海岸線沿いに、おもに大正期を通じて徐々に拡がりはじめている。大正期に「湘南」呼称が、「馬入川から小田原あたりまで」と規定され急に西へ伸びたのは、箱根土地Click!の堤康次郎Click!が東海道線の電化をにらんで開発していた、国府津の別荘地開発と無縁ではないだろう。下落合の「不動谷」ケースClick!と、まったく同じ経緯を大磯でも強く感じる。彼の起業時には妻の実家がある下落合にあった堤邸だが、現在では大磯の国府本郷にある。わたしの子どものころ鎌倉を「湘南」に含めると、大磯よりも街の歴史が古い生粋の鎌倉人Click!たちは(おそらく現在も変わらない)、「ここは湘南なんかじゃない!」と青筋を立てたものだ。
昭和初期に、鴫立庵の西行堂(円位堂)をとらえた写真が残っている。手前に4歳ぐらいの男の子が立っているが、その服装から別荘へ遊びにきている東京か横浜あたりの子どもだろう。西行堂をはじめ茅葺きのままの鴫立庵は、わたしが子どものころの情景とほとんど変わらない。変わった点といえば、下水道が整備されてきたのか、庵を流れる鴫立沢からドブの臭いが消えたことだろうか。ちなみに、松本順の墓碑はこの鴫立沢の中にある。また、坂田山心中Click!の比翼塚も、いまでは大磯駅裏の坂田山から鴫立庵へと移されている。
国道1号線を西へたどると、いまでも旧・東海道と重なる道筋には、昔ながらのクロマツの大木の並木がそのままつづいている。大隈重信や陸奥宗光、伊藤博文、池田成彬、西園寺公望(跡)など現存する別荘が左手につづく、西小磯から国府本郷にかけての道筋だが、やがて右手に城山公園(三井家別荘)と左手には吉田茂邸が見えてくる。その先の血洗川をわたると、すぐにプリンスホテルと大磯ロングビーチのエリアなのだが、わたしは子どもたちをそこへ話のタネに一度しか連れていかなかった。大磯の魅力は、そこではない。
<了>
◆写真上:関東大震災Click!で浮上した照ヶ崎へ、丹沢山塊から飛来するアオバトの群れ。当時の地曳きClick!舟の標識写真から、最大2m近く隆起しているとみられる。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)に撮影された下花水橋。この直後に補修工事がされているが、わたしがわたった橋の風情はこの写真とさほど変わらなかった。中は、1959年(昭和34)撮影の湘南平山頂のレストハウス(上)とその現状(下)。下は、大正期の大内館(上)と現在の同館から眺める平塚の潮流観測所から江ノ島、鎌倉方面の眺望(中)、そして大内館が面した国道1号線の並びにある旅館で死去した新島襄の終焉記念碑(下)。
◆写真中下:上は、大正末から昭和初期に撮影された照ヶ崎海岸へ下りる坂道(上)と海水浴場の海の家(下)で、佐伯一家も同じ風景を見ていただろう。中は、昭和初期に撮影された照ヶ崎プール(上)とその現状(下)。下は、1970年(昭和45)ごろ撮影の開通した西湘バイパス。周辺にあった土木作業員用の飯場Click!が、次々に姿を消していったころだ。
◆写真下:上は、明治末に撮影された化粧坂(上)と虎御前の化粧井戸(下)の現状。中は、昭和初期に撮影された別荘の子だと思われる男の子が立つ鴫立庵の西行堂(上)とその現状(中)、そして安置されている西行像(下)。下は、1955年(昭和30)に撮影された旧・東海道の松並木だが、現在でもあまり変わらない風情を楽しむことができる。